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ヒロインとボクとの掟  作者: ぉんじ


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23/29

最適解の外側

学祭一日目。

一般公開前日の校内限定の初日。


朝の空気は、昨日までとはまるで違っていた。

廊下を歩く生徒の足取りが速く、声のトーンが高い。

教室の窓からはすでにどこかのクラスが鳴らしているであろう音楽が漏れ聞こえていた。


理はいつもより三十分早く登校し生徒会室で最終確認の資料を広げていた。

インカムのテスト、各クラスのタイムテーブルの突き合わせ緊急時の連絡網の確認。指先は正確に動き、頭の中は静かだった。


生徒会室は徐々に生徒会役員と実行委員で溢れていった。


そこに夜野が入ってきた。


「おはようございます、先輩。早いですね」


「今日は初日だ。確認事項が多い」


夜野は自分の席に荷物を置き、制服の袖を整えながら理の隣に立った。


「先輩、今日はクラスの出し物どうするんですか」


「参加しない。実行委員会の仕事を優先する」


「ですよね」


夜野は小さく笑った。

その笑い方にはどこか含むものがあった。


「夜野はどうするんだ。クラスの出し物に参加するのか」


「はい。私はステージ発表に参加します」


理は顔を上げた。夜野はすでに目を逸らしていた。


「でも、先輩。時間があったら見てください。

ステージ発表の私、結構すごいんですよ」


「時間があればな」


理はそう答えて、資料に視線を戻した。

そのつもりはなかった。


夜野はそれ以上何も言わず、自分の担当資料を手に取った。



開会式が始まった。


一年生から三年生まで全生徒が体育館に集まる。

一年に一度の、全校が同じ空間に集う数少ない機会だった。


校長の挨拶、実行委員長の挨拶諸注意。

理は舞台袖でインカムを操作しながら、進行の秒単位の調整を行っていた。


壇上では生徒会長が挨拶している。

その隣で、夜野が進行補助として立っていた。壇上の夜野は、生徒会室にいるときと同じ表情をしていた。

落ち着いた、無駄のない有能な後輩の顔だった。


理はインカム越しに次の指示を飛ばした。


「照明、三番キュー。あと十五秒」


開会式は予定通りに進行した。理はステージを一度も正面から見なかった。


午前の部が始まると、体育館は熱を帯びた。


各クラスのステージ発表が順番に披露されていく。合唱、演劇、演奏、そしてダンス。

一年生から三年生まで全てのクラスがこの一日に懸けていた。


理は実行委員として舞台袖と客席の間を往復していた。

次の発表クラスの誘導、入場列の整理、非常口の確保。目に入るすべてを処理し、必要なら即座に指示を出す。


客席の後方、二年生のブロックに五十嵐と花邑が並んで座っていた。

五十嵐がプログラムを確認し、花邑が何かを指差して笑っている。

クラスでの揉め事のときとは比べ物にならないほど、二人の距離は自然だった。


理はそれを数秒間観察し、インカムに向かって呟いた。


「二年生ブロック、座席の埋まり方に問題なし。

普段話さない人同士でも学祭では話すようだ」


インカムの向こうから、夜野の声が返ってきた。彼女は別の持ち場にいた。


「先輩、それただ仲良くなっただけですよ」


「仲良くなると急に話すのか」


「もう」


夜野の小さなため息がインカム越しに聞こえた。

理はそれが何に対するため息なのか、考えなかった。


午前の部と午後の部の間の休憩時間。


理は体育館のロビーで進行の最終確認をしていた。そこに花邑が通りかかった。


「早瀬くん」


理は顔を上げた。

花邑は一瞬、後ろを振り返ってから理の前に立った。

その視線の先には、五十嵐が友達と話している姿があった。


「あのときは、ありがとう。シフトのこと」


「業務の一環だ」


花邑は一瞬、何か言いかけてやめた。

その視線がもう一度だけ五十嵐の方に向いた。


「……そっか。じゃあ、また」


花邑はそれだけ言って、五十嵐の方へ歩いていった。


理はその背中を見送った。

彼女が何を言いかけたのか、理にはわからなかった。

ただ五十嵐が花邑に気づいて手を振り、花邑がそれに応えて笑った。

二人の間に昨日までにはなかった距離感があった。


理はそれを「連携の最適化」とだけ記録し、午後の準備に戻った。



午後の部。


理は体育館の舞台袖にいた。

ステージ発表の進行管理が、午後の理の担当だった。


体育館には全学年の生徒が入っていた。


理は舞台袖で進行状況を確認しながら、インカムで各部署に指示を飛ばしていた。


「次のクラス、照明と音楽のスタンバイどうぞ」


