第9話 旅人の指先
風の練習は、ソラが一番うるさかった。
「今、動いた」
「ソラが吹いたから」
「吹いてない」
「口、こうなってた」
俺が唇をすぼめると、ソラは顔を背けた。
カイが糸の先の布を見ている。
「もう一回。今度は口を閉じて」
ソラは両手で口を押さえた。
そのまま布へ顔を近づける。
動かなかった。
俺もカイも、まだ動かせていない。
窓を閉じ、人が歩くのもやめ、三人で布を見つめる。そうすると、自分たちが思ったほど風を起こせていないことが、よく分かった。
「水なら出るのに」
俺が言うと、ソラは口から手を離した。
「水、布にかければ?」
「それは風じゃない」
カイが笑った。
俺は帳面へ、今日も動かなかったと書いた。
*
旅人が来たのは、その日の午後だった。
門の方で声がしたので顔を上げると、灰色の外套を着た女が、馬の手綱を引いて立っていた。
背は母より少し高い。
茶色い髪を後ろで束ね、肩には大きな鞄を掛けている。腰に短い棒のようなものがあるが、剣にも見えない。
父が屋敷から出てきた。
「セレス?」
「久しぶり、アーヴィン」
女は笑い、片手を上げた。
父の顔が、普段とは少し違うものになった。
「来るなら先に知らせろ」
「知らせたでしょう。手紙」
「届いたのは今朝だ」
「あら。私が早かったのね」
父は呆れたように息を吐いた。
それでも、すぐに馬の手綱を受け取り、門を開ける。
「北へ行くのか」
「古い観測所を見たい。雪が積もる前に入れるか、まず道を調べるつもり」
「今からでは、戻るころには雪だぞ」
「だから、しばらく泊めてもらおうと思って」
言いながら、女の目がこちらへ向いた。
俺たちは庭の端に並んでいた。
「その子が?」
「ああ。ユウだ」
俺は頭を下げた。
カイも続く。
ソラはカイの背中へ半分隠れた。
女が近づいてくる。
「セレス・ヴァルナ。旅の魔法士よ」
「ユウ・レインフォードです」
名乗ると、彼女は俺の足元を見た。
帳面と、糸で吊るした布。
少し離れたところには、水で濡れた板がある。
「何をしていたの?」
「風の練習。でも、動かない」
「水は?」
「出せる」
セレスは板の丸を見て、眉を上げた。
「あなたが、そこへ?」
「うん」
父が横から言った。
「話は、荷を下ろしてからだ。こいつは聞き始めると長い」
「あなたの子なのに?」
父が彼女を見た。
セレスは笑い、俺たちへ手を振って屋敷へ入っていった。
*
夕食で、セレスと父の関係を知った。
父がまだ祖父について領外へ出ていたころ、魔物討伐の応援で一緒になったことがあるらしい。
その後セレスは、国の西にある魔法学院で魔法を教えていたが、今は各地を巡り、古い施設や魔道具を調べているという。
「高位魔法士の方に、こんな遠くまでお越しいただくとは」
マルクが言った。
セレスは匙を置いた。
「肩書きは、お腹を満たしてくれないもの。今日は泊まる場所があって助かったわ」
高位魔法士。
俺はその言葉を覚えた。
食後、父が地図を広げた。
セレスは隣へ座り、北の森と丘を指で辿っている。
「ここから先は、古い道だな」
父が言う。
「橋が残っているか、まず確かめたいの」
「人を出そう。ただ、収穫の後始末がある。明日すぐには無理だ」
「急がなくていい。道が駄目なら、冬を越してからにする」
俺は父の横へ近づいた。
地図には、屋敷の向こうに見える森より、ずっと広いものが描かれていた。
「何を見に行くの?」
セレスが顔を上げる。
「昔の人が、空や魔力の流れを調べていた場所」
「今も使える?」
「それを知りたいの」
彼女は地図を指した。
小さな四角の脇に、俺の知らない文字が並んでいる。
「明日、あなたの練習も見せてくれる?」
俺はすぐに頷いた。
*
翌朝、セレスは帳面から見た。
最初のページをめくり、途中で手を止める。
魔力の記録だった。
「これは、神殿で測った数字?」
「……自分で」
俺は父を見た。
庭の入口に立っていた父が、セレスへ近づく。
「少し、話しておきたい」
二人は離れたところで、短く言葉を交わした。
セレスが一度こちらを見たが、その顔から驚きは読み取れなかった。
戻ってくると、彼女は帳面を閉じた。
「分かったわ。見えることと、魔法の練習は分けて考えましょう。私に見えたものを、いちいち教えなくていい」
「聞かないの?」
「気にはなる。でも、まずはあなたが何をできるか見たい」
少し、安心した。
セレスは庭の板へ目を向ける。
「水を、あの丸へ。いつもどおりに」
俺は手を伸ばした。
知らない人に見せるのは、ロルフ以来だった。少し肩に力が入る。
