三行の告白と非効率な選択
とある放課後。
理と一ノ瀬は下駄箱から少し離れた、人目につきにくい植え込みの影に立っていた。
理は木の幹に背を預け、腕を組んでいる。
一ノ瀬は落ち着かない様子で、下駄箱の列を眺めていた。
「本当に来ると思いますか」
「来る。
手紙の頻度からして、三日以内に接触を試みるはずだ。
今日がその三日目だ」
「よくそんなことまで」
「観察と推測だ。特別なことじゃない」
二人はしばらく黙って待った。部活動の生徒たちが次々と下駄箱を通り過ぎ、昇降口を出ていく。
時刻は五時半を回り人影がまばらになってきた。
そのとき、理の目が、一人の生徒を捉えた。
一年生の男子。
制服の着こなしが少しだけ不器用で、背は低く、肩を縮めている。
彼は下駄箱の列に近づくと、一ノ瀬の下駄箱の前で立ち止まった。
そして、周囲をきょろきょろと見回してから鞄から小さな封筒を取り出した。
「……来たな」
理は小さく呟いた。
一ノ瀬が息を呑む。
男子は封筒を下駄箱に入れようとして手を止めた。
何度も何度も手を近づけては引っ込める。
緊張しているのが遠目にもわかる。
結局彼は、封筒を入れられずそのまま手に握りしめて立ち尽くしていた。
「行くぞ」
理は植え込みの影から歩き出した。
一ノ瀬が少し遅れてついてくる。
男子は、二人が近づいてくるのに気づいてびくりと肩を震わせた。
逃げようとして、足がもつれる。
その場にへたり込んだ。
「待て。逃げる必要はない」
理は男子の前に立ち、見下ろした。
男子は顔を真っ赤にして涙目で理を見上げた。
「ご、ごめんなさい……ごめんなさい……」
「謝る相手が違う」
理は一歩横にずれた。
その背後から一ノ瀬が姿を現した。
男子は一ノ瀬を見て、息を止めた。
「あ……」
「あなたが、手紙を?」
一ノ瀬の声は驚くほど穏やかだった。
男子はうなずくことすらできず、ただ震えていた。
「三上、です……一年二組……」
「三上くん。どうして、直接話しかけてくれなかったの?」
三上は、喉の奥から絞り出すように言った。
「生徒総会で……一ノ瀬先輩が、壇上で発表してるのを見て……それから、ずっと……」
「それから?」
「話しかけたくて……
でも、どうしたらいいかわからなくて……
手紙なら、迷惑にならないかなって……
思って……」
三上は、握りしめた封筒を一ノ瀬に差し出した。
手が震えている。
一ノ瀬はそれを受け取った。
「……三行?」
「はい……それ以上、書けなくて……」
一ノ瀬は封筒を開け便箋を取り出した。
そして、少しだけ笑った。
「ありがとう。嬉しいです」
三上は、ぱっと顔を上げた。
信じられないという表情だった。
「で、でも……ストーカーみたいで、気持ち悪いですよね……」
「最初は、ちょっと怖かったよ」
一ノ瀬は正直に言った。
三上はまた俯いた。
「でも、話してみたら全然怖くない。
ただ人とのやりとりがちょーっと不器用な後輩だっただけ」
「……え」
「次からは、直接話しかけて。
手紙じゃなくて」
三上は涙をこぼしながら何度も何度もうなずいた。
そして深く頭を下げ、振り返らずに走り去っていった。
その背中を見送って、一ノ瀬は小さく息を吐いた。
「なんだ、そんなこと、でしたね」
「そうだな」
理は腕を組んだまま、三上の消えた方向を見ていた。
「これで解決だ。お前のメンタルも守られた。
仕事のしわ寄せも来ない。完璧な結末だ」
「はい。本当に、ありがとうございました」
一ノ瀬は、理に向き直って丁寧に頭を下げた。
それから、顔を上げて爽やかな笑顔で言った。
「このご恩は忘れません。
……それで、ちょっと話は変わるんですけど」
「なんだ」
「今、生徒会で学校祭実行委員の人手が足りなくて。
早瀬くんみたいに、冷静で観察力があって段取りの無駄がない人に、是非ともお願いしたいんですけど」
理は、一瞬、言葉を失った。
「……今の流れで、なぜそうなる」
「え、だって、早瀬くんすごく有能じゃないですか。
さっきの推理も的確だったし、三上くんのこともちゃんと解決してくれたし」
「それは、僕が解決したんじゃない。
お前が受け入れたからだ」
「でも、きっかけは早瀬くんです」
一ノ瀬は、にこにこと笑っている。
その笑顔に一切の悪意はない。
純粋な、感謝と期待の笑顔だ。
だからこそ断りにくい。
理は、頭の中で素早く計算した。
拒否した場合のペナルティ。
一ノ瀬との関係が悪化するリスク。
生徒会からの印象。今後の学校生活への影響。
そして、承諾した場合のコスト。
実行委員の仕事量。時間の拘束。面倒事の増加。
ペナルティの方が、大きい。
「……わかった」
理は、自分でも驚くほど小さな声で答えた。
「やります」
「本当ですか! ありがとうございます!」
一ノ瀬は、満面の笑みを浮かべた。
その笑顔を見て理は、胸の奥の、名前のつかない場所がまた小さく疼くのを感じた。
そのとき、姉の掟が、脳内で再生された。
——頼まれると断れないのは、お前の弱点だ
理は、その声を無視した。
帰り道。
理は一人、夕暮れの商店街を歩いていた。
三上のことを思い出していた。
あの震え方。
あの赤面。
あの、絞り出すような声。
どうしたらいいかわからない、という言葉。
理は、小さく息を吐いた。
「非効率だ」
そう呟いて、すぐに訂正した。
「……非効率、だった」
過去形にする意味は、自分でもわからなかった。
三上は、勇気を出した。
たとえそれが手紙という形であっても、彼は一歩を踏み出した。
理はどうか。
理はあの踊り場で、何をした。何もしていない。
正しい距離を保った。
それが最適解だと、思った。
思っただけだった。
胸の奥の、名前のつかないノイズがまた少しだけ大きくなる。
理は、それを無視して歩調を速めた。
——非効率だ。
そう呟いて、理は家路を急いだ。
けれどその言葉は今日は少しだけ、自分に嘘をついているような味がした。
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