照明と音響の操作は各クラスの生徒に一任されている。



夜野のクラスのダンス発表は、午後の三番目の演目だった。


理はそのことを知っていた。

タイムテーブルを作ったのは自分だ。

夜野のクラスが何時から何をするのか、正確に把握していた。


だが、見るつもりはなかった。


舞台袖にはやるべきことが山積していた。

次の演目の準備、クラスの誘導、照明と音響の確認。

理の手元には常に三つ以上のタスクがあった。


夜野のクラスが舞台に上がった。

客席から拍手が起きる。

理は舞台袖で確認した。十人の生徒が舞台に並んでいる。その中に夜野がいた。


理は次のクラスの誘導のため、客席後方の通路へ向かった。


その矢先だった。


体育館に音楽が流れ始めた。


次のクラスの誘導をしなければならない。だが、理の足は止まった。


顔を上げてしまった。


スポットライトが当たり、十人の生徒が踊っている。その中央付近に夜野がいた。


理はその瞬間、手が止まった。


夜野は踊っていた。

正確に力強く、そして楽しそうに。

生徒会室で見せる冷静な表情とはまるで違う、全身で音楽を感じているような生き生きとした表情だった。

スポットライトを浴びて、汗を光らせて仲間たちと笑いながら踊っていた。


理は動けなかった。


インカムから指示を求める声が聞こえた。

だが、理の意識はそこになかった。


計算式では弾き出せない。

効率化の対象にもならない。

最適解の外側にある、あまりにも鮮やかでどこか眩しいもの。


理はその瞬間自分の中に説明のつかない何かが生じたのを感じた。

それは理が知っているどの感情とも違った。

業務上の達成感でも、効率化の充足感でもましてや優越感でもない。

ただ、夜野の姿が理の視界の中で異様に鮮明だった。


——なんだ、これは


理は自問した。答えは出なかった。


踊りが終わりに近づいたとき夜野がふと舞台袖の方を見た。

客席の端、舞台袖の入口付近。理が立っている場所。


夜野は一瞬、目を見開いた。

そして恥ずかしそうに、しかし嬉しそうに小さく笑った。


その笑顔を見て、理は視線を逸らした。


インカムが鳴った。


「……早瀬さん? 次のクラス誘導大丈夫ですか、確認お願いします」


理はインカムのボタンを押した。


「もう一度、頼む」


「え? 次のクラス誘導です。確認お願いします」


「ああ、了解。今向かう」


理の応答は、いつもより少しだけ遅れていた。


夜野のクラスの演目が終わり、客席から大きな拍手が起きた。

理は次の演目の準備に移った。

動きは正確だった。

だが、心のどこかがまだステージの上に残っていた。



一日目の日程が終了したのは、十六時を過ぎた頃だった。


一般公開がない初日は例年比較的穏やかに終わる。

大きなトラブルもなく、全ての演目が予定通りに進行した。


生徒会室に戻ると、夜野がすでにいた。

制服のまま髪を少し乱して、椅子に座っていた。ダンスの余韻がまだ体に残っているようだった。


「お疲れ様でした、先輩」


「ああ」


理は自分の席に座り、今日の報告書を開いた。


「初日、大きな問題はなかった。

明日の一般公開が本番だ。今日と同じ進行でいけば問題ない」


「そうですね」


夜野は少し間を置いて、口を開いた。


「先輩、今日、私のダンス見てくれました?」


理の指が、キーボードの上で一瞬止まった。


「ああ。演目の確認で、少しだけ見た」


「少しだけ?」


「ああ」


夜野はしばらく黙っていた。そして、小さく笑った。


「そっか。じゃあ、いいです」


理は報告書の入力を再開した。

だが、文字がいつものように滑らかに出てこなかった。


夜野が立ち上がり、荷物をまとめ始めた。


「先輩、明日は一般公開です。お客さんたくさん来ますよ」


「わかっている」


「予測不能なことも、たくさん起きますよ」


「そのために準備をしてきた」


夜野は笑った。

いつもと同じ笑顔だ。

だが、理にはその笑顔が昨日までとは違うものに見えた。


「じゃあ、お疲れ様でした。また明日」


夜野が生徒会室を出ていった。


理は報告書の画面を見つめた。

文字は進まなかった。


今日、自分の中に生じたあの感覚。

説明のつかない、計算式に当てはまらない最適解の外側にある何か。


それが何なのか、理はまだ知らなかった。


知らないまま理は報告書を閉じた。

明日の準備をしなければならない。一般公開日。

予測不能な例外たちが、理の完璧な計画の上を歩いてくる。


理は立ち上がり、明日の資料を手に取った。


その手が、ほんの少しだけいつもより強く資料を握っていた。

ここまでお読みいただきありがとうございます!

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