踊り場とボクと狂騒曲
六月最初の月曜日。中間テストの答案が返却される日だった。
朝の教室はいつもより二割増しで騒がしい。
答案用紙を手にした者たちの悲喜こもごもが、教室のあちこちで小さな渦を作っている。
「生き残ったーーー!!」
その絶叫が教室の入口付近から響いた瞬間、理は自分の世界史の答案から顔を上げた。
小野が答案の束を両手で天に掲げて仁王立ちしていた。
周囲のクラスメイトが「うるさい」「何それ」と口々に言いながらも、その顔には少しの羨望が混じっている。
「早瀬大明神! 俺、全科目赤点回避した! 補習もバイトのシフトも死なずに済んだ!」
「だから大明神じゃない」
理はそっけなく返した。答案用紙をめくる。世界史、七十四点。狙い通りだ。
「お前のマニュアル、まじで神だった。
数列は初項に公差を足すだけ、古典は活用表だけ酸化数は増えたら酸化減ったら還元。
これだけで平均三十点超えた」
「赤点回避の最低条件を満たしただけだ。褒めるほどのことじゃない」
「いや褒めるって。
俺、去年からずっと補習常連だったんだぞ」
小野が興奮冷めやらぬ様子で理の机に手をつく。
理はそれを軽く払いのけて、隣の席の蓮見に視線を移した。
蓮見は自分の答案を広げて、涼しい顔で点数を確認している。
「どうだ」
「五十位以内はキープ。予想通りだな」
「だろうな」
理は自分の答案をすべて机に並べた。
世界史七十四、現国六十八、数学B六十二化学基礎七十。
平均より少し上、学年順位で百五十位前後。
狙い通りの完璧な安定スコア。
これが理の「勝利条件」だ。
目立たない。
補習にもならない。
進級も危ぶまれない。
誰の記憶にも残らない、ちょうどいい位置。
この位置を維持することこそが、平穏な二年生生活を送るための最適解だった。
「早瀬はほんと、そつがないな」
蓮見が単語帳をしまいながら言った。
「そつがないんじゃない。そつがないように計算してるだけだ」
「それがそつがないって言うんだよ」
理は返事をせず、答案をファイルにしまった。
午前の授業が終わり、昼休みに入った直後のことだった。
教室の入口付近が少しだけざわついた。
弁当を広げていた男子が箸を止め、窓際の女子たちがひそひそと顔を寄せる。
理は顔を上げた。廊下側の扉のところに、一年生が立っていた。
夜野紬だった。
白いシャツに紺のスカート、そして──青い上履き。
一年生の靴だ。
二年生のフロアに青い靴がいる。
それだけで、この階の空気が微妙に変わる。
まるで異物が混ざったときのような、静かな緊張。
夜野は少しだけ緊張した顔で、それでもまっすぐに教室の中を見渡し理を見つけると小さく息を吐いた。
「早瀬、一年の子が来てるぞ」
前の席の男子が振り返って、にやにやしながら言った。
「……知り合いだ」
「知り合いって、可愛いじゃん。誰?」
「お前には関係ない」
理は立ち上がった。
教室中の視線が背中に刺さるのを感じながら、廊下に出る。
夜野は一歩下がって理を見上げた。
「先輩、お疲れさまです」
「どうした」
「あの、テスト、無事に終わりまして」
「そうか」
「それで、今日の放課後少しお話しできませんか」
夜野の声は、震えていた。
けれど目は逸らさなかった。
理は一瞬、答えを保留した。
教室に戻れば小野と蓮見が絶対に冷やかす。
他のクラスメイトも、この一年生が誰なのかを詮索するだろう。
面倒なことこの上ない。
「……何の話だ」
「それは、その、放課後にお話しします」
「ここでいい」
「だめです」
夜野は首を振った。
それから、少しだけ声を落として言った。
「先輩の教室の前だと、みんな見てますから」
理は夜野の青い上履きを、もう一度見た。
一年生がわざわざ二年生のフロアまで来る。
それだけで、夜野が何かを覚悟して来たことくらい理にもわかる。
「わかった。放課後、4階の中央階段前で待ってろ」
「はい!」
夜野の顔がぱっと明るくなった。
その笑顔を見て、理は胸の奥の、名前のつかない場所が小さく疼くのを感じた。
昼休みの残り時間、理は小野と蓮見に冷やかされ続けた。
「お前、あの手紙の子……夜野さんとまだ繋がってたのかよ!」
「繋がってるわけじゃない。向こうが勝手に来ただけだ」
「でも放課後、会うんだろ?」
「話を聞くだけだ」
「話って何の話だよ」
「知らん」
理はおにぎりの残りを口に押し込みそれ以上の追及を拒否した。
蓮見は何も言わずに、ただカフェオレを飲んでいた。
その視線がいつもより少しだけ長く理を見ていたことに、理は気づかないふりをした。
放課後。
4階の中央階段前で夜野と合流した。
「どこに行くんですか?」
「人が来ない場所だ」
理は端的に答えた。教室は論外。図書室は藤村がいる。
消去法で消していった先に、ひとつの場所が残った。
理は無言で扉を押し開けた。錆びた蝶番が小さく鳴る。
普段は誰も使わない屋上へと続く古い階段。踊り場を二つ上った先が、目指す場所だった。
小さな踊り場に着くと、夜野は足を止めた。
「ここ……何ですか?」
「屋上への階段だ。出入り禁止になってる」
壁には小さな看板が貼られている。
「立入禁止」の四文字。
その下に、錆びた扉。
取っ手には壊れた鍵がぶら下がっている。
「えっ、じゃあ……」
「鍵が壊れてる。入ろうと思えば入れる。でも誰も来ない」
夜野は小さな踊り場を見回した。
埃の匂いと、窓から差し込む西日の匂いが混ざっている。
壁にもたれるようにして、理は夜野と向き合った。
「先輩、ここに来たことあるんですか?」
「……たまにな」
その一言に、夜野は何かを感じ取ったようだった。
けれど、その意味をこの時点で理解はしなかった。
理は壁にもたれたまま、夜野を見た。
夜野は少し距離を置いて立っていた。
その距離が、購買で会っていたときより少しだけ近い。
理はそのことに気づいたが、何も言わなかった。
「それで、話って何だ」
夜野は深呼吸をした。
それから、少しだけ笑ってこう言った。
「あの、テストなんですけど」
「うん」
「先輩のおかげで、余裕で赤点回避できました」
「それは良かった」
「先輩パワーで新しく出来た友達と一緒に勉強会をしたりして、楽しく勉強できたおかげです」
「……そうか」
理の声は、少しだけ硬くなった。
フードコートで見た夜野と友達の姿が、脳裏をよぎった。
あれはあれで正しい成果だった。
理が与えたアドバイスが、夜野を正常な方向に導いた。
面倒事は片付いた。合理的な結末だ。
「あの、それだけじゃなくて」
夜野の声が、少しだけ震えた。
「伝えたいことが、あって」
理は壁にもたれたまま夜野を見た。
夕暮れの光が、夜野の横顔をオレンジ色に染めている。
「私、先輩のことが」
一拍。
「すごく……その、恋愛的な意味で好きなんだと思います」
理の頭の中で、何かが軋んだ音を立てた。
燻っていた小さなノイズ。
それが、急に拡大する。
計算しようとしても計算できない。
夜野の言葉が、理の思考回路のどこにも収まらない。
「……待て」
理は、自分でも意外なほど落ち着いた声を出していた。
その時、理の中で姉の掟が脳内で再生された。
——後輩の「好き」は「認めて」のサイン。恋愛に勘違いするな
「お前が僕に対して抱いているのは、生存バイアスだ」
「せいぞん……?」
「人生の転換期に現れた人間を、必要以上に特別視する心理現象だ。
僕はお前の赤点回避を手伝っただけの、ただの先輩だ。
お前はその行為を恋愛感情と誤認している。
距離感のバグだ」
夜野は目を丸くして理を見つめていた。
その表情が、理の胸にちくりと刺さる。けれど理は続けた。
「人間関係には、掟がある。
感情の暴走を避けるため依存を生まないため。
僕はそういうふうに生きてきた。
だから、お前の気持ちには応えられない」
言い終えて、理は自分でも驚くほどその言葉がするりと出たことに気づいた。
まるで用意していた台本を読み上げるように。
冷たく突き放すのでもなく、受け入れるのでもなく。
ただ処理するように。
夜野は、しばらく黙っていた。
それからふっと笑った。
「えへへ。そうなのかも、しれないですね」
「……ああ」
「先輩って、ほんと、そういう人ですもんね」
夜野は笑っていた。
けれど、その笑顔の奥で何かが小さく揺れているのを、理は見た。
「じゃあ、これからも、後輩として先輩って呼んでいいですか?」
「ああ」
「よかった」
夜野は頭を下げて、来た道を戻っていった。
青い上履きの足音が、少しずつ遠ざかっていく。
理はしばらく、その場に残った。
壁にもたれたまま壊れた扉を見上げていた。
行こうと思えば行ける。
でも行かない。
それが今の自分にとっての、正しい距離なのだと理は思った。
思った。
思っただけだった。
夕暮れの光が踊り場の床をゆっくりと横切っていく。
理は壁から離れて、階段を降り始めた。
一歩また一歩。青い上履きの足音は、もう聞こえない。
胸の奥に残ったざわめきは明らかに大きくなっていた。
名前をつけることも、処理することもできない小さなノイズ。
理はそれを、自分の中の見えない引き出しにしまい込んだ。
開かないように、鍵をかけて。
けれどその鍵は、最初から壊れていたのかもしれない。
ここまでお読みいただきありがとうございます!
ブクマや評価、感想をいただけると泣いて喜びます!




