突然の来訪者と小さな嫉妬
放課後の生徒会室。
十七時を回った頃だろうか窓の外は徐々に藍色に染まり、蛍光灯の白い光が室内を照らしていた。
理は明日の学祭実行委員会に向けた書類を整理していた。
隣の席では夜野が、先ほど一ノ瀬が残していった議事録の山を黙々とノートにまとめている。
ページをめくる音と、ペンが走る音。
それだけが室内を満たしていた。
その静寂を、軽やかなノックが破った。
「はーい、失礼しまーす」
顔を上げるより先に、その声は扉の向こうから滑り込んできた。
夜野が顔を上げる。
入ってきたのは、女子生徒だった。
赤い靴紐——二年生。
肩にはバスケットボールのプリントが入ったスポーツバッグを下げている。
「志摩さん」
理が書類から顔を上げて、淡々と言った。
「早瀬くん、ちょっといい? ごめんね忙しいのに」
志摩はそう言いながら、すでに理の机の前に来ていた。
椅子を引き寄せて、勝手に座る。
その一連の動作に、一切の遠慮がなかった。
夜野は、ペンを止めた。
「バスケ部のマネージャーが生徒会室にお越しとは、有志出し物の件だな」
「そう。よくわかったね」
「クラスの出し物の期限は過ぎている。
となれば、あとは有志で参加可能な部活動の件だけだ」
「うわ、さすが」
志摩は小さく笑った。
それから、スポーツバッグから一枚のプリントを取り出して、理の机の上に広げた。
「バスケ部でフリースローチャレンジをやりたいんだけど、体育館の空き時間が足りなくて。
あと景品の予算もギリギリで」
理はプリントを一瞥し、それから手元のタイムテーブルと予算表を開いた。
「体育館は無理だ」
「えー、やっぱり?」
「二日目の午前は軽音部や有志のバンドステージがある。
午後は吹奏楽部の発表が入っている」
「そっか……」
志摩が肩を落とす。
その肩に、理は目もくれずに別のページを開いた。
「中庭は特に使用申請が出ていない。
移動式ゴールなら運べるはずだ。
予算は追加できないが、参加費を百円に設定して達成者の景品を百五十円相当に抑えて、
参加賞を五十円以下に抑えれば、出し物の難易度にもよるが余程のことがない限り損益分岐点を超える。
あとは、景品は先着順にしてあくまで予算内に収めておけば問題にならない。」
理はペンでプリントの余白に数字を書き込んでいく。
志摩は、その手元を覗き込むようにして身を乗り出した。
「すご……早瀬くん、ほんとにすごいね」
「当然の業務を処理しただけだ」
「またそんなこと言って」
志摩が笑う。
その声は、理の「当然の業務」という定型文を、まるで聞き慣れた冗談のように受け流していた。
夜野は、そのやり取りを横で聞いていた。
ペンを持つ手が、少しだけ強くなる。
志摩は、プリントを畳みながら、ふと思い出したように言った。
「そういえば、あの時もそうだったよね」
理の手が、止まった。
「あの時?」
「ほら、春の——じゃなくて初夏くらい? 屋上の踊り場で」
志摩は少しだけ声を潛めた。
「私、あの時早瀬くんに相談してすごく助かったじゃない?
あれから早瀬くんに相談すると、なんかすっきりするんだよね」
夜野の耳が、その言葉を捉えた。
——屋上の踊り場
——私の知らない先輩の過去
志摩は続けた。
「たぶん、バスケ部のみんなも早瀬くんのこと頼りにしてるよ。特に一年の子たち」
「たぶん、か」
理が小さく繰り返す。
「うん。だって私が勝手に言ってるだけだし
でも、あの時から早瀬くんのことすごいなって思ってるのは本当だよ」
志摩はそう言って、少しだけ照れたように笑った。
夜野は、その「たぶん」が妙に引っかかった。
たぶんって。
——志摩先輩は、バスケ部で先輩の話をしてるってこと?
ペンを持つ手に、また力が入った。
志摩は立ち上がった。
「ありがとう早瀬くん。これでなんとか形にできそう。また困ったら頼りにさせてもらうね」
「ああ」
理は書類に視線を戻した。
志摩は扉に向かって歩き出し、途中で夜野の方を見た。
「それでは、失礼しました。お疲れさま、またね」
「……お疲れさまです」
夜野は、小さく会釈した。
志摩が扉を閉めると、生徒会室には再び静寂が戻った。
理は、何事もなかったかのように書類をめくった。
「……これで部活企画の枠も一つ処理できたな」
独り言のように、そう呟いた。
その瞬間だった。
隣から、ペンの先で机をコツコツと叩く音が聞こえた。
理が顔を上げる。
夜野は、ノートの上でペンを握ったまま前を向いていた。
その横顔は、十七時前の「むっ」とは明らかに違う。
眉が少し吊り上がり、口元が固く結ばれている。
「……夜野?」
「なんでもありません」
「そうか」
理は書類に視線を戻そうとした。
しかし、今度は夜野が口を開いた。
「……早瀬先輩って、志摩先輩とすごく仲良いんですね」
「仲が良いわけではない。
彼女は以前、問題解決の利害関係者だっただけだ」
理は淡々と答えた。
「ふーん……『あの時も』って言ってましたけど。私、知りません」
「夜野と会う前のことだからな。知らなくて当然だ」
「……そういうことじゃありません!」
夜野の声が、少しだけ大きくなった。
理は、書類から完全に顔を上げた。
夜野の顔を、まっすぐ見つめる。
「そういうこと、とは何だ」
「……っ」
夜野は、言葉に詰まった。
それから、ふいと顔を背けてノートをバタンと閉じた。
「もう知りません。今日の業務、終わりました」
「夜野」
「お先に失礼します」
夜野は鞄を手に取ると、立ち上がった。
扉に向かって歩き出す。
その背中に、理は声をかけた。
「……明日は学祭実行委員の会議だ」
夜野の足が、一瞬止まった。
「……はい」
小さな返事だけを残して、夜野は生徒会室を出て行った。
扉が閉まる。
一人残された理は、閉じられた扉を見つめた。
——また予想外のところで暴走した
——なぜだ
理は、自分の胸の内に生まれた小さな棘のようなものを、うまく言語化できなかった。
十七時前、夜野は笑っていた。
「業務連絡」と理が言うと、夜野は「ふふ」と笑った。
あの時は、確かに何かが通じた気がした。
でも、今は。
「業務連絡では、済まなかった」
理は、誰にともなく呟いた。
その声は、蛍光灯の白い光に溶けて消えた。
机の上には、志摩が置いていったプリントと夜野が閉じたままのノートが並んでいた。
理は、その二つを交互に見てそれから小さく息を吐いた。
——最近いつも、暴走したままだった
窓の外では、いつの間にか完全に夜が訪れていた。
校庭の街灯がぽつり、ぽつりと灯り始めている。
理は、もう一度だけ扉を見た。
その先に、夜野の背中はもうなかった。
ここまでお読みいただきありがとうございます!
ブクマや評価、感想をいただけると泣いて喜びます!




