免罪符と代償
教室は、議論という名の戦場だった。
「だから、ステージ劇は配役に無理があるって!」
「いや、去年の実績を考えたらロミジュリが無難だろ」
「模擬店は何を売るんだよ! タピオカはもう流行ってないって!」
「焼きそばはガスコンロの申請が面倒くさい!」
黒板の前を中心に、クラスの面々が「あーでもない、こーでもない」と声を荒げ、意見は全くまとまっていなかった。
学校祭の出し物(ステージ発表と模擬店)の決定に向けた、恒例の泥仕合である。
理はその中心にいながら、一切の議論に関与していなかった。
自分の席で、体を伏せて教室をぼうっと眺めている。
「早瀬、お前はどっちがいいと思う? ステージは劇とダンス、どっちが……」
「ごめん。生徒会の仕事がある」
理は顔も上げずに答えた。
「あ、そっか。生徒会は忙しいもんな」
小野はそれ以上追及せず、また別の議論へと戻っていった。
――これでいい
この不毛な議論の渦から、理は完全に隔離されている。
クラスの出し物が何に決まろうと、その後の買い出しや予算の割り振りに悩まされようと、理には一切関係がない。
すべてから、正当な理由で免除されている。
この混沌から理は完全に隔離されている。
準備、買い出し設営、当日の係り。すべてから、正当な理由で。
「じゃあ、行ってくる」
理は席を立ち、教室を出た。
誰も引き止めない。
その背中は、誰よりも早く誰よりも静かで、誰よりも——爽やかだった。
廊下に出た瞬間、声がかかった。
「……まぁ、そっちはそっちでいろいろと頑張って」
振り返らずとも、誰かは分かった。
蓮見だった。
理は足を止めなかった。
聞こえなかったふりをした。
だが、その声が妙に耳に残った。
——いろいろと、とは何だ
理は廊下を歩きながら、思考の隅で引っかかるものを感じていた。
だが、すぐに切り替えた。
今は、関係ない。
生徒会室の扉を開けると、すでに夜野紬が座っていた。
背筋を伸ばし、手元の資料に目を落としている。
理が入ってくると、顔を上げた。
「あ、先輩。お疲れさまです」
「ああ」
理は短く返し、自分の席に着いた。
夜野は、いつもここにいる。
なぜ、こんなに真面目なのか。
理には、分からない。
だが、分からないままにしておく。
十分後。
理の前に、一ノ瀬が立っていた。
両手を合わせ、どこか申し訳なさそうな顔で。
「早瀬くん、夜野さん。ごめん今年、本当に人がいなくて」
理は嫌な予感がした。
「他のメンバー、部活の大会とか補習とかで、ほぼ動けなくて」
一ノ瀬は、一呼吸置いた。
「だから——実質、二人ペアで回してほしいの。二人にしか頼めないのー!お願い!」
理は、固まった。
——二人ペア
——夜野紬と
理の脳内で、複数の計算式が同時に走った。
一人で回すより、ペアの方が効率は良い。
だが相手が夜野紬である。
夜野紬という変数は、理の計算式に存在しない。
——不確定要素
理は、静かに息を吐いた。
「……分かりました」
それしか、言えなかった。
「さっそくお願いね」
一ノ瀬はそう言い残し、爽やかに去っていった。
後に残されたのは、理と夜野と、長机の上に山積みにされた紙の束だった。
「これ……何ですか?」
夜野が、束の一つを手に取る。
理は、資料を確認した。
「学校祭の会計処理用の出納帳だ。全クラス分。表紙と中身を合わせて、専用のパンチで穴をあけて紐を通して製本する」
「つまり……手作業?」
「ああ」
夜野は、山を見上げた。
「これ、全部?」
「ああ」
理は、もう一度山を見た。
三十冊分ほどはある。
一冊あたり、パンチを打つ回数は——数えたくもない。
理は、自分の計算式を組み直した。
——これは、地獄だ
作業は、静かに始まった。
理は、表紙と中身を合わせ位置を揃え、パンチを当てる。
「カチリ」
穴が開く。
紐を通し、結ぶ。
次の束へ。
「カチリ」
——無駄な作業だ
理は思った。
データで管理すれば、一瞬で終わる。
だがこの学校はアナログだ。紙の帳簿を、手で作る。
誰も得をしない。
誰も喜ばない。ただ、前例だからという理由だけで。
「先輩、頑張って紐を通しましょうね!」
夜野が、キラキラした目で言った。
理は、無言で頷いた。
——なぜ、そんなに前向きなんだ
理には、分からない。
三十分後。
理は、自分の効率化案を試すことにした。
「夜野さん。分担した方が早い。僕が表紙と中身を合わせる。夜野さんが穴をあけて紐を通す」
合理的だ。
作業が直列化され、待ち時間がなくなる。
夜野は、首を横に振った。
「えー、一緒にやった方が楽しいですよ!」
理は、固まった。
——楽しい。
その単語が、理の計算式に存在しない。
楽しい、という変数。それは効率の対極にある。
理は、その変数を処理できなかった。
「……好きにすればいい」
理は、そう言った。
夜野は、嬉しそうに隣に座り直した。
その距離が、妙に近かった。
「カチリ」
「カチリ」
交互に、音が響く。
夜野の手つきは、最初はぎこちなかった。だが少しずつ慣れていく。
「先輩、こうですか?」
「……ああ」
「やった!」
夜野が、小さくガッツポーズをする。
その動作の一つ一つがなぜか、理の視界の端に引っかかった。
集中しろ。
理は、自分の手元に視線を戻した。
一時間後。
理の隣で、夜野が手を止めた。
「先輩」
「何だ」
「疲れましたね」
「ああ」
「でも、少しだけ、楽しいです」
理は、顔を上げなかった。
「……そうか」
「先輩は?」
理は、答えなかった。
——楽しい、わけがない
だが、そう思う自分が、少しだけ嘘をついているような気がした。
作業が一段落した頃、夜野が時計を見た。
「あ、もうこんな時間」
窓の外は、夕焼けだった。
理は、立ち上がる。
「お疲れさま。続きは明日」
夜野も、立ち上がる。
そして——
「先輩、一緒に帰りませんか?」
理は、止まった。
断る理由を、探した。
見つからなかった。
「……ああ」
理は、頷いた。
なぜ、断れなかったのか。
理にも、分からなかった。
理は、机の上を見た。
まだ、仕事は残っている。
明日も、この作業は続く。
平穏な放課後は、もう、どこにもない。
理は、夜野の方を向いた。
夜野は、すでに鞄を手に取り扉のそばで待っていた。
その小さな手が、妙に目についた。
——なぜ、こんなに
理は、視線を逸らした。
そして、扉を開けた。
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