↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
失われた職業を継ぐ者  作者: 陸海空
9/19

第9話 旅人の指先

 風の練習は、ソラが一番うるさかった。


「今、動いた」

「ソラが吹いたから」

「吹いてない」

「口、こうなってた」


 俺が唇をすぼめると、ソラは顔を背けた。

 カイが糸の先の布を見ている。


「もう一回。今度は口を閉じて」


 ソラは両手で口を押さえた。

 そのまま布へ顔を近づける。

 動かなかった。


 俺もカイも、まだ動かせていない。

 窓を閉じ、人が歩くのもやめ、三人で布を見つめる。そうすると、自分たちが思ったほど風を起こせていないことが、よく分かった。


「水なら出るのに」


 俺が言うと、ソラは口から手を離した。


「水、布にかければ?」

「それは風じゃない」


 カイが笑った。

 俺は帳面へ、今日も動かなかったと書いた。


     *


 旅人が来たのは、その日の午後だった。

 門の方で声がしたので顔を上げると、灰色の外套を着た女が、馬の手綱を引いて立っていた。


 背は母より少し高い。

 茶色い髪を後ろで束ね、肩には大きな鞄を掛けている。腰に短い棒のようなものがあるが、剣にも見えない。


 父が屋敷から出てきた。


「セレス?」

「久しぶり、アーヴィン」


 女は笑い、片手を上げた。

 父の顔が、普段とは少し違うものになった。


「来るなら先に知らせろ」

「知らせたでしょう。手紙」

「届いたのは今朝だ」

「あら。私が早かったのね」


 父は呆れたように息を吐いた。

 それでも、すぐに馬の手綱を受け取り、門を開ける。


「北へ行くのか」

「古い観測所を見たい。雪が積もる前に入れるか、まず道を調べるつもり」

「今からでは、戻るころには雪だぞ」

「だから、しばらく泊めてもらおうと思って」


 言いながら、女の目がこちらへ向いた。

 俺たちは庭の端に並んでいた。


「その子が?」

「ああ。ユウだ」


 俺は頭を下げた。

 カイも続く。

 ソラはカイの背中へ半分隠れた。

 女が近づいてくる。


「セレス・ヴァルナ。旅の魔法士よ」

「ユウ・レインフォードです」


 名乗ると、彼女は俺の足元を見た。

 帳面と、糸で吊るした布。

 少し離れたところには、水で濡れた板がある。


「何をしていたの?」

「風の練習。でも、動かない」

「水は?」

「出せる」


 セレスは板の丸を見て、眉を上げた。


「あなたが、そこへ?」

「うん」


 父が横から言った。


「話は、荷を下ろしてからだ。こいつは聞き始めると長い」

「あなたの子なのに?」


 父が彼女を見た。

 セレスは笑い、俺たちへ手を振って屋敷へ入っていった。


     *


 夕食で、セレスと父の関係を知った。

 父がまだ祖父について領外へ出ていたころ、魔物討伐の応援で一緒になったことがあるらしい。

 その後セレスは、国の西にある魔法学院で魔法を教えていたが、今は各地を巡り、古い施設や魔道具を調べているという。


「高位魔法士の方に、こんな遠くまでお越しいただくとは」


 マルクが言った。

 セレスは匙を置いた。


「肩書きは、お腹を満たしてくれないもの。今日は泊まる場所があって助かったわ」


 高位魔法士。

 俺はその言葉を覚えた。


 食後、父が地図を広げた。

 セレスは隣へ座り、北の森と丘を指で辿っている。


「ここから先は、古い道だな」


 父が言う。


「橋が残っているか、まず確かめたいの」

「人を出そう。ただ、収穫の後始末がある。明日すぐには無理だ」

「急がなくていい。道が駄目なら、冬を越してからにする」


 俺は父の横へ近づいた。

 地図には、屋敷の向こうに見える森より、ずっと広いものが描かれていた。


「何を見に行くの?」


 セレスが顔を上げる。


「昔の人が、空や魔力の流れを調べていた場所」

「今も使える?」

