帰る場所の匂い
「あら、今日はもう上がるの?」
冒険者ギルドでミラに声をかけられ、頷くリシェル。やや戸惑ったような表情に、ミラも片眉を上げた。
「どうしたのよ」
「このあと食事に誘われてて……」
「男? 珍しいじゃないの。同業?」
「なんか、貴族の方らしいけど。名前は確か――」
うろ覚えの名を告げると、ミラは今度こそ目を剥いた。
「はあ? 本当に?!」
素っ頓狂な声に、むしろリシェルのほうが驚いた。
「有名な人?」
「あんたねぇ……もう少し世の中に興味を持ちなさい」
「ひとを世間知らずみたいに」
「要らない揉め事を起こさないためにも、周りの人間関係を把握しておきなさいって言ってるの」
唇を尖らせるも、「常識だと思うけど教えてあげるわ」とため息が返る。
「ウチにも技師ギルドにも、多額の寄付をしていることで有名な御方よ」
「そ、そうなんだ。魔導炉の設計に興味があるって言ってたし、気さくな良い人だなって思ったんだけど」
ミラは小さく鼻を鳴らした。真意がどうあれ、知らない男の通訳になる義理はない。歯車と酒にしか興味のない技術者が相手ならなおさらだ。
「というか気になったんだけど。貴族サマと接点なんてあったの?」
「楽器を直したんだよ」
「楽器?」
「うん、弦楽器。趣味って言ってたけど、家じゃ禁止されているから業者を探せなくて困ってたんだって」
「あ、そう。……それで」
鋭い緑の瞳が、リシェルを上から下までまじまじと見る。
「あんた、まさかその格好で?」
「え?ダメかな」
ミラは途端に立ち上がり、すごい勢いで近寄ったかと思うと、呆けているリシェルの腕をとった。次いで、テーブルに離席中の札をダンッと置く。何名かの冒険者が肩を跳ねさせた。
「グレンさーん! 休憩入りますね!」
◆◆◆
椅子が柔らかすぎる。
まず、座った瞬間にそう思った。
体を預けると沈むのに、きしみ一つ立てない。工房の椅子は、体重をかければすぐにキイキイと鳴くのに。
(……落ち着かない)
白い布が敷かれたテーブルはもちろん傷一つない。指先が触れるたびに油が残らないかと気になって、反射的に手を引っ込めた。
グラスは薄くて軽くて、割るのが怖くて中身に集中できない。こんな器をつくる技量は大したものだと思う。普段ならじっくりと観察させてもらうところだが、値段を考えれば、恐ろしくてとてもできなかった。
料理は一皿ずつ運ばれてくる。少量で、丁寧で、間違いなくおいしい。
向かい合う席で、貴族の青年が満足そうに背もたれに身を預けた。
「なかなか悪くない店だろう?」
「……はい。料理も、それから、静かなところも」
「静かさを褒める人は珍しいな」
彼はくすりと笑う。その笑みは柔らかく、余裕がある。
「君みたいな腕のある職人には、たまにはこういう場所も必要だと思ってね。いつも工房に籠ってばかりじゃ、視野が狭くなる」
――視野。
リシェルはグラスを置いた。言葉にするのは難しいが、視野を広げるために狭いところを見るのが自分の仕事……のような気がする。失礼に思われないよう祈りながら、控えめに首を振る。
「買い被りです」
「謙遜だよ。君の腕は修繕だけに使うのはもったいない」
彼は本気でそう思っているらしい。悪意はない。むしろ親切だ。だからこそ困る。
「壊れたものを直すだけではなくて、一から何かを生み出すことだってできるだろうに」
リシェルはまた首を振った。
「替えがきかないものもあります」
「感情の話かな?」
「生活の話、ですかね?」
一瞬、貴族は言葉に詰まる。すぐに笑顔に戻ったが、先よりも不自然さがにじむ。
「真面目すぎる職人さんだ」
「そうかもしれません。でも、わたしは『まだ使える』って言われたものを捨てるのが苦手で」
「仕事柄?」
「そう……かもしれないです。だから、こういう店は――」
言いかけて、やめる。角を立てる必要はない。確かに落ち着きはしないが、逃げたくなったわけでも、ここが嫌いなわけでもなかった。
「少し、長居するのが難しいです」
たぶん今夜、工房に帰ったら、棚の一番端にあるラベルの擦れた瓶を開けるだろう。
皿の上の最後の一切れを口に運び、リシェルは静かにナプキンを畳む。場違いだと思うことは、自分の居場所を知っていることときっと同じだ。
沈黙が落ち、青年は肩をすくめた。
「もちろん無理強いはしないさ。ただ、君にはもっと楽な道もあると思っただけでね」
「楽な道……」
リシェルは少しだけ考える。
「楽に見える道ならたくさんあります。だけど今は、そこに座り続ける自分が想像できないんです」
「ほう」
「手を洗って油の匂いを落とす時のほうが、生きてるって感じがします。その、なんていうか、わたしにとっては」
慌てて付け足す。なんとなく気が引け、いつもの晩酌のことは言わなかった。
貴族はしばらく黙り、やがて、感心したように息を吐く。
「君は面白いな」
「よく言われます。……あまりいい意味ではないですけど」
帰り際、「また誘ってもいいかい?」と訊ねられたリシェルは少しだけ迷い――それから、正直に答えた。
「はい。でも次は、もう少し気楽な場所でお願いしたいです」
「酒場とか?」
「そうですね。きしむ椅子と、油が染み込んだ机のあるところです」
貴族は声を上げて笑った。
「それは、なかなか難易度が高いね」
店の外に出ると、夜風が肌を撫でる。リシェルは深く息を吸った。
(……さ、帰って飲み直そう!)
帰り道の石畳は、少しだけ汚れていて、それが妙にリシェルを安心させた。




