↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ヒロインとボクとの掟  作者: ぉんじ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
15/26

完璧な指導と数ミリの誤差

朝の風が、頬を切った。


理はペダルを踏みながら、昨日の夕暮れを反芻していた。


——夜野の「もっと知りたい」


あの一言に動揺した自分は、非合理的だった。


理は、思考を整理する。


あれは、代償だ。


クラスの泥臭い雑務から逃げるために、生徒会という免罪符を使った。


その報いとして、あの予測不能な後輩と同じ委員会に配属された。


因果応報。


そう考えると、すべての辻褄が合った。


——合っているはずだった


だがなぜだろう。


ペダルを踏む足が、少しだけ重かった。


理は首を振った。


重さの理由は分からない。


分からないものは、保留にする。


それが理のやり方だった。


信号が、赤になった。


理はブレーキを握った。


——原因が分かれば、対策は打てる


理の脳内で、新しい行動規範が構築されていく。


今後は、夜野のペースに乗らない。


業務上の先輩として、必要最低限の会話のみを交わす。


私的な踏み込みは、一切ブロックする。


これで完全にフラットな関係に戻せるはずだ。


信号が、青になった。


理はペダルを踏み出した。



放課後。


理は生徒会室の扉の前に立っていた。


朝、組み上げた理の掟をもう一度確認する。


——必要最低限


——私的な踏み込みはしない


——業務上のパートナー


理は、深呼吸を一つした。


そして、扉を開けた。


「先輩、こんにちは!」


夜野が、いつもと変わらぬ笑顔で振り返った。


理は、小さく頷いた。


「ああ」


それだけ答えて、自分の席へ向かう。


完璧だった。


これが、理の決めた「適切な距離感」だ。


席に着き、パソコンの電源を入れる。


その途中で、夜野が立ち上がった。


「先輩!」


理の背筋が、わずかに強張った。


「昨日教えてもらったパンチのコツ、家でイメージトレーニングしてきたんです!」


——業務上の報告


理は自分に言い聞かせた。


業務上の報告には、業務上で応じればいい。


「……そうか」


「はい! それでですね——」


夜野は、少し前のめりになった。


「『自分なりのリズムでテンポよく流れるように』」


理の手が止まった。


「何だ、それ」


「先輩が昨日、教えてくれた言葉です」


理は、記憶を辿った。


言った。


確かに、言った。


だが、それは。


作業の流れの中で、一度だけ


メモも取らせず繰り返しもせず、理は流れ作業で呟いた。


夜野が覚えているはずのない、一回性の言葉だった。


「それで、家の中でイメージトレーニングしてみたら、昨日よりちょっとだけうまくいったんです!」


夜野は、笑った。


「先輩すごいですね。たった一言で、私、変われました」


理は、答えられなかった。


——変われました


その言葉が、理のプロトコルのどこにも当てはまらない。


理は、手元を見た。


いつのまにか手を握りしめていた。



作業が始まった。


理は、いつものように正確に動いた。


用紙の並び順。


パンチの位置。


紐の結び方


すべて、無駄がない。


夜野は、その隣で相変わらずうまくいかない。


「あ、ずれた」


「先輩、これで合ってますか?」


理は、夜野の手元を一瞥した。


パンチの位置が、中央から数ミリずれていた。


数ミリ。


業務上、許容範囲。


だが理は、口を開いた。


「夜野」


「はい?」


「そのパンチの打ち方」


夜野が、手を止めた。


理は、自分の手を伸ばした。


夜野の手の上に、自分の手を重ねた。


指導だ。


理は、心の中で唱えた。


——業務上の、指導。


「力が入りすぎている」


理は、夜野の手を、動かした。


「体重移動で抜く。腕で抜かない」


夜野の手が、わずかに震えた。


「……はい」


「あと、その作業の非効率さ」


理は、夜野の手を離した。


「完璧を求めすぎている」


「すみません」


「謝るな」


理は、夜野を見た。


「もっと自分を信用しろ」


「……」


「僕が隣で見ている」


「……」


「もう一度やってみてくれ」



夜野の手が、止まっていた。


理は、気づかなかった。


理は、自分の作業を再開した。


——よし


理は、心の中で頷いた。


——冷徹かつ論理的な指導によって、彼女の非効率を改善した


これで、業務上の関係がより強固になる。


——このやり方は正しい


理は、自身の作業を進めた。



夜野は、動けなかった。


先輩が、私の手に触れた。


先輩が、私を、見た。


先輩が、「僕が隣で見ている」と、言った。


「僕が。


隣で。


見ている。」


夜野の顔が、真っ赤になった。


——先輩、昨日から距離を置こうとしてたのに


——結局、私専属みたいにつきっきりで


最後は「僕が隣で見ているから」なんて。


——そんなの反則です、先輩


夜野は、自分の手を見た。


先輩の手の、温度がまだ、残っていた。


「……夜野」


理の声が、した。


「作業が止まっている」


「——は、はい!」


夜野は、慌ててパンチを握った。


だが、手が、震えていた。



理は、夜野の様子を、観察した。


顔が、赤い。


——業務上の疲労か


——あるいは、指導に対する緊張


理は、分析した。


——指導直後の緊張は、自然だ


——時間が解決する


理は、一つ息を吐く。


——これで、彼女の私的感情は鎮圧された


——僕が整理したやり方は、機能している


理は、心の中で、満足した。



だが、夜野の顔は、赤いままだった。


理は、気づかなかった。


気づかないふりを、した。



作業が、一段落した。


夜野が、隣の席で整理している。


その横顔は、まだ、少し赤かった。


理は、その横顔を——見なかった。


いや、見ようとしなかった。


見なければ、観察できない。


観察しなければ、理解できない。


理解?


