後輩と手紙と研がれない言葉
朝の校門前はいつも混沌としている。
早瀬理は自転車を押しながら人波を縫うように歩いていた。
校門の手前で蓮見駿の後ろ姿を見つけて自転車から降りたのだ。
蓮見はいつもの無表情でカフェオレの紙パックを啜っている。
朝から甘いものを飲めるその胃袋には感心する。
「おはよーっす!」
後ろから小野陽介の声が飛んできた。
振り返ると、小野がランニングでもしてきたのかという勢いで駆け寄ってくる。
「なあなあ聞いてくれよ! 昨日面白い話聞いたんだ!」
「朝から元気だな」
「当たり前だろ! 青春は一日二十四時間じゃ足りねえんだよ!」
小野はそう言いながら、声を潛めた。
「でさ、一年に変なやつがいるらしいんだよ」
「変なやつ?」
蓮見が紙パックを揺らしながら反応する。
「おう。教室で手紙をばらまいてる女子がいるんだって。
『友達になりたい』って内容らしいんだけど、その文章がなんかおかしいっていうか……」
「おかしい?」
「ネットのビジネスメールのテンプレをそのままコピペしてるらしくて。
『拝啓』から始まって『敬具』で終わる手紙を同級生に配ってるんだと。受け取ったやつが『脅迫状みたいで怖い』って」
理は小さくため息をついた。
——また面倒な話の匂いがする。
「一年の何組だ?」
「3組。名前は確か……夜野紬。変わった名字だよな」
夜野。
理は頭の中で情報を整理する。
変な手紙を配っているか。
中学まで同じ顔ぶれの学区で過ごしてきて高校で初めて人間関係の構築に失敗するやつは毎年一定数いる。
——まあ、自分には関係ない。
「でさクラスでは誰も相手にしてくれないからか最近は購買とかでも配り始めたらしくて——」
「お前たち」
突然、背後から声がかかった。
三人が振り返ると生活指導の上田先生が腕を組んで立っている。
「朝から立ち話とは感心だな。そんなに暇なら教室で自習していろ」
「いやあ、これはその、情報交換というか……」
小野が慌てて言い訳を並べる。
「情報交換は休み時間にやれ。ほら、さっさと教室に行け」
上田先生に追い立てられるように、三人は歩き出した。
小野が小声で「続きは後でな」と言い、蓮見は相変わらずの無表情でカフェオレを啜っている。
理は校舎に向かいながら空を見上げた。
五月の空は高く澄んでいる。
——夜野紬、か。
まあ、自分には関係ない。そう思いながら。
昼休み。
購買は戦場と化していた。
焼きそばパンを求める生徒たちがカウンターに殺到し、理はその喧騒を少し離れた場所から眺めていた。
今日は朝コンビニでおにぎりを買ってきている。購買に並ぶ必要はない。
そのまま中庭にでも行こうかと思ったとき人の流れから外れた場所で小柄な女子生徒が封筒を配っているのが見えた。
黒髪のショートカット。大きな瞳が印象的だが、その表情はひどく強張っている。
靴は青色。一年生だ。
「あのっ! これっ!」
彼女が男子生徒に封筒を差し出す。
男子生徒は怪訝な顔で受け取ったが中身を一目見ると「ああ例の……」という顔で友人と目配せし足早に去っていった。
彼女おそらく夜野紬は、去っていく背中をじっと見つめていた。
その目が、諦めと期待と不安で揺れている。
そして、次の標的を探してキョロキョロと周囲を見回した彼女の視線が理と合った。
「あっ」
夜野が弾かれたように近づいてくる。
「先輩っ! これ、これ読んでください!」
差し出された封筒。
理は無言で受け取った。中を開けると、几帳面な文字で書かれた文章が目に入る。
『拝啓 突然のご連絡失礼いたします。
私、一年三組の夜野紬と申します。
この度はぜひ先輩と親交を深めたくお手紙を差し上げた次第です。
つきましてはご都合のよろしい日時をご教示いただければ幸いです。
何卒よろしくお願い申し上げます。
敬具』
なるほど。
理は顔を上げた。
夜野紬。
一年生。
小柄でショートカットの黒髪がよく似合っている。
大きな瞳が今不安そうに理を見つめていた。
指先が微かに震えている。
