先輩とカフェと三すくみの方程式
放課後、ジェスコのフードコート。
いつものボックス席に陣取った早瀬理は、目の前に置かれたフライドポテトのカップをぼんやりと見つめていた。
塩の匂いが初夏の空気に混じって鼻をくすぐる。
隣では蓮見駿がいつも通りカフェオレの紙パックを啜っている。
そして向かい側には——
「……はあ」
小野陽介が、まだ一口も手をつけていないポテトを前にして深いため息をついた。
普段なら真っ先にポテトに手を伸ばしどうでもいい噂話をまくし立てる男だ。
それが今日に限っては箸ならぬ指がぴくりとも動かない。
青い顔をして、まるで世界の終わりにでも直面したかのような表情で俯いている。
「小野、ポテト食わないの?」
理が声をかけると、小野はゆっくりと顔を上げた。目が泳いでいる。
「あー……うん。食欲なくてさ」
「お前が食欲なくすとか、明日は雪でも降るんじゃないか」
蓮見がぼそりと言った。小野は力なく笑う。
「いやあ……その、ちょっとさ」
言い淀む小野の様子に、理は小さく眉を寄せた。
普段の小野はどんなにくだらない話でも遠慮なくぶち込んでくるタイプだ。
なのに今日は明らかに何かを隠している。
——面倒な話の匂いがする。
理の危機回避本能が警鐘を鳴らした。
しかしここで「聞かない」という選択肢は、逆に長引かせるリスクがある。
どうせ後で蓮見あたりに「早瀬ならどうする?」と振られるのがオチだ。
「……で、何があったんだ」
理が観念して尋ねると、小野は泣きそうな顔で身を乗り出した。
「聞いてくれるか!? 実はさあ!」
どうやら待ってましたと言わんばかりの反応だった。
「バイト先の先輩でさ、三年の高坂先輩って人がいるんだけど」
小野が通っているのは駅前のコンビニだ。
学校からは少し離れているが、シフトの融通が利くらしくかれこれ半年以上続けている。
「高坂先輩って、すげえ気さくでいい人なんだよ。普段はめっちゃ明るくて冗談ばっかり言っててさ。
でも彼女のことになると急に弱気になっちゃうっていうか……」
「彼女?」
「うん。同じく三年の三好先輩。
めっちゃ美人で、スタイル良くて明るくて、そりゃあ高坂先輩がべた惚れするのもわかるって感じの人なんだけど」
そこで小野は言葉を切り、再び深いため息をついた。
「その三好先輩がさ、例のジェスコに新しくできるカフェのバイトに応募するって言い出したんだよ」
蓮見がカフェオレを啜る手を止めた。理も思わず小野を見る。
「それってもしかして、例のイケメン大学生店長の?」
「そうそれ! もうほんとそれ!」
小野は頭を抱えた。
「高坂先輩、大反対してるんだよ。
『なんでわざわざあんな店でバイトする必要があるんだ』『店長目当てだろ』って。
でも三好先輩は『別に店長目当てじゃないし、ただ新しいことしてみたいだけ』って取り合わなくてさ」
「……ふむ」
「で、その板挟みが俺にまで飛んでくるわけよ。
高坂先輩からは『お前からも彼女に言ってくれ』って泣きつかれるし、三好先輩からは『あの束縛なんとかならないの』って愚痴られるし」
小野はテーブルに突っ伏した。
「俺、バイト行くのが憂鬱でさあ……。
今日もこれからシフト入ってるんだよ……」
理は無言でポテトを一本つまんだ。
——なるほど。これは確かに厄介だ。
問題は三つある。
一つ、小野がこのままでは確実にメンタルをやられる。そうなればこのフードコートでの平穏な時間にも影響が出る。
二つ、小野を介して理たちの元にも面倒な火の粉が飛んでくる可能性がある。
三つ——
「早瀬ならどうする?」
蓮見が、静かに言った。
カフェオレの紙パックを揺らしながら、相変わらずの無表情で理を見ている。
——三つ、こいつのこれだ。
理は心の中でため息をついた。
蓮見は何かを知っていて言っているわけではない。
たぶんただの直感だ。
しかしその直感が妙に的を射ていることを、理はこれまでの付き合いで嫌というほど思い知らされている。
「……別に、どうもしないけど」
「そうか」
蓮見はそれ以上追及せず、再びカフェオレを啜り始めた。
だが小野は違った。
「早瀬〜、なんかいいアイデアない? お前なんかこう、悩み事とかスパッと解決しそうなイメージあるんだけど」
「ない」
理は即答した。
しかし小野の顔を見ると、普段のお調子者ぶりが嘘のようにげっそりとしている。
——これ以上こいつが病むと、明日も明後日もこの調子か。
そう思うと、理の中の天秤がわずかに傾いた。
「……まあ、話だけなら聞く」
「ほんとか!?」
「アドバイスできるかは別だ」
「それでいい! 聞いてくれるだけでいい!」
小野は勢いよく顔を上げ、祈るように手を合わせた。
「実はさ、高坂先輩って普段は本当にすげえ人なんだよ。
仕事できるし後輩の面倒見もいいし、お客さんからの評判もいいし。
なのに彼女のことになると急に『俺なんかじゃダメなんだ』って言い出すんだ」
「具体的には?」
「えっとね……昨日もこんなことがあってさ」
小野は身振り手振りを交えて語り始めた。
高坂先輩は、三好先輩が他の男と話しているのを見るだけで不安になるらしい。
三好先輩が新しい服を着ていると「誰のために着てるんだ」と思ってしまうらしい。
三好先輩がバイトをしたいと言えば「俺から離れたいんじゃないか」と感じてしまうらしい。
「でも高坂先輩、自分でもわかってるんだよ。『こんなこと思う自分が嫌だ』って。なのに止められないって」
小野はテーブルに突っ伏したまま続ける。
「三好先輩は三好先輩でさ、『別に高坂くんを嫌いになったわけじゃない。ただ私の世界が狭すぎるのが嫌なの』って。
高校三年にもなって、彼氏と学校の往復だけで終わるのが怖いんだって」
理は黙って聞いていた。
脳裏に、姉の言葉が浮かぶ。
——三角関係は三すくみ。一人を切れば残りは噛み合う。
このケースは、表面上は「高坂(彼氏)先輩」「三好(彼女)先輩」「カフェの店長」の三角関係に見える。
だが、違う。
恐らく本当の三角形は——
「高坂先輩の不安」「三好先輩の承認欲求」「カフェという舞台」だ。
カフェの店長は、三好先輩にとってカフェという舞台の「外の世界」の象徴でしかない。
仮に店長が消えても、彼女は別の「外の世界」を探すだろう。
三好先輩の欲求も彼氏への不満というより、自分自身への焦りから来ている。
彼女が求めているのは「彼氏以外の何かで自分を認められること」だ。
そして高坂先輩の不安は、その全てを「自分への否定」と受け取ってしまうことから生じている。
——切るべきは、「高坂の不安」か。
いや、もっと正確に言うなら。
——高坂先輩に「普段通りの自分」を取り戻させること。
理は顔を上げた。
「小野」
「ん?」
「高坂先輩って、普段はすごい人なんだろ?」
「うん。めっちゃすごい。仕事できるし、気配りできるし後輩にも優しいし」
「なら、その『普段の高坂先輩』が、彼女にとって一番魅力的なんじゃないか?」
小野はきょとんとした顔で理を見た。
「三好先輩がバイトをしたい理由は『自分の世界を広げたい』からだ。
でもそれは『彼氏の世界が嫌になった』って意味じゃない」
理は淡々と続ける。
「むしろ逆だ。
彼氏といる自分しか知らないから、他の自分も知りたくなった。
つまり彼氏のことは好きなんだよ。
好きだからこそそれに依存してる自分が怖くなった」
「依存……」
「三好先輩は、高坂先輩に認められたいんじゃなくて自分で自分を認めたいんだ。
だからバイトをしたい」
理はポテトをもう一本つまんだ。
「高坂先輩が『いつも通り』でいれば、三好先輩はわざわざ外に承認を求めに行く必要がなくなる。
だって彼女が好きになったのは『普段の高坂先輩』なんだから」
小野はぽかんとしていたが、徐々にその表情が輝き始めた。
「そっか……! そういうことか!」
「それに、そのカフェ、バイトの倍率めちゃくちゃ高いらしいぞ」
蓮見がスマホを眺めながらぽつりと言った。
「え、マジで?」
「ジェスコの新店舗だし、時給もいいし大学生も応募してる。
高校生が受かるかどうか」
「それだ!」
小野は勢いよく立ち上がった。
「三好先輩に伝える! 倍率が高いから、受からなくても落ち込むことないし受かったら受かったでラッキーだし!」
「いや、三好先輩に伝えるのはそれじゃないだろ」
理は呆れて首を振った。
「高坂先輩に伝えるんだよ。
『普段どおりの先輩でいてください。三好先輩が好きになったのは、そういう先輩なんですから』ってな」
小野は目を丸くした。
「……それ、俺が言うの?」
「お前が言うから意味があるんだ。
お前は二人のことを普段から見てる。
そんな後輩から言われたら、高坂先輩も素直に聞けるだろ」
「そっか……そっかあ!」
小野は何度も頷き、そして急に神妙な顔になった。
「でもさ、それだけだとまだ不安かも。
俺今まで高坂先輩の愚痴とか悩みとか、適当に聞き流してた自覚があって」
「なら、それも言え」
「え?」
「『今までちゃんと聞けなくてすみませんでした』って。
その上で『でも早瀬って友達に話したら、こう言われたんです』って伝えればいい」
理はポテトを口に放り込みながら言った。
「お前の言葉と、お前の友達の言葉。
両方で伝えれば説得力も増すだろ」
小野はじっと理を見つめた。
その目が、少し潤んでいるように見えたのは気のせいだろうか。
「……早瀬、お前ってほんと」
「なんだ」
「いや、なんでもない。ありがとう!」
小野は深々と頭を下げると残りのポテトを一気に口に放り込み、勢いよく席を立った。
「俺、今からバイト行ってくる! 高坂先輩と話してみる!」
「おう、頑張れよ」
理が手をひらひら振ると、小野は弾かれたように走り去っていった。
フードコートに静寂が戻る。
蓮見は変わらずカフェオレを啜っていたが、その口元がわずかに緩んでいる。
「……なんだよ」
「別に」
蓮見は紙パックを揺らしながら言った。
「お前、やっぱりそういうの向いてるよ」
「向いてない」
理は憮然として否定する。
「僕はただ、面倒なことが長引くのが嫌なだけだ」
「ふうん」
蓮見はそれ以上何も言わなかった。
だがその「ふうん」には、いろんな意味が込められている気がして理はなんとなく居心地が悪かった。
——
三日後。
放課後のフードコートには、いつもの三人が揃っていた。
小野はすっかり元気を取り戻し、今日もポテトを山盛り注文している。
「いやあ、あれからさあ!」
小野は嬉しそうに話し始めた。
「高坂先輩に俺の言葉で伝えたんだよ。
『今までちゃんと聞けなくてすみませんでした。でも俺の友達が言ってたんですけど、三好先輩が好きになったのは普段の高坂先輩なんですからいつも通りでいいと思います』って」
「それで?」
「そしたら高坂先輩、ちょっと黙ってから『そうだな』って。
なんか憑き物が落ちたみたいな顔してさ」
小野はポテトを一本つまんだ。
「で、後日三好先輩とちゃんと話したらしいんだ。
『バイトしたい理由は、あなたと別れたいからじゃない。自分の世界を広げたいだけだ』って三好先輩が言って高坂先輩も『わかった、応援する』って」
「バイトは?」
「それがさ、蓮見の言った通り倍率すごくて書類で落ちたらしい」
「あらま」
「でも三好先輩、そんなに落ち込んでなくてさ。
『他にもバイトあるし』って。
で、結局二人でそのカフェに客として行く約束したらしい。『新しくできるカフェでデートしよう』って」
小野は満面の笑みでポテトを頬張った。
「いやあ、ほんと丸く収まってよかったよ。
高坂先輩も前より明るくなったし三好先輩も楽しそうだし。
俺もバイトが憂鬱じゃなくなった!」
「そりゃよかった」
理は小さく笑った。
——これで一件落着だ。
高坂先輩は「普段どおりの自分」を取り戻し、三好先輩は外の世界への一歩を踏み出そうとしている。
カフェは二人のデートスポットになった。
三角形は、きれいに噛み合った。
「しかし早瀬ってさ」
小野がしみじみと言う。
「なんでそんなに人のことわかるんだ? まるで恋愛マスターみたいじゃん」
「やめてくれ」
「本当だよな。俺も前から思ってた」
蓮見までが便乗する。
「謎のカウンセラーの正体って、実はお前なんじゃないか?」
「違う」
理は即答した。
「僕はただ、面倒なことを早く終わらせたいだけだ」
「はいはい」
小野と蓮見が顔を見合わせて笑う。
理はため息をついて、窓の外に目をやった。
夕焼けがジェスコの大きな看板をオレンジ色に染めている。
——まあ、これでいい。
平穏が戻った。それで十分だ。
ポケットの中で、スマートフォンが短く震えた。
理は一瞬、動きを止める。
(……まさか)
恐る恐る画面を取り出す。
差出人は——『早瀬遥』。
『三角関係は三すくみ。でも本当に切るべきなのは人じゃなくて不安そのものだったりするんだよね〜。』
理は画面をじっと見つめた。
「……なんで、全部お見通しなんだよ」
呟いて、もう一度空を見上げる。
初夏の空は、どこまでも高く澄んでいた。
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