「それを知りたいの」


 彼女は地図を指した。

 小さな四角の脇に、俺の知らない文字が並んでいる。


「明日、あなたの練習も見せてくれる?」


 俺はすぐに頷いた。


     *


 翌朝、セレスは帳面から見た。

 最初のページをめくり、途中で手を止める。

 魔力の記録だった。


「これは、神殿で測った数字?」

「……自分で」


 俺は父を見た。

 庭の入口に立っていた父が、セレスへ近づく。


「少し、話しておきたい」


 二人は離れたところで、短く言葉を交わした。

 セレスが一度こちらを見たが、その顔から驚きは読み取れなかった。

 戻ってくると、彼女は帳面を閉じた。


「分かったわ。見えることと、魔法の練習は分けて考えましょう。私に見えたものを、いちいち教えなくていい」

「聞かないの?」

「気にはなる。でも、まずはあなたが何をできるか見たい」


 少し、安心した。

 セレスは庭の板へ目を向ける。


「水を、あの丸へ。いつもどおりに」


 俺は手を伸ばした。

 知らない人に見せるのは、ロルフ以来だった。少し肩に力が入る。


 水が前へ伸びた。

 板の丸の下へ当たり、俺は手を上げて修正する。


「止めて」


 すぐに流れを切った。

 セレスは俺の手首へ触れ、腕の位置を確かめた。


「狙いを直すとき、身体ごと動いたわね」

「手だけのつもりだった」

「それから、水を飛ばすために、出す量まで増やしている」


 俺は板を見た。

 丸の下から上まで、広く濡れていた。


「勢いをつけたいから」

「量と勢いは、別に変えられるわ」


     *


 セレスは指先に、小さな水の粒を作った。

 粒は落ちなかった。

 指から少し離れたところで、丸い形のまま浮いている。


 俺は思わず近づいた。


「それ、どうやってるの?」

「落ちようとする分を、魔力で支えているの」


 水の粒が伸びた。

 細い糸になり、丸まり、また粒へ戻る。


 彼女はそれを三つに分けた。

 一つが板へ向かって飛び、丸の真ん中へ当たる。


 二つ目も、同じ場所へ。

 三つ目はゆっくり進み、板の手前で落ちた。


「同じ量。でも、違う速さ」


 セレスは手を下ろした。

 俺は濡れた跡を見た。

 水を作る。作った水を動かす。


 彼女は、それを別々にやっていた。


「もう一回、見たい」

「では、今度はここを見て」


 セレスは小さな水の粒を作り、俺の前へ置くように浮かせた。


「形ができたあと、さらに水を増やす必要はない。ここからは、これをどう扱うか」


 粒が俺の目の前で揺れる。

 落ちない水を見ているだけで、今までの練習が少し違って見えた。


     *


 俺の番になると、水はすぐ落ちた。

 粒を作るところまではできる。

 しかし、それ以上の魔力を送らずに形を保とうとすると、支えがなくなったように鉢へ落ちる。


 逆に力を送り続けると、粒が大きくなった。


「そこで、全部を水に変えているのね」


 セレスが言った。


「水を作らない力も、残しておく」

「二つ一緒?」

「そう。だから最初は、一瞬でいい」


 俺はもう一度、小さな粒を作った。

 膨らませない。

 落とさない。


 手のひらの中に、水を載せているつもりで。

 ただ、その手は触れない。


 粒が一瞬、空中で止まった。


 すぐに落ちた。

 俺は鉢を見た。


「今の?」

「今の」


 セレスが頷いた。


「あなたは、水を作る力は十分に育てている。次は、作ったものへ力を届かせる練習をしましょう」


 俺は顔を上げた。

 魔法を始めたころより、ずっと早く、新しい感覚が掴めた。

 毎日出していた水は、無駄ではなかった。


     *


 昼前、カイとソラが来た。

 庭にセレスがいるのを見て、ソラが足を止めた。


「今日は、やらないの?」


 小声で俺に聞く。


「教わってる。二人も、いいって」


 セレスは振り返った。


「昨日の二人ね。魔法は使ったことがある?」

