事勿れ主義と来訪者。
放課後のチャイムが、清岡高等学校の四階建て校舎に染み渡るように響き渡った。
早瀬 理は、クラスメイトたちが部活や遊びの約束に胸を躍らせる喧騒を背中で聞きながら誰にも気づかれないように教室を抜け出した。
廊下にはすでに数人の生徒たちがたむろしている。理は彼らの会話の隙間を縫うように階段へと向かった。
三階から四階へ。さらにその先へ。
屋上へと続く階段の壁には「立入禁止」の小さなプレートが貼られていたが、理は気にせず足を進める。
屋上へ続くドアの鍵は一年以上前に壊れたままで誰も直そうとしない。
教師たちもこの場所の存在を忘れているのだろう。
おかげで理はこの場所を気に入っていた。
四階と屋上の間にある、三畳ほどの踊り場。
壁には古い美術部のポスターが色褪せて貼られ小さな窓からは中庭が見下ろせる。
田の字型の校舎に囲まれたその中庭は昼過ぎにはもう日が陰り、ひっそりと静まり返っている。
置かれた数脚のベンチもほとんど使われることはなく苔がうっすらと浮いていた。
部活の練習ができるような広さもない、ただの隙間のような空間だ。
理は壁にもたれて座り込み、文庫本を取り出した。
スマートフォンはマナーモードにしてカバンの底。
誰からの通知も今は必要ない。
「青春」という言葉が、理は昔から苦手だった。
いや、正確には——「青春の当事者」になることが怖かった。
教室の隅で、誰かの恋愛話に耳を傾けるくらいでいい。
文化祭の裏方で機材を運ぶくらいでいい。
誰かの人生のメインキャストにならなければ傷つくことも傷つけることもない。
それはきっと、中学二年生の夏に刻まれた小さなトラウマのせいだった。
——おさむ、恋愛はねシステムなんだよ。
脳裏に、姉の声が蘇る。
——感情に流される人間は必ず失敗する。でも、ロジックで動けば誰だって救えるんだ。
理は小さくため息をついて、文庫本のページをめくった。
階段を駆け上がってくる足音に気づいたのは、それから十分ほど経った頃だった。
理は眉をひそめた。この時間にわざわざ屋上への階段を使う人間など自分以外にいるはずがない。
足音は明らかに女子のもので、しかも慌てている。
時折鼻をすするような音も混じっていた。
——面倒な予感がする。
理は静かに文庫本を閉じ、立ち上がろうとした。
しかし逃げるより早くその女子生徒は踊り場に飛び込んできた。
「はぁ……はぁ……」
肩で息をしながら彼女は顔を上げた。
そして理の姿を認めると、大きな瞳をさらに見開いた。
「えっ……誰かいるの?」
理は観念して、軽く手を挙げた。
「悪い。出て行く」
「待って!」
彼女は慌てて理の腕を掴もうとして、思い直したように手を引っ込めた。
その仕草には必死さと同時にどこか品の良さが滲んでいた。
「あの……ここ、誰にも見つからない場所ですよね?」
「多分な」
「じゃあ、ちょっとだけ……ちょっとだけでいいから、ここにいさせてください」
彼女はそう言うと、理の返事も待たずに壁際にしゃがみ込んだ。
膝を抱えて顔をうずめる。肩が小刻みに震えていた。
理は立ち去るタイミングを完全に失い、仕方なく元の位置に座り直した。
ポケットからティッシュを取り出して無言で差し出す。
「……ありがとうございます」
彼女はティッシュを受け取り、目元を押さえた。それから絞り出すような声で言った。
「あの……、ちょっと聞いてもらってもいいですか?」
「……早瀬だ。まぁ、聞くだけなら」
「早瀬くん。私、一組の志摩です」
「知ってる。バスケ部のマネージャーだろ」
志摩は少し驚いたように顔を上げた。
「なんで知ってるんですか?」
——そりゃあ学校中の人間関係と部活動の相関図くらい頭に入ってる。
——平穏に生きるためには、誰がどこで何をしているか把握しておく必要があるからな。
とは言わず、理は肩をすくめた。
「まあ、なんとなく」
志摩はそれ以上追及せず、再び膝に顔を埋めた。
「私……バスケ部の男子に告白されたんです」
理は黙って聞いていた。
こういう話は大抵の場合、聞き役に徹するのが一番だ。口を出せば余計なことに巻き込まれる。
「一年の……男子バスケ部の子で。すごく真面目で、練習熱心で。私マネージャーとして普通に応援してて」
志摩の声が徐々に震えを帯びていく。
「でも急に『付き合ってください』って言われて……私、全然そういう目で見てなくて。
でも断ったら部活の雰囲気が悪くなるかもしれないしかといって適当に返事するのも失礼だし……」
彼女は顔を上げ理を見つめた。
目は赤く充血しているが、それでも意志の強さを感じさせる瞳だった。
「私、どうしたらいいんですかね……?」
理は、内心で深いため息をついた。
