日常への帰還と終わらない予感
学祭最終日。
後片付けの日。
朝の空気は、昨日までとはまるで違っていた。
理はいつも通りの時間に家を出た。
急ぐ必要はない。
開門前に校内へ滑り込む必要も、インカムのチャンネルを確認する必要もない。
ただ、いつもの自転車に乗っていつもの通学路を走る。
風が頬を撫でていく。それが妙に生温かく感じられた。
通学路の途中見慣れた二人組の姿があった。
小野と蓮見だ。小野は大きな欠伸をしながら歩いていて、蓮見はカフェオレの紙パックを片手に持っている。
理は自転車を止め、足をついた。
「おはよう」
小野が振り返る。一瞬驚いた顔をして、それから大きく笑った。
「おっ、早瀬じゃん。久しぶりだなー」
「ああ」
「学祭の実行委員会で死ぬほど忙しかったんだろ? 最近まともに話せなかったよな」
「迷惑をかけた」
理はそう答えた。定型句だったが、嘘ではなかった。
蓮見がカフェオレを一口飲んで、ぽつりと言った。
「……お化け喫茶、早瀬がいなくても回ってたし」
「それ言うか? 普通」
小野が横から突っ込む。蓮見は気にした様子もなく、ストローに口をつけた。
「事実だし」
理は小さく息を吐いた。
それは笑みに近いものだったが、理自身はそれを笑みとして認識しなかった。
「今日は後片付けだ。また教室には顔を出す」
「おー、待ってるわ」
「……ほどほどに」
蓮見が呟いた。
理は頷いて、自転車を漕ぎ出した。
その他愛のない会話が、理には妙に懐かしく感じられた。
教室に寄るとすでにクラスメイトの半分以上が集まっていた。
後片付けの服装は自由だが、多くの生徒がまだ学祭の余韻を引きずるように、どこか浮ついた空気をまとっている。
理は自分の席に荷物を置き、短い挨拶をしてから生徒会室へ向かった。
生徒会室の前で、理は一度足を止めた。
ドアの向こうから、人の気配がする。
誰かがもう来ている。
理はドアを開けた。
夜野がいた。
すでに実行委員のTシャツに袖を通し、髪を一つにまとめている。
昨日と同じ格好だ。
だが、その横顔はどこか静かだった。いつもの仕事モードの顔とは違う。
もっと落ち着いた、けれど芯のある表情。
「おはようございます、先輩」
夜野が顔を上げた。
その声はいつも通りだった。
だが、理はその声がいつもより少しだけ低いことに気づいた。
「ああ。おはよう」
理は自分の席へ向かい、今日の片付けスケジュールを確認した。
各クラスの搬出時間。
備品回収のタイムテーブル。
ゴミの分別基準。
すべてが昨日のうちに準備されている。
理はそれを一つずつ確認し、頭に入れていった。
——これで最後だ
今日が、このTシャツを着る最後の日になる。
理は自分の袖を見た。
紺色の生地。
胸元の小さなロゴ。
二日間着続けたユニフォーム。
それだけのものだ。
だが、理はその袖を、ほんの少しだけ強く握っていた。
午前九時。
全校生徒による片付け作業が始まった。
理と夜野はペアで校内を回った。
各クラスの模擬店が次々と解体され、段ボールや資材が搬出されていく。
ステージの機材も、生徒たちの手で丁寧に運び出されていた。
理はインカムで本部と連絡を取りながら、各所の進捗を確認していく。
夜野はその横で、ゴミの分別状況をチェックしていた。
「先輩、二年一組の搬出予定より少し早いです」
「把握した。本部に報告する」
理はインカムを操作した。
手慣れた動作。
無駄のない動き。
それは二日間で完全に身体に染みついた動作だった。
二年三組の前を通りかかったとき、理は足を止めた。
教室の中では五十嵐と花邑が片付けをしていた。
五十嵐が段ボールを運び、花邑がそれを紐でまとめている。
二人の間に会話はない。だが、その沈黙が妙に自然だった。
五十嵐が段ボールを運び終えると、花邑が何も言わずに紐を渡す。
花邑が手を伸ばせば、五十嵐がすでに次の箱を運んできている。
言葉がないのに、動きが噛み合っている。
その自然な距離感を、理はしばらく見ていた。
夜野も足を止めていた。
そして、ぽつりと呟いた。
「……終わっちゃいましたね」
理は答えようとした。喉の奥まで言葉が上がってきた。
——業務だからな
そう言おうとした。
いつも通りに。
いつもなら、そう答えた。
だが、言葉が出てこなかった。
理は自分の喉の違和感に気づいた。
何かが引っかかっている。
その何かの正体を、理はまだ知らない。
夜野は理の返答を待っていた。数秒。理は答えられなかった。
夜野はそれ以上何も言わなかった。
ただ、小さく息を吐いてまた歩き出した。
理もその後を追った。
答えられなかったことの意味を、理はまだ考えなかった。
午後。
撤収作業は順調に進んだ。大きなトラブルもなく、各クラスの搬出が完了していく。
体育館のステージも解体され、元の静かな空間に戻りつつあった。
夕方。十六時を過ぎた頃には、校内から生徒たちの姿がほとんど消えていた。
夕暮れが校舎をオレンジ色に染めている。
廊下の窓から差し込む光が、床に長い影を作っていた。
理と夜野は生徒会室に戻った。
最後の片付け報告書を作成するためだ。
理は席に座り、報告書を開いた。
各クラスの搬出完了。
備品回収完了。
ゴミ分別完了。
トラブルなし。
入力は正確で、無駄がなかった。
夜野も隣の席で報告書をまとめている。
キーボードを打つ音だけが、静かな室内に響いていた。
理は最後の項目を入力し、報告書を保存した。
「これで今回の行事はすべて完了だ」
理は言った。
「お疲れ様でした」
夜野が顔を上げた。
「お疲れ様でした、先輩」
その声は、穏やかだった。
だが理はそこに何かを見つけた。
いつもの「お疲れ様」ではない。
もっと静かで、もっと確かな何か。
理はそれを業務上の報告事項として処理しようとした。
処理しきれなかった。
「……先輩」
夜野が立ち上がった。
荷物をまとめるでもなく、ただ立ち上がった。
「少し、いいですか」
「何だ」
「廊下で」
理は一瞬迷った。
だが、頷いた。
二人は生徒会室を出た。
廊下に出ると、夕暮れの光が一層強く感じられた。
誰もいない。
静かだった。
学祭の喧騒が嘘のように、日常が戻ってきていた。
理は立ち止まった。
夜野が後ろにいる。
「話があるんですけれど」
夜野の声は、まっすぐだった。
理は振り返った。
夜野は、そこに立っていた。
仕事中の冷静な顔でもない。
イタズラっぽい笑顔でもない。
まっすぐに理を見つめている。その目は、昨日までの後輩の目ではなかった。
理の心臓が、わずかに跳ねた。
——まただ
説明のつかない何か。
それは、学祭が終わっても消えなかった。
——いやむしろ
理はそれ以上考えるのをやめた。
夜野が口を開こうとしている。
その瞬間の空気が、理には妙にゆっくりと感じられた。
夕暮れの光が、二人の影を長く伸ばしていた。
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