「まだ出ません」


 カイが答えた。

 ソラは俺の隣へ来て、袖を掴んだ。


「風、試してる」


 俺が代わりに言うと、彼女は吊るした布を見た。


「なるほど。最初の練習には、少し離れすぎているわね」


 布を外し、三人の前へ持ってくる。

 それから、手のひらへ薄い羽根を一枚載せた。


「まず、自分の手の上。遠くへ届かせるのは、そのあと」


 俺たちは順番に羽根を載せてもらった。


「水を出すときのように、何かを溜めようとしなくていい。周りにある空気へ触れるつもりで」


 俺は手の上を見る。

 力を送る。


 指先が湿った。


 セレスは俺の手を拭き、羽根を載せ直した。


「水は作り慣れているから、そちらへ行くのね」

「ずっと、そうなる」

「では、最初に水のことを忘れようとしないで。水と空気が、どう違うか考えてみましょう」


 俺は息を吸った。

 空気は、今も身体の周りにある。

 水のように、新しく作らなくていい。


 手の上へ意識を向ける。

 羽根を飛ばそうとするより、その下を、そっと撫でるように。

 羽根の端が動いた。


 俺は口を閉じていた。

 セレスも、隣の二人も動いていない。


「……動いた」

「ええ」


 もう一度。

 羽根が手のひらを滑り、指先から落ちた。

 ソラが俺の袖を引いた。


「俺も」


     *


 カイの羽根は、揺れなかった。

 ソラの羽根も、初めは動かなかった。


 ただ、セレスは二人に同じことを繰り返させなかった。

 カイには手を握って開かせ、力を感じる場所を聞く。

 ソラには羽根を見ず、手のひらの感覚へ集中するよう言った。


「見ないと、分からない」

「私が見ているわ」

「……ほんとに?」


 ソラは確認してから、目を閉じた。

 しばらくすると、羽根の細い毛が、かすかに立った。


 大きくは動かなかった。

 それでもセレスが声をかけると、ソラはすぐ目を開いた。


「できた?」

「少し、空気が動いたわ」

「見てた?」


 俺とカイに聞く。

 二人で頷くと、ソラは羽根をもう一度手へ載せようとした。


 セレスが止める。


「続きは、休んでから」

「あと一回」

「今の感じを覚えておくのも、練習よ」


 ソラは口を尖らせたが、羽根を返した。

 カイは自分の手を見ていた。


「俺は、まだ」

「ええ。でも、力を集めるところはできていた。次は土も試しましょう」


 セレスが庭の隅を指した。


「得意なものが、同じとは限らないから」


     *


 夕方、俺は帳面を開いた。

 今日の水の練習は、一滴を落とさずに保つこと。

 風は、羽根を動かしたこと。


 文字へ意識を向けると、新しい行があった。


【風魔法:1】


 俺は声を上げかけて、先に書いた。

 消える前に、今日の日付と一緒に残す。

 あれだけ動かなかった布。

 何日も出なかった風。

 道具と考え方を変えたら、たった一日で届いた。

 帳面を持って食堂へ行くと、セレスが父の地図を読んでいた。

 俺が風魔法のことを話すと、彼女は頷いた。


「今まで、力を集める練習をしていたでしょう。その続きがつながったのね」

「明日も教えてくれる?」


 セレスは父を見た。


「道の調査が終わるまで、どのくらい?」

「早くても十日。橋を直すなら、さらにかかる」

「では、その間に基礎を見ましょう」


 俺は帳面を胸へ抱えた。


「何から?」

「水を止めておくこと。風を弱く動かすこと。土に触れること」


 彼女は指を三本立てた。


「それから、魔法を使っている間も、周りを見ること」


 俺は父へ目を向けた。

 父が小さく笑う。


「剣の稽古と、同じ課題だな」


 セレスも笑った。


「両方やりたいなら、都合がいいわね」


 俺は明日のページを開いた。

 今度は、書きたいことが一ページでは収まりそうになかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。