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ヒロインとボクとの掟  作者: ぉんじ


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7/27

先輩とボクと下駄箱

六月も半ばに差し掛かると、中間テストの余韻はすっかり教室から消えていた。


答案用紙はファイルにしまわれ、点数を巡る一喜一憂は過去のものとなった。

日常は何事もなかったかのように平穏を取り戻している。

小野は相変わらず補習こそ回避したものの、次の小テストに向けて「早瀬マニュアル第二弾」をねだってきたが、理は「自分で作れ」と一蹴した。


あの告白についても、理の中では処理が完了していた。


夜野紬の「好き」は、人生の転換期に現れた人間を必要以上に特別視する生存バイアス。

理が作った気付きで初めての友人作りに成功したという体験が、感謝と恋愛感情を混線させただけのこと。

距離感のバグ。

そう結論づけて、理は見えない引き出しにしまった。

鍵をかけて。

開かないように。


開かなければ、問題はない。


そういうことにして理はいつも通りの省エネモードで六月を過ごしていた。

授業はそれとなく受けて、休み時間は小野と蓮見と話すか読書。

放課後は小野がバイトの時は寄り道せずに帰る。

時々、屋上へ続く踊り場で黄昏たりもするが。

目立たず、補習にもならず誰の記憶にも残らない。


完璧な平穏。

狙い通りの安定。

それでいいはずだった。


その日も、理はいつも通り下駄箱で靴を履き替えていた。


時刻は午後五時を少し回ったところ。

部活動に勤しむ生徒たちの足音が遠くから聞こえるが、下駄箱付近には人影が少ない。

理は自分の下駄箱を開け、ローファーを取り出して上履きを放り込む。

この一連の動作に一分とかからない。

毎日繰り返してきた、無駄のない手順だ。


その手順を終えて顔を上げたとき、理はすぐ隣の列で立ち尽くしている女子生徒に気づいた。


一ノ瀬葵(いちのせ あおい)。二年二組、生徒会書記。

成績優秀品行方正、学年でも指折りの優等生として知られている。

理とはクラスが違うため直接の接点はないが、朝礼で壇上に立つ姿や生徒会便りに載る名前で存在は把握していた。


その一ノ瀬が自分の下駄箱を開けたまま、中をじっと見つめていた。


表情は硬い。

眉根が寄り、唇が薄く開いている。

何かを見つけてそれをどう処理すればいいかわからない、そういう顔だった。


理は視線を逸らした。

関わらない。

それが正しい。

彼女には彼女の問題があり、僕には僕の平穏がある。

下駄箱から距離を取って、そのまま昇降口を出ればいい。

そう判断して、一歩踏み出した。


「……なんなのよ、もう」


その声が、耳に引っかかった。


独り言だった。

誰かに向けたものではない。

けれど声音に、疲労と困惑がにじんでいた。理は歩みを止めた。

振り返るつもりはなかった。

なかったのだが、体が勝手に反応して横目で一ノ瀬の様子を窺ってしまった。


一ノ瀬は、下駄箱の中から一枚の封筒を取り出していた。

白い、飾り気のない封筒。

宛名は書かれていない。彼女はそれを手のひらに載せ、ため息をついた。


「三通目……」


その呟きが、理の耳に届いた。


三通目。

つまり、これが初めてではない。

理の脳内でいくつかの情報が自動的に整理されていく。

白い封筒。

宛名なし。

下駄箱に直接投入。

三通目。

これだけの材料で、おおよその状況は推測できた。


——ここで関わるべきではない。


理の理性がそう告げている。

事勿れ主義。平穏第一。

余計なことに首を突っ込まない。

それがこの二年生生活を乗り切るための最適解だ。


けれど。


一ノ瀬の横顔を見た。

疲れていた。眠れていないような、目の下の薄いくま。

日頃から生徒会の仕事で忙しいのだろう。

その上で、こんな手紙に悩まされている。理は小さく息を吐いた。


見過ごすことはできなかった。

理由はうまく説明できない。

ただ、見過ごした場合後々になって


——あのとき声をかけておけば


という後悔が発生する確率が、声をかけるコストを上回ると判断した。

それだけのことだ。


理は歩みを戻し、一ノ瀬の隣に立った。


「それ、手紙か」


一ノ瀬が顔を上げた。