——よりによって、なんで自分なんだ。
「自分に聞かれても」
「でも、誰にも言えなくて。友達に相談したら絶対に広まっちゃうし。早瀬くんは口硬そうですし、ここでたまたま会っただけだし……だから」
「たまたま会っただけの相手に、重すぎる相談だ」
理の言葉に、志摩は少しだけ笑った。
泣き笑いのようなぎこちない表情だった。
「……ですよね。ごめんなさい」
彼女は立ち上がろうとした。
その肩が、窓から差し込む午後の光に照らされて細く影を落としている。
——放っておけ。これ以上関わるな。
理の理性はそう囁いた。
しかし、それよりも先に——脳裏にある言葉が浮かんだ。
——後輩の「好き」は「認めて」のサイン。恋愛に勘違いするな
姉の言葉だった。
「姉の掟」とか、そんな名前がついていた気がする。
中学生の頃、理が初めて誰かの恋愛相談に乗った時——いや乗らされた時に、姉がさらっと言った言葉だ。
「……志摩さん」
気がつけば、理の口が動いていた。
「その後輩、志摩さんに何て言ったんだ。『付き合ってほしい』以外に」
志摩は立ち上がりかけた姿勢のまま、首をかしげた。
「え……たしか『志摩先輩みたいな人と一緒にいられたらもっと頑張れると思う』って……あと『先輩に認められたい』って」
理は目を閉じた。
——なるほど。
「……それ、恋愛じゃないな」
「え?」
志摩が目を丸くする。
「そいつが欲しいのは『彼女』じゃない。『承認』だ」
理は淡々と続けた。まるで数学の問題を解くように、冷たく、正確に。
「一年でバスケ部に入ったばかりの時期だろ。周りはみんな上手くて、自分だけ取り残されてる気がしてる。
そんな時にマネージャーの志摩さんが声をかけた。『頑張ってるね』とか『シュート上手くなったね』とか。たぶん、何気ない一言だったんだろうな」
志摩の顔色が変わった。心当たりがあるのだろう。
「そいつにとって、志摩さんは『自分を評価してくれる数少ない先輩』になった。
でも、『評価してほしい』っていう気持ちを、思春期の脳みそは『恋愛感情』と勘違いすることがある」
「それって……」
「志摩さんが本当に悩むべきは『どうやって告白を断るか』じゃない。『どうやって後輩の努力を認めつつ、期待させずに線を引くか』だ」
理はそこで言葉を切り、窓の外に目をやった。
「……まあ、自分の勝手な想像だけどな」
長い沈黙が、踊り場を満たした。
志摩は、しばらくの間じっと床を見つめていた。それからゆっくりと顔を上げる。その表情は、さっきまでの混乱したものとは違っていた。霧が晴れたようにすっきりとした目をしている。
「……そっか。そういうことか」
彼女は小さく笑った。
今度は、泣き笑いじゃない。
心の底から納得したような笑みだった。
「私、あの子に『恋愛対象として好き』って言われてる気がして、それにどう答えなきゃって思ってたんです。
でもそうじゃないんだ。あの子が欲しいのは私の『評価』で……それなら、私ができることも変わる」
志摩は深々と頭を下げた。
「ありがとうございます、早瀬くん。めっちゃスッキリしました」
「……別に。自分は何もしてない」
「してますよ。すごいです。なんかすごく……頭がいいんですね」
「やめてくれ」
理は心底嫌そうな顔をした。
それが可笑しかったのか、志摩は声を出して笑った。
涙の跡が残る顔で笑う彼女は不思議と絵になっていた。
「じゃあ私、あの子と話してみます。ちゃんと誤解させないように。でも努力は認めてるって伝えられるように」
「それがいい」
志摩は階段を数段下りてから、振り返った。
「ここ、いい隠れ家ですね。また来てもいいですか?」
「……却下」
「ふふっ」
彼女の足音がだんだんと遠ざかっていく。
完全に聞こえなくなったところで、理は壁にもたれて天井を見上げた。
「やれやれ」
これで平穏が戻る。そう思って胸をなでおろしたその時だった。
カバンの中で、スマートフォンが短く震えた。
取り出して画面を見ると、メッセージの通知が一件。
差出人は——『早瀬遥』。
姉だった。
『おさむ、そろそろ自覚しなよ。あんたはもう私の後継者なんだから。私の掟使ったでしょ』
理は画面を見つめたまま、しばらく固まっていた。
「……どうしてそれを、今、言うかな」
彼は頭を抱えて、小さくうめいた。
窓の外では、校舎の向こうにあるグラウンドから運動部のかけ声が風に乗って聞こえてくる。
中庭はすでに深い影に沈み、ベンチだけがぽつんと取り残されていた。
理の高校二年生の夏が、静かに、しかし確実に動き出そうとしていた。
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