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ヒロインとボクとの掟  作者: ぉんじ


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16/26

配布と空白と重複

朝。


理は、いつもより早く家を出た。


理由は特にない。


——強いて言えば、今日は出納帳の配布日だからだ。


業務上の理由。


理は心の中でそう唱えた。


だが、ペダルを踏む足は昨日より少しだけ軽かった。


六月の終わりが近づいていた。


昨晩、雨が降ったのか、朝の空気はまだ湿っている。


だが、湿度の中に、わずかに夏の匂いが混ざり始めていた。


アスファルトの照り返しが昨日より少しだけ強い。


通学路の桜並木はすでに緑の葉を茂らせている。


四月の頃は花びらが舞っていた道だ。


それが、今は葉の影を作っている。


理は、その変化を毎年見ている。


見ているだけで何も感じないようにしていた。


——季節は業務に影響しない


理はそう唱えた。


だがペダルを踏む足のリズムはいつもより一定ではなかった。


一定でない自分に理は気づかないふりをした。


——なぜ軽いんだ


理は答えを出さなかった。


出せなかった。


昼休み。


生徒会室に着くとすでに夜野がいた。


彼女は長机の前に立って出納帳の束を、何度も何度も揃えていた。


端を指で整えている。


整えては、また整える。


同じ動作を繰り返していた。


「先輩、おはようございます!」


理の足音に気づいて、夜野が顔を上げた。


その顔は少しだけ強張っていた。


「……ああ」


理は机へ向かう。


夜野はいつもより少しだけそわそわしていた。


「先輩今日は出納帳の配布ですよね」


「そうだ」


「緊張します」


「緊張する必要はない」


「でも」


「僕が確認した」


理は夜野を見つめた。


「何も問題ない」


夜野は、少しだけ黙った。


「……はい」


その声が昨日より少しだけ柔らかかった。


理は気づかなかった。


気づかないふりをしたという方が正確だった。


夜野はもう一度、出納帳の束を整えた。


今度は理の目の前で。


「これクラスごとに分けてあります」


「確認する」


理は束を受け取った。


指先でページを一枚ずつめくった。


印刷の滲みがないか。


ページの抜けがないか。


綴じの緩みがないか。


理は確認を丁寧に行った。


夜野はその隣で理の指先をじっと見ていた。


「……先輩、手、きれいですね」


理の手が止まった。


「関係ない」


「そうですか?」


「そうだ」


理は確認を再開した。


だが、指先の動きがほんの少しだけ遅くなった。


夜野はそれに気づいて少しだけ笑った。


理は笑い声を聞かなかったことにした。



放課後。


会議は滞りなく進んだ。


場所は多目的教室。各クラスの代表がそれぞれの席に着いていた。


理は、出納帳と予算を各クラス代表の前に配布した。


一人ずつ、手渡しで。


「二年三組お願いします」


「はい」


「二年四組お願いします」


「どうも」


ページをめくる音が会議室に、静かに響く。


紙の匂いが部屋の中にゆっくりと広がっていく。


「これすごく見やすいな」


誰かがそう呟いた。


「なんか作りがすごい丁寧、売り物みたい」


「去年は作りがガタガタだったよな。今年のが断然いい」


「誰が作ったんだ?」


その声に理は答えなかった。


答えられなかった。


理は聞こえないふりをした。


当たり前だ


——夜野が何度も確認した


その名前を心の中で呼んだ。


理はすぐにその思考を処理した。


——業務上の事実だ


——私的な感情ではない


だが、処理した端から夜野の顔が頭の中に浮かんだ。


机の前で出納帳の束を何度も整えていた顔。


指先をじっと見ていた目。


「……先輩、手、きれいですね」


その声が耳の奥でもう一度再生された。


理は頭を一度振った。


——非効率だ


配布が終わった。


「以上で、本日の連絡を終わります」


生徒会長の久保が、そう言った。


各クラス代表が席を立つ。


椅子の脚が、床を擦る音。


「お疲れさま」


「お疲れさまでした」


挨拶が会議室のあちこちで交わされた。


理は自分の席で一つ息を吐いた。


終わった


——やっと、終わった


顔には出さなかった。


だが、指先が、少しだけ震えていた。


緊張ではない。


安堵だった。


夜野が隣で書類を握りしめていた。


指が、白くなっていた。


配布中、ずっとそうしていたのだろう。


理は前を向いたまま言った。


「大丈夫だ」


それだけ。


夜野は小さく頷いた。


「……はい」


「戻るぞ」


「はい!」


夜野の声が少しだけ明るかった。


会議の後。


理は生徒会室へ向かう前に自分のクラスの様子を覗くことにした。


理由は特にない。


——たまには、自分のクラスの様子を見るのも業務の一環だ


理は心の中でそう唱えた。


教室の扉を開けると中はいつもの喧騒だった。


だが、その喧騒の中に理は自分の知らない熱量を感じた。


学校祭の準備が、始まっている。


小野が真っ先に気づいた。


「あ、理だ」


「……ああ」


「お前、最近生徒会ばっかりじゃねえか」


小野が、笑いながら、近づいてきた。


「学祭クラスでも何かやるんだろ?」


蓮見が、横から、口を挟んだ。


「お前、生徒会なんだから融通利かせろよな!」


理は、即答した。


「融通は、利かせない」


「冷てえ」


小野が、笑った。


「でも、それでいいと思うぜ」


蓮見が、頷いた。


「……そういうやつだもんな」


理は、何も言わなかった。


だが、その言葉が少しだけ胸に残った。


——そういうやつ


そうだ


——僕は、そういうやつだ


理は教室を出た。


廊下は夕暮れで赤く染まっていた。


窓ガラスに自分の姿が薄く映っていた。


その姿を理は一瞬だけ見た。


見て、すぐに目を逸らした。



生徒会室の扉を開けた。


「早瀬くん」


一ノ瀬が顔を上げた。


その顔は青かった。


「どうした?」


「あっ、夜野さんならさっき自分のクラスに戻ったよ」


一ノ瀬が、書類から目を逸らさずに言った。


一ノ瀬から見て僕と夜野は、セットなのだろうか。


「今日はクラスの方を見に行くって」


「……そうか」


理は、机に鞄を置いた。


——妥当な判断だ


彼女は、クラスにも生徒会にも属している


——僕とは、違う


その思考がどこかで引っかかった。


だが、理はその引っかかりを保留にした。


保留にする、という処理の仕方を理はまだ手放せなかった。


「それで、何だ」


理は、一ノ瀬を見た。


一ノ瀬は、一枚の書類を差し出した。


「これ、見て」


理は受け取った。


「模擬店、出し物一覧」


「そう」


一ノ瀬がため息をついた。


「お化け屋敷、四クラスから申請が出てる」


「……四つ?」


「しかも」


一ノ瀬が、理を見た。


「そのうちの一つ」


理は書類を見た。


確かにそこには。


小野の字で。


二年三組。


「お化け屋敷」と、書いてあった。


理のクラス。


理は書類を握った。


「なんだこれは」


一ノ瀬は、頭を抱えた。


「調整大変だよ」


「だろうな」


「どうする?」


理は、答えなかった。


答えられなかった。


窓の外では、夕暮れが、少しずつ夜に変わっていた。


オレンジが、紫に、溶けていく。


その色の変化を理はぼんやりと見ていた。


夜野のいない生徒会室はいつもより、少しだけ広く感じた。


理はその広さを業務上の空白として処理した。


だが処理しきれない何かが胸の奥に残った。


——なぜ、僕は、ここにいるんだ


その問いを理は保留にした。


保留にできないまま。

ここまでお読みいただきありがとうございます!

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