驚いた表情で理を見る。

理は彼女の名前と顔を知っていたが、彼女は理のことを知らなかった。


「……え、と」


「二年三組、早瀬理。通りすがりだ」


「あ、はい。一ノ瀬です」


「知ってる。生徒会書記の」


一ノ瀬は手紙を握りしめたまま警戒するように理を見た。

無理もない。突然知らない同学年に声をかけられたのだ。

けれど理は気にせず、彼女の手の中の封筒に視線を落とした。


「三通目、というのは本当か」


「……聞こえてました?」


「聞こえた。悪いと思っている」


一ノ瀬は少し迷った様子で、それから観念したように頷いた。


「二週間前から。最初は下駄箱に。

次は教室の机の中。今朝、また下駄箱に」


「差出人の名前は」


「ないです。中身も、一言だけ」


「見せてくれ」


一ノ瀬はためらった。

けれど理の目が真剣だったので、封筒から便箋を出して理に差し出した。


便箋には、たった三行、丁寧な字でこう書かれていた。


『いつも見ています。

今日も素敵でした。

お体に気をつけてください』


理は数秒、それを黙って見つめた。

それから便箋を一ノ瀬に返した。


「犯人は特定できる」


「え?」


「いや、犯人は不適切な表現だ。訂正する。

これは犯罪ではない」


一ノ瀬は目を丸くした。


「どういうことですか」


「まず筆跡。

丁寧だが、三行目の『お体に』の部分で微妙に乱れている。

書いては消した痕跡がある。

つまり、書いた人間は計画的だが決行の勇気がない。

次に内容。『いつも見ています』『今日も素敵でした』

——これは脅迫でも要求でもない。

純粋な賞賛だ。

三つ目、投入方法。

下駄箱と机の中。

いずれも相手の生活動線を熟知している必要がある。

つまり、犯人は一ノ瀬さんの日常をよく知る人物だ」


「……それって、ストーカーじゃないんですか」


「違う。

ストーカーは相手に恐怖を与えることを目的とするか、あるいは目的としないまでも相手の拒絶を無視して接触を続ける。

だがこの手紙は、一ノ瀬さんが拒絶する余地すら与えていない。

一方的だが、暴力的ではない。

これは犯罪ではなく未遂に終わっている告白だ」


一ノ瀬は、しばらく黙っていた。

それから少しだけ表情を緩めた。


「……そんな風に分析する人、初めてです。

ストーカーじゃないんですね……」


「僕はただ、事実を並べただけだ」


「で、でも。

告白ならどうして直接言わないんですか」


「だからだ」


理は端的に答えた。


「直接言えないから、手紙を書く。

手紙も直接渡せないから下駄箱に入れる。

つまり、相手は極度の——いやこれは分析ではなく推測になるが——重度の人見知りだ。

一ノ瀬さんと話す勇気がない。

だから距離を縮められない。

その結果が、これだ」


一ノ瀬は、はっとしたように手の中の封筒を見下ろした。


「じゃあ……私、怖がりすぎてた?」


「恐怖を感じるのは正常な反応だ。

だが、相手に悪意はない。

おそらく一ノ瀬さんを傷つける気も、困らせる気もない。

ただどうすればいいかわからないだけだ」


理は、自分の言葉が少しだけ引っかかるのを感じた。

どうすればいいかわからない。

それは、どこかで聞いたような台詞だった。

けれど理はその違和感を無視して、話を続けた。


「放置すれば、相手はさらにエスカレートするか逆に完全に引き下がるかのどちらかだ。

前者なら面倒が増える。

後者なら、一ノ瀬さんは何も知らないまま終わる。どちらも効率が悪い」


「じゃあ、どうすれば」


「特定して、話をさせる。それだけだ」


一ノ瀬は、理の顔をじっと見た。その目に少しだけ信頼の色が混ざる。


「……協力して、くれますか」


「協力というほど大げさなものじゃない。

ただ、これ以上この件で一ノ瀬さんが消耗すると生徒会の書類仕事に支障が出る。

そのしわ寄せが、いつか僕のところに来る可能性がある。だから先に片付ける」


「それ、協力って言うんですよ」


「違う。リスク管理だ」


一ノ瀬は、くすりと笑った。初めて見せる柔らかい笑みだった。


「早瀬くんって、面白い人ですね」


「面白くはない。合理的なだけだ」


理はそう言って、下駄箱の扉を閉めた。

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