理は、自分の中に浮かんだ言葉に、少しだけ戸惑った。


理解する必要があるのか。


業務上のパートナーなら、理解は不要だ。


必要なのは、業務上の信頼だけ。


だが……


「先輩」


夜野が、顔を上げた。


「何だ」


「私、先輩のこと、もっと知りたいです」


理は、固まった。


——また、それか


昨日、バス停で聞いた言葉。


今日、また、聞いた。


同じ言葉。


だが、昨日と、少しだけ違った。


夜野の声が、昨日より、少しだけ低かった。


「昨日も、聞いた」


理は、そう言った。


「はい」


夜野は、笑った。


「でも、昨日は、言いかけてやめたんです」


理は、夜野を見た。


——言いかけて、やめた


「今日は、やめません」


夜野は、真っ直ぐに、理を見ていた。


「先輩のこと、もっと知りたいです」


理は、何も言えなかった。


——なぜ、そんなに正直なんだ


昨日、理はそう思った。


今日、理は、同じことを思った。


だが、今日は、もう一つ別の言葉が浮かんでいた。


——なぜ、僕は正直になれないんだ


理は、その言葉を、すぐに打ち消した。


——正直? 非合理的だ


——業務上、不要だ


処理する。


理は、口を開いた。


「……そうか」


その前の一瞬。


理は、夜野を見た。


夜野の目が、少しだけ潤んでいた。


理は、その意味を、理解しなかった。


——業務上の疲労


——あるいは、緊張


——いずれにせよ、私的な感情ではない


理は、そう処理した。


そして、正面を向いた。



夜野は、その一瞬を、見逃さなかった。


先輩が、私を、見た。


先輩の目が、一瞬だけ揺れた。


——先輩、今、私を見た


——「そうか」しか言わないのに


——でも、目は、違った


夜野は、自分の胸が、少しだけ熱くなるのを感じた。



理は、考えていた。


——夜野という変数を理解するには、データが足りない


理は、心の中で、そう結論づけた。


観察を続ける必要がある。


業務上の、観察だ。


理は、心の中で、そう唱えた。


何度も、唱えた。


だが、唱えるほど、その言葉はただの記号になっていく。



夜野は、帰りのバスで自分の手を見た。


先輩の手の、温度がまだ、残っていた。


——先輩、私のこと、もっと知りたいって言ったら


——「そうか」しか、言わなかった。


——でも、目は、違った


夜野は、自分の顔が、また赤くなるのを感じた。


——先輩、ずるい


——あんなに冷たいのに


——あんなにまっすぐ、見るんだから



帰り道。


理は、自転車を押して歩いていた。


今日は、夜野は、先に帰った。


バスが、早く来たらしい。


理は、一人で、駐輪場を出た。


夕暮れが、街を染めていた。


理は、昨日のバス停を、思い出した。


夜野の笑顔。


「お疲れさまでした、先輩!」


その声が、また、離れなかった。


理は、首を振った。


——何を考えている


理は、ペダルを踏み出した。


風が、頬を切った。


——業務上の、観察


理は、心の中で、唱えた。


何度も、唱えた。


だが、その言葉は、昨日より少しだけ、軽かった。


——なぜ、軽いんだ


理は、答えを、出さなかった。


出せなかった。



信号が、赤になった。


理は、ブレーキを握った。


——今日の指導は、完璧だった


——夜野の非効率を改善し、業務上の関係を強化した


——僕のやり方は、機能している


理は、心の中で、満足した。



だが、理は、気づかなかった。


自分の「指導」が、夜野にとって何だったのか。


自分の「僕が隣で見ている」が、夜野に、何を残したのか。


自分の「一瞬の揺れ」が、夜野に、何を思わせたのか。


理は、気づかなかった。


気づかないふりを、した。


信号が、青になった。


理は、ペダルを踏み出した。


夕暮れが、少しずつ、夜に変わっていく。


理の背中に、長い影が、伸びていた。



その夜。


夜野は布団の中で、何度も同じ言葉を思い出していた。


「僕が隣で見ている」


夜野は枕に顔を埋めた。


——先輩の……ばか


——あんなの反則だよ


——私、明日、先輩の顔まともに見られないかもしれない


——でも


——明日も、先輩に会いたい


夜野はゆっくりと目を閉じた。


——先輩


——私、もっと先輩のこと知りたい


——知りたいけど


——知ったらもっと、好きになる


——それ、分かってるのかな


——先輩、分かってないんだろうな


——だから、ずるいんだ


——先輩


夜野はその夜、なかなか眠れなかった。

ここまでお読みいただきありがとうございます!

ブクマや評価、感想をいただけると泣いて喜びます!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。