後輩と業務外の五分間
駐輪場に、夕暮れが落ちていた。
理は自分の自転車の鍵を外し、ハンドルを握った。
跨ろうとして、やめた。
夜野が、隣に立っていた。
徒歩だ。
理は何も言わず自転車を押して歩き出した。
夜野が、当然のようにその隣を歩く。
理の脳内では、すでに結論が出ていた。
——業務外の関わりにおける適切な会話頻度は、ゼロ
それが理の計算式の答えだった。沈黙。
無言。
干渉しない。
干渉されない。
それでいい。
だが、無言で並んで歩くのは、奇妙な圧力があった。
会話をしなければならないわけではない。
だが、しないことによって生まれる何かが妙に居心地が悪い。
理は、脳内でシミュレーションを始めた。
——何を話すべきか
天気。
作業の進捗。
明日の予定。
どれも業務の延長線上にある。
だが今は業務外だ。
業務外の会話のテンプレートが、理の脳内に存在しない。
理が逡巡している間に、夜野が口を開いた。
「先輩って自転車通学なんですね!私はバス通学です」
「……ああ」
一拍遅れて、理が同意する。
「先輩って、普段何聴いてるんですか?」
理の思考が止まった。
「……音楽か」
「はい」
「特に」
「特に?」
「聴かない」
「えー、そうなんですか」
夜野は、全く気にしていない様子だった。
「じゃあ、普段は何してるんですか?」
「適当に勉強か寝てる」
「へえ! 何時間くらい寝てるんですか?」
「……八時間」
「規則正しいですね!」
理は、言葉に詰まった。
規則正しい。
その言葉が、なぜか棘のように刺さった。
理は規則正しく生きている。
効率のために。無駄を排除するために。
だが夜野の声は、あまりに無邪気でその無邪気さが、理の規則正しさの正体を静かに暴こうとしている。
理は、視線を前方に固定した。
「……そうでもない」
「そうですか?」
夜野は、けろりとしている。
理は、夜野の横顔を見なかった。
歩きながら、夜野は喋り続けた。
「先輩って、学校祭実行委員はどうしてやってるんですか?」
「まぁ、ちょっとしたきっかけで生徒会の人に誘われて、断るに断れなくてな……」
「そうなんですね!私は、クラス以外にも友達が欲しくて」
夜野は、少しだけ声を落とした。
「それで、応募しました」
理は、一拍置いて、短く答えた。
「……そうか」
夜野は、その短い返事を気にした様子もなく続けた。
「でも、先輩がいてくれてよかったです。
一人だったら、あの仕事、心が折れていたかもしれません……」
理は、返事をしなかった。
——心が折れる
そんな表現を理は使わない。
理は折れない。折れる前に、回避する。
折れる前に逃げる。
それが理のやり方だ。
だが、夜野は折れることを前提に話している。
——なぜ、そんなに正直なんだ
理には、分からない
「先輩は、学校祭、楽しみですか?」
「……特に」
「ですよね。先輩、そういうの興味なさそうですもん」
「……悪いか」
「悪くないですよ。むしろ、かっこいいです」
理は、足を止めかけた。
——かっこいい
その単語が、理の計算式のどこにも当てはまらない。
理は、夜野を見た。
夜野は、笑っていた。
夕暮れが、その横顔を照らしていた。
理は、すぐに視線を戻した。
やがて、バス停が見えてきた。
理は、内心で安堵した。
——ここまでだ
夜野はバスに乗る。
理は自転車に乗る。
別れる。
それで終わり。
業務外の時間は、ここで終了する。
「じゃあ」
理は、自転車のハンドルを握り直した。
「あ、先輩」
夜野が、呼び止めた。
「せっかくですし、バスが来るまで話しましょうよ」
理は、固まった。
——なぜ
理の脳内計算式が盛大にエラーを起こした。
バスの時刻表を確認すると到着まで、あと五分。
たった五分。
だが理にとってそれは果てしない時間のように思えた。
だが夜野にとってはおそらく、ただの五分だった。
その温度差を、理は、処理できなかった。
「……ああ」
理は、頷いた。
なぜ、頷いたのか。
理にも、分からなかった。
バス停のベンチは、二人分の幅しかなかった。
夜野が、端に腰掛ける。
理は少し離れて立った。
「先輩、座らないんですか?」
「……立ってる」
「疲れないんですか?」
「平気だ」
夜野は、それ以上勧めなかった。
「今日、けっこう大変でしたね」
「ああ」
「でも、少しずつ慣れてきました。パンチ最初は全然うまくいかなくて」
「……そうか」
「先輩は、最初からうまかったですけど」
理は、答えなかった。
——当たり前だ
理は、最初からうまくやる。
無駄を排除するために。
最短で、最大の効率を。それが理の生き方だ。
だが、夜野は違う。
夜野は、うまくいかないことを楽しんでいる。
その違いが、理には、分からない。
夜野が、ぽつりと言った。
「先輩って、なんでそんなに無駄がないんですか?」
「私、先輩のこと、もっと知りたいです」
理は、夜野を見た。
夜野は、ベンチの端で真っ直ぐに理を見ていた。
夕暮れが、その瞳を少しだけ強く見せていた。
理は、何も言えなかった。
——もっと知りたい
その言葉の意味を理は、理解しようとした。
だが、理解できなかった。
理解しようとすればするほど、夜野という人間が理の計算式から、はみ出していく。
「……そうか」
理は、それだけ言った。
夜野は、少しだけ、笑った。
やがて、バスのヘッドライトが見えた。
夜野が、立ち上がった。
「あ、来ました」
「ああ」
夜野は、鞄を手に取りバス停の前に歩き出した。
そして、振り返った。
「お疲れさまでした、先輩!」
その笑顔は、夕暮れの中で妙に眩しかった。
理は、小さく、頷いた。
「それじゃあ」
夜野は、バスに乗り込んだ。
扉が、閉まる。
バスが、走り去っていく。
一人残された理は、自転車のハンドルを握っていた。
頭の中に、さっきの光景が残っていた。
夜野が笑った顔。
「お疲れさまでした、先輩!」
その声が、なぜか、離れなかった。
理は、首を振った。
——何を考えている
理は、自分の思考を、修正しようとした。
だが修正できなかった。
さっきの五分間が妙に、長かった。
いや、短かった。
理には、どちらなのか分からなかった。
理は、ペダルを踏み出した。
夕暮れのバス停が視界の端に、残っていた。
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