「これ、お前が考えた文章なのか」
「は、はいっ」
彼女はこくこくと何度も頷いた。
「ネットで調べました。
友達の作り方って検索して、そしたら『まずは手紙で丁寧に自己紹介を』って書いてあって、テンプレートがあったので……」
「テンプレートをそのまま使ったのか」
「はい。間違ってたら失礼になると思って、正確に書き写しました」
理は封筒を閉じた。
状況はほぼ把握できた。
おそらく中学までは同じ顔ぶれの学区で自然に友達ができていたタイプだ。
高校に入って人間関係をゼロから構築する必要に迫られ、方法がわからずネットのテンプレに縋った。
悪意はゼロ。ただ環境の変化に適応できなかっただけの、凡庸な失敗だ。
「……先輩?」
夜野が不安そうに理の顔を覗き込む。
「私、やっぱり変ですか。
こんな手紙もらっても困りますよね。
でも他にどうすればいいかわからなくて。
話しかけるのも怖くて何を話せばいいかわからなくて——」
「変というか」
理は淡々と言った。
「コミュ力が致命的にバグってるだけだ」
夜野の動きが止まった。
「ば、ぐ……?」
「バグだ。お前がやりたいのは『友達を作る』ことだろ? ならその手紙は完全に手段を間違えてる」
「で、でも、間違えないようにテンプレートを——」
「間違えないことと正しいことは別だ」
理は封筒を軽く持ち上げた。
「この手紙には『夜野紬』という人間が一言も書かれてない。
お前の好きなものも嫌いなものもどんな人間になりたいかも何も書いてない。
これじゃあ受け取った相手は『誰だかわからないやつから変な手紙が来た』としか思わない」
夜野はぽかんと口を開けた。
理は続ける。
「言葉は刃物なんだよ。ちゃんと研がないと振るうたびに自分を傷つける」
「はもの……」
「お前は今、錆びた刃物で自分の首を切ってるようなもんだ。
ネットのテンプレは誰かの言葉だ。
お前の言葉じゃない。
他人の言葉を借りて友達を作ろうとしても友達は『お前』じゃなくて『テンプレ』としか認識しない」
夜野は封筒を胸に抱えたままじっと理を見つめていた。
その目が、徐々に潤み始める。
「……先輩は」
「なんだ」
「先輩は、私のことバカにしないんですか」
「バカにはしてる」
即答すると、夜野は泣きそうな顔で小さく笑った。
「でもちゃんと見てくれた。
私が何をしたくて何ができなくてどこで間違えたか。
他の人は手紙を見て『キモッ』で終わりだったのに」
理はため息をついた。
「僕はただ、面倒なことを早く終わらせたいだけだ」
「めんどう……」
「その手紙を配るのはやめろ。その代わり、どうしても友達が欲しいならまず一人に絞れ」
「一人……」
「『友達になってください』じゃなくて『一緒にパン食べませんか』でいい。
相手の名前を呼んで、お前の言葉で話せ。
内容はなんでもいい。
趣味の話でも好きな食べ物の話でも昨日見たテレビの話でも」
夜野は黙って聞いている。
「テンプレをなぞるより、下手でも自分の言葉で話した方が百倍マシだ。
言葉は研いで使え。そうすりゃ少なくとも自分を傷つけることはなくなる」
理は封筒を彼女に返した。
「じゃあな」
「あ、待ってください!」
背を向けた理に、夜野が声をかける。
「先輩の名前!」
「早瀬」
振り返らずに答える。
「早瀬理。二年。覚えなくていい」
それから一週間後。
放課後のジェスコ・フードコート。
「先輩! 今日は一緒にポテト食べましょう!」
理は頭を抱えていた。
隣には夜野紬がいる。トレイに乗せたポテトを嬉しそうに頬張りながら理の顔を覗き込んでいる。
「なんでいるんだ」
「だって先輩、私の恩人ですから!」
夜野は一週間前とは別人のように明るい表情だ。
どうやら彼女は理のアドバイスを真面目に実行したらしい。
まずクラスで隣の席の女子に「一緒にパン食べませんか」と声をかけそこから少しずつ会話ができるようになり今では数人の友人もできたという。
「それでなぜ僕のところに来る」
