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ヒロインとボクとの掟  作者: ぉんじ


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言葉の定義と新しい関係

廊下に出て、夜野が口を開こうとした瞬間。


理は、その表情を見て思った。


——これは、ここで受けてはいけない


根拠はなかった。

ただ、夜野の目の奥に今まで見たことのない光があった。

それは、廊下の夕暮れの延長線上にあるものではなかった。


理は手を挙げて、夜野の言葉を制した。


「場所を変えよう」


夜野は一瞬目を丸くして、それから静かに頷いた。


向かう先は、理が選んだ。夜野は何も言わずについてきた。


屋上へ続く階段の踊り場。


夜野が最初の告白をした場所。


あの時、理はここで夜野の言葉を「後輩の承認欲求」として処理した。

業務上の判断だった。

正しい処理だったと、今でも思っている。


同じ場所。

同じ二人。

同じ夕暮れ。


だが、空気はまるで違っていた。


踊り場の窓から差し込む光は、あの時よりもずっと赤くずっと重い。

そして、理の胸の内側にはあの時にはなかったものが積み上がっている。


理は踊り場の壁に背をつけた。

夜野は二歩の距離を置いて立った。

その距離が、妙に遠く感じられた。


「先輩」


夜野が口を開いた。

声は、まっすぐだった。


「私、先輩のことが好きです」


理は黙って聞いた。


「尊敬とか、そういうのじゃなくて。特別な意味で。だから……」


夜野は一度、息を吸った。


「私と、付き合ってください」


二回目だった。


一回目と同じ言葉。

だがその意味の重さはまるで違っていた。

あの時は、夜野の声に「認めてほしい」という響きがあった。

今は、違う。


理の胸の奥で、何かが渦を巻いた。


学祭の三日間が、一瞬で脳内を駆け抜けた。

学祭の準備期間。

夜野のステージ発表でのダンス。

お化け屋敷で袖を掴まれた感触。

耳元に落ちた、あの声。


——これが恋なのか?


理は自問した。

そして、答えは出なかった。

出るはずがなかった。

理は、恋というものを知らない。

定義を知らないものを、知っていると断定することはできない。


だが、一つだけわかったことがある。


積み上がってきたものを、無かったことにはできない。


その時、姉の顔が浮かんだ。


『後輩の「好き」は「認めて」のサイン。恋愛に勘違いするな』


長年、理を縛ってきた掟。理はこの掟に従って、多くのことを処理してきた。

処理できると信じてきた。


だが、今の夜野の目は「認めて」とは違う。


理には、それがわかった。

わかってしまった。


——姉さん。僕は、姉さんの掟を破るんじゃない


理は心の中で呟いた。


——僕は、僕の掟を作る


それがどんな形になるのかはまだわからない。

だが、今の夜野を「後輩の承認欲求」として処理することだけは、したくないと思った。


理は顔を上げた。


夜野が、まっすぐに理を見ている。

その視線は甘えでも、承認欲求でもない。

本物の強い意志だった。


理は、論理を組み立てた。

言葉の定義。

これまでの関係性。

今後の最適なステップ。


——夜野は「付き合って」と言った。「恋人として」とは、限定していない


——今までの関係は、あくまで学祭実行委員の先輩・後輩。業務上の関係


——いきなり「恋人」へ飛ぶのは、工程として不適切


——だが、積み上がった関係性を否定するつもりはない。ならば、関係性を一段階更新するのが最も合理的


理は、結論を口にした。


「……わかった」


夜野の目が、わずかに見開かれた。


「付き合おう」


「……!」


夜野の肩から、力が抜けた。

安堵。

それだけは本物だった。


「……友達として」


理は、続けた。


沈黙。


夕暮れの光が、踊り場を赤く染めていた。


夜野の顔が、歓喜から、困惑へそして、ある種の諦めにも似た表情へとめまぐるしく変わっていく。


「……え?」


「友達として、付き合おう」


理は、繰り返した。

自信を持って繰り返した。


夜野は、口を半開きにしたまま固まった。


五秒。


十秒。


「…………は?」


「何か不服か」


「不服っていうか……」


夜野の声が、震え始めた。


「先輩、今、私が何て言ったか覚えてます?」


「付き合ってください、と言った」


「そう。付き合ってください、って言ったんです」


「だから、付き合おうと答えた」


「友達として!?」


「ああ」


夜野は、頭を抱えた。


「文脈を、考えてください」


「文脈」


「私、今まで先輩と結構親しくしてきたじゃないですか。

学祭の準備も一緒にしましたし、お化け屋敷も一緒に回ったし、一緒にいろいろと見て回って楽しんできましたよね」


「ああ」


「なのに、今まで友達ですらなかったんですか!?」


理は、真面目な顔で答えた。


「今までの関係は、学祭実行委員としての先輩・後輩だ。業務上の関係だ」


「業務!?」


夜野が、声を裏返らせた。


「ロボットですか!? 血も涙もないんですか!?」


「血も涙もないことはない。ただ、論理的に」


「論理的じゃないです!」


夜野は、一歩前に出た。

その目には怒りとも、呆れとも悲しみともつかない感情が揺れていた。


「じゃあ聞きますけど。先輩、私のこと、今まで友達だと思ってなかったんですか」


理は、答えられなかった。


正確には、答えを用意していなかった。


夜野は、その沈黙を、どう受け取ったのか。


小さく、息を吐いた。


「……はい、わかりました」


「不服なら、この話はやめるか?」


理は、問いかけた。

逃げではなかった。

相手に選択権を渡す、理なりの誠実さだった。


夜野は、一瞬詰まった。


だが、次の瞬間、顔を上げた。


「いえ、やめません!!」


力強い即答だった。


「友達からでも、何でもいいです。そのガチガチの頭私が解し込んで見せます」


「解し込む……?」


「そうです。覚悟してください」


夜野は、そう言って、手を差し出した。


「じゃあ、友達として。よろしくお願いしますは・や・せ・先・輩」


理は、その手を見た。


細い手だった。でも、震えていなかった。


理は、握り返した。


夜野の手は、少し冷たかった。


「ああ。よろしく」


夕暮れの光が二人の影を、長く伸ばしていた。


先輩と後輩、から。


友達、へ。


歪で、不器用で、それでも確かに新しい関係が始まった。


理は、まだ「恋」という言葉の意味を知らない。


夜野は、それを知っている。


その差は、きっとこれからも二人の間で様々な形を取るだろう。

すれ違いも、齟齬も笑い話も、きっとあるだろう。


だが、今は。


理は、握った手の感触を、確かめていた。


言葉の定義を、一つ、自分で更新した。


それだけのことが、妙に、重かった。

ここまでお読みいただきありがとうございます!

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