水が前へ伸びた。
板の丸の下へ当たり、俺は手を上げて修正する。
「止めて」
すぐに流れを切った。
セレスは俺の手首へ触れ、腕の位置を確かめた。
「狙いを直すとき、身体ごと動いたわね」
「手だけのつもりだった」
「それから、水を飛ばすために、出す量まで増やしている」
俺は板を見た。
丸の下から上まで、広く濡れていた。
「勢いをつけたいから」
「量と勢いは、別に変えられるわ」
*
セレスは指先に、小さな水の粒を作った。
粒は落ちなかった。
指から少し離れたところで、丸い形のまま浮いている。
俺は思わず近づいた。
「それ、どうやってるの?」
「落ちようとする分を、魔力で支えているの」
水の粒が伸びた。
細い糸になり、丸まり、また粒へ戻る。
彼女はそれを三つに分けた。
一つが板へ向かって飛び、丸の真ん中へ当たる。
二つ目も、同じ場所へ。
三つ目はゆっくり進み、板の手前で落ちた。
「同じ量。でも、違う速さ」
セレスは手を下ろした。
俺は濡れた跡を見た。
水を作る。作った水を動かす。
彼女は、それを別々にやっていた。
「もう一回、見たい」
「では、今度はここを見て」
セレスは小さな水の粒を作り、俺の前へ置くように浮かせた。
「形ができたあと、さらに水を増やす必要はない。ここからは、これをどう扱うか」
粒が俺の目の前で揺れる。
落ちない水を見ているだけで、今までの練習が少し違って見えた。
*
俺の番になると、水はすぐ落ちた。
粒を作るところまではできる。
しかし、それ以上の魔力を送らずに形を保とうとすると、支えがなくなったように鉢へ落ちる。
逆に力を送り続けると、粒が大きくなった。
「そこで、全部を水に変えているのね」
セレスが言った。
「水を作らない力も、残しておく」
「二つ一緒?」
「そう。だから最初は、一瞬でいい」
俺はもう一度、小さな粒を作った。
膨らませない。
落とさない。
手のひらの中に、水を載せているつもりで。
ただ、その手は触れない。
粒が一瞬、空中で止まった。
すぐに落ちた。
俺は鉢を見た。
「今の?」
「今の」
セレスが頷いた。
「あなたは、水を作る力は十分に育てている。次は、作ったものへ力を届かせる練習をしましょう」
俺は顔を上げた。
魔法を始めたころより、ずっと早く、新しい感覚が掴めた。
毎日出していた水は、無駄ではなかった。
*
昼前、カイとソラが来た。
庭にセレスがいるのを見て、ソラが足を止めた。
「今日は、やらないの?」
小声で俺に聞く。
「教わってる。二人も、いいって」
セレスは振り返った。
「昨日の二人ね。魔法は使ったことがある?」
「まだ出ません」
カイが答えた。
ソラは俺の隣へ来て、袖を掴んだ。
「風、試してる」
俺が代わりに言うと、彼女は吊るした布を見た。
「なるほど。最初の練習には、少し離れすぎているわね」
布を外し、三人の前へ持ってくる。
それから、手のひらへ薄い羽根を一枚載せた。
「まず、自分の手の上。遠くへ届かせるのは、そのあと」
俺たちは順番に羽根を載せてもらった。
「水を出すときのように、何かを溜めようとしなくていい。周りにある空気へ触れるつもりで」
俺は手の上を見る。
力を送る。
指先が湿った。
セレスは俺の手を拭き、羽根を載せ直した。
「水は作り慣れているから、そちらへ行くのね」
「ずっと、そうなる」
「では、最初に水のことを忘れようとしないで。水と空気が、どう違うか考えてみましょう」
俺は息を吸った。
空気は、今も身体の周りにある。
水のように、新しく作らなくていい。
手の上へ意識を向ける。
羽根を飛ばそうとするより、その下を、そっと撫でるように。
羽根の端が動いた。
俺は口を閉じていた。
セレスも、隣の二人も動いていない。
「……動いた」
「ええ」
もう一度。
羽根が手のひらを滑り、指先から落ちた。
ソラが俺の袖を引いた。
「俺も」
*
カイの羽根は、揺れなかった。
ソラの羽根も、初めは動かなかった。
ただ、セレスは二人に同じことを繰り返させなかった。
カイには手を握って開かせ、力を感じる場所を聞く。
ソラには羽根を見ず、手のひらの感覚へ集中するよう言った。
「見ないと、分からない」
「私が見ているわ」
「……ほんとに?」
ソラは確認してから、目を閉じた。
しばらくすると、羽根の細い毛が、かすかに立った。
大きくは動かなかった。
それでもセレスが声をかけると、ソラはすぐ目を開いた。
「できた?」
「少し、空気が動いたわ」
「見てた?」
俺とカイに聞く。
二人で頷くと、ソラは羽根をもう一度手へ載せようとした。
セレスが止める。