「先輩にだけは、どんなにバグった会話しても大丈夫だと思ったので!」
「思うな」
「それに先輩、いつも一人でポテト食べてるから友達いないのかなって」
「いるわ」
理は向かいの小野と隣の蓮見を指差した。
「あっこの前カフェオレ飲んでた人!」
夜野が蓮見を見て言う。
蓮見は無表情のまま会釈した。
「えっとそれじゃあこっちの先輩は……」
「小野陽介! よろしくな!」
小野が満面の笑みで手を振る。
「ていうか早瀬、お前いつの間に後輩ゲットしたんだよ!」
「ゲットしてない」
「でもこの子早瀬にべったりじゃん!」
「やめてくれ」
夜野はくすくす笑っている。
「私、先輩に会うまでは人と話すのってルールを守らなきゃいけないものだと思ってました。
テンプレート通りにやれば大丈夫だって。
でも先輩は『お前の言葉で話せ』って言ってくれて……すごく楽になりました」
そう言ってから夜野はポテトを一本つまみ少しだけ言い淀んだ。
「私中学までは普通に友達いたんです」
「……ほう」
「小学校から中学校まで、みんな同じメンツで上がってきてたから。
何もしなくても友達はいたし話しかけてくれる人もいたし……だから高校でもなんとかなると思ってたんです。でも」
彼女は笑った。
少しだけ自嘲気味に。
「四月に教室に入った瞬間、誰も私のことを知らないんだって気づいて。
話しかけなきゃいけないんだって焦ってネットで調べてでも方法がわからなくて……気づいたら手紙を配ってました」
「なるほどな」
理はポテトを口に運びながら短く答えた。
「小中がヌルゲーだったせいで対人スキルのマニュアルがアップデートされてなかったわけだ」
「ぬるげー……」
夜野がきょとんとした顔をする。
「先輩、ゲームで例えるの上手いんですね」
「別に上手くはない」
理は内心で合点がいった。
やはりそうだ。
彼女はただの変質者でもなければ生まれつきのコミュ障でもない。
単に環境の変化に適応するスキルを学ぶ機会がなかっただけの、ごく普通の凡庸な人間だ。
そういうやつは一度やり方を覚えれば勝手に動き出す。
「別に当たり前のことを言っただけだ」
理はポテトをつまみながらそっけなく答える。
「でもなあ早瀬」
小野がニヤニヤしながら言った。
「お前、また『面倒なことを早く終わらせたい』とか言いながら、結局ちゃんと助けてるよな」
「違う」
「違わねえって。なあ蓮見?」
「そうだな」
蓮見がカフェオレを揺らしながら言う。
「こいつの『面倒』は、『見捨てる』じゃなくて『最短ルートで解決する』だからな。
結局、放っておけないんだよ」
「お前らな……」
理が反論しようとしたとき、夜野が笑顔で言った。
「先輩って、ツンデレなんですね!」
「違う」
「ツンデレですよ! ツンデレって呼びます!」
「だから違う。やめろ」
小野と蓮見が同時に吹き出した。
フードコートに笑い声が響く。
理は深いため息をついて窓の外を見た。
夕焼けがジェスコの看板をオレンジに染めている。
——まあ、悪くないか。
少なくとも以前のように一人で空回りしているよりは。
理はスマートフォンを取り出した。
そして、何かを思い立ったようにメッセージアプリを開く。
宛先は——『早瀬遥』。
しばらく画面を見つめてから、ゆっくりと文字を打ち込んだ。
『掟の「言葉は刃物。研がずに振るうと自傷する」。姉さんの言葉、今回役に立ったよ。』
送信。
数秒後既読がついてすぐに返信が来た。
『刃物は相手を切る前に、まず自分を切ることもあるからね〜。
おさむはちゃんと柄のところを持ててる? あと一度研いだ刃は手入れを怠るとすぐにまた錆びるからこまめに使ってあげないとダメだよ〜』
理は画面をじっと見つめた。
柄のところを持てているか、だと?
こまめに使え、だと?
「……相変わらず何が言いたいんだか」
そう呟きながらも口元がわずかに緩んでいることに、理自身は気づいていなかった。
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