ジェスコのポテトと平穏な日常
朝のホームルームが終わり一限目の数学が終わり二限目の現代文が終わる頃には清岡高等学校
通称「ジェス校」の空気はすっかり日常のものに戻っていた。
なお「ジェス校」とは、学校の目と鼻の先に大型ショッピングセンター「ジェスコ」があることから
「ジェス校」と呼ばれている。
過去には我が校の生徒が悪さをして出禁になることもしばしばあったという。
早瀬理は窓際の一番後ろの席で、教科書を立てかけるようにして欠伸を噛み殺していた。
初夏の陽射しがちょうどいい温度で差し込んでくる。眠くなるのも仕方ない。
「なあ早瀬」
前方から声が飛んできた。
小野陽介だ。
理が顔を上げると小野は自分の席に逆向きに座ってこっちを見ていた。
相変わらずの軽そうな笑みを浮かべている。
「昨日の放課後さ、バスケ部でなんかあったらしいぜ」
理の心臓が一瞬、小さく跳ねた。
「……さあな」
「バスケ部員とマネージャーで一悶着あったかと思えば、無事平和に解決したみたいでさ。なんか色恋沙汰でもあったのかなって」
「……知らない。そんなことは日常茶飯事じゃないか」
理は平静を装って教科書に目を落とした。
小野はそれ以上追及せず「ま、そうかもなー」と笑って前を向いた。
斜め前の席では蓮見駿が机に突っ伏している。
寝ているのかと思ったがよく見るとスマホで何か読んでいるようだ。
彼は振り返ることもなく、小さく欠伸をした。
理は内心で安堵の息をついた。
——よし。これで昨日のことは完全に過去になった。今日からまた、平穏な日々が戻ってくる。
そう思っていた。
放課後。
部活のない理は蓮見と小野と三人で連れ立って校門を出た。
下駄箱で靴に履き替えながら小野が言う。
「今日どうする? まっすぐ帰るか、それとも」
「ジェスコ行くか」
蓮見が珍しく自分から提案した。理も特に異論はない。
理の通学手段は自転車だ。
家がバス通りから外れた場所にあって小山知駅からも学校からも微妙に遠い。
自転車なら十五分ほどだが、バスだと乗り継ぎが必要でかえって時間がかかる。
冬場はさすがに徒歩になるがそれでも四十五分は覚悟しなければならない距離だ。
基本的には放課後、どこかへ寄る時は理だけ自転車で現地へ向かい、蓮見と小野はバスで合流するのが常だった。
だが今回はジェスコ、徒歩ですぐだ。
「じゃあまたジェスコでな!」
「おう。というかすぐ追いつくよ」
理は駐輪場へと足を向けた。
校舎の入口にある駐輪場はすでに半数以上の自転車が出払っていた。
理は自分の銀色のシティサイクルに跨ると、初夏の風を切ってペダルを漕ぎ出した。
先に歩いてジェスコへ向かった二人を追いかけている間にふと考える。
——こいつらとつるむようになったの、いつからだったか。
蓮見とは一年の頃同じクラスで隣の席になったのがきっかけだ。
互いに必要以上に踏み込まず、それでいて息苦しくない距離感を保てる
そんな稀有な相手だった。
小野は逆に、いつの間にか隣にいた。
気がつけば三人で休み時間で駄弁っては昼飯を食い、こうして放課後にだらだらと過ごすようになっていた。
お調子者だが根は悪くない。
そう思えるから理も付き合いを続けている。
——まあ、悪くない。こういうのが一番だ。*
理はペダルを踏み込んだ。
ジェスコの駐輪場に自転車を停めて1階のフードコートへ上がると、すでに蓮見と小野がいつものボックス席に陣取っていた。
小野は手を振っている。蓮見はすでに紙パックのカフェオレを啜っていた。
「遅かったな」
「自転車だからな。駐輪場がちょっと遠いから遅れる」
理は席に着くなり、小野が差し出したフライドポテトのカップを受け取った。
塩の匂いがふわりと漂う。
「そういえばさ」
小野がポテトを一本つまみながら言った。
「バスケ部の志摩さん今日すげえ元気だったらしいよ。昨日までなんか暗かったのに一夜で吹っ切れたみたいな顔してて」
「……ふうん」
理は平静を装ってポテトを口に運んだ。
「なんか誰かに相談したのかもな。
うちの学校にはさ謎のカウンセラーみたいなのがいるって噂だぜ。
恋愛相談はて人生相談をバッサバッサ解決してくれる謎の存在が」
「誰だそれ」
「さあ? 俺も聞いただけ。
でもいるらしいぜ、そういうやつ」
小野は特に気にした様子もなく、次のポテトに手を伸ばす。
理は隣の蓮見をチラリと見た。蓮見は相変わらずの無表情でカフェオレを啜っている。
「……謎のカウンセラーねえ」
蓮見がぼそりと言った。
「まあ、誰かに相談でもしたんだろ。知らんけど」
その言い方が妙に的を射ていて理は軽く背中が寒くなった。
だが蓮見はそれ以上何も言わずただカフェオレを啜っている。
——こいつ、たまにそういうとこあるんだよな。
理は小さくため息をついた。
「にしてもさー」
小野がポテトをもう一本つまみながら、身を乗り出す。
「最近、うちの学校の女子ってなんかピリピリしてるよな。
三年の先輩たちがGW終わってから一気に彼氏彼女増えたじゃん? その影響かな」
「知らん」
理は短く答えた。
こういうのがいい。
余計なことを考えずに、ただポテトを食べて友達の無駄話を聞き流す。
これこそが平穏の極みだ。
「でもよ、早瀬ってさ」
小野がにやにやしながら理を見た。
「彼女いらないの? 作ろうと思えば作れそうなのにな」
「面倒くさい」
「即答かよ!」
小野が笑い蓮見が小さく鼻で笑った。
理はポテトをもう一本口に放り込む。
——彼女、か。*
昔はそういうことも考えた。中学の頃好きな子がいたこともある。
でもそれは結局うまくいかなかった。
いやうまくいかなかったどころか周りを巻き込んで大変なことになった。
その時に姉が言ったのだ。
——ほら見ろ。恋愛はシステムだって言っただろ。感情だけで突っ走ると、そうなるんだよ
それから理は「恋愛の当事者」になることをやめた。
裏方に徹すれば、傷つくことも傷つけることもない。
「まあ、俺も別にいらないかな」
蓮見がぽつりと言った。
「えー蓮見もかよ。つまんねえなあ」
「つまんなくていいだろ。平和が一番だ」
蓮見のその言葉に、理は心の中で深く頷いた。
そうだ。平和が一番だ。
「そういえばさ」
小野が三本目のポテトを食べ終えた頃また口を開いた。
「ジェスコの一階新しいカフェができるらしいぜ。あの空いてた区画にな」
「へえ」
蓮見が気のない返事をする。
「でさそのカフェの店長がイケメンでうちの学校の女子がバイトの面接受けに行くって騒いでるんだよ。
しかもその店長大学生らしくてさ。そしたら三年の一部の女子が彼氏と別れてバイトに応募するとか言い出して——」
「なんだそのカオス」
理は呆れてポテトを咀嚼した。
「恋愛ってさ、なんでみんなああも必死になるんだろうな」
小野がしみじみと言う。
「俺はまだわかんねえけどさ、好きな人ができるってそんなに人生変わるもんなのかね」
「変わるんだろたぶん」
理は窓の外を見ながら言った。
「良くも悪くもな」
小野と蓮見が少し意外そうに理を見た。
理はしまったと思ってポテトをもう一本口に押し込んだ。
「……なんか、エラそうなこと言ってるみたいだな。忘れてくれ」
「いやなんかわかるかも」
小野がうなずく。
「好きな人ができるとさ、嬉しいことも増えるけど悩みも増えるよな。志摩さんみたいに」
「志摩の話はもういいだろ」
理が遮ると、小野は「そうだな」と笑った。
蓮見は黙ってカフェオレを啜っている。
だがその目はどこか遠くを見ていた。
彼もまた何か思うところがあるのかもしれない。
——こいつにも過去があるのかもな。
理はそう思ったが、深くは聞かなかった。
詮索しないのが二人の間の暗黙のルールだった。
「まあとにかく」
小野が残りのポテトを一気に口に放り込みながら言った。
「俺たちは俺たちで、こうやってポテト食ってだらだらしてるのがお似合いってことだな」
「同感」
理は微笑んで、紙カップをトレイに置いた。
ジェスコを出ると、空はすっかり茜色に染まっていた。
三人は正面玄関の前で立ち止まる。小野と蓮見はバス停へ、理は駐輪場へ。ここが分かれ道だ。
「じゃあな、明日も平和だといいな」
小野が手をひらひら振りながらバス停へ向かっていった。蓮見も小さく手を挙げて、その後に続く。
「お前は大変だな、自転車で」
「慣れてるからあっという間だよ」
理がそう返すと、蓮見は少しだけ口元を緩めた。
笑ったのかもしれない。
二人を見送ってから、理は駐輪場へと歩き出した。
夕焼けがジェスコの大きな看板をオレンジ色に染めている。
自転車の鍵を外しながら、理はスマートフォンを取り出した。
画面をタップするとメッセージの通知が一件。
差出人は——『早瀬遥』。
『おさむ、急にだけれど地元のジェスコが懐かしいよ~。
それはそうともうそろそろ学生には恋愛、恋人、カップル、色恋沙汰で忙しい時期になるわね。三角関係の掟、覚えてる?』
理は画面をじっと見つめた。
「……なんで、僕が今ジェスコの話が出てくるんだよ……エスパーかよ」
呟いて、もう一度空を見上げる。
脳裏に姉の言葉が浮かぶ。
——三角関係は三すくみ。一人を切れば残りは噛み合う
「使うことになるのか、これ」
理は誰にともなく呟いて、スマートフォンをカバンにしまった。
とりあえず、今日は平和だった。それでいい。それでいいのだ。
理は銀色のシティサイクルに跨ると初夏の夕暮れの中をペダルで漕ぎ出した。
家までは十五分。しばらくは、この平穏が続くはずだ。
そう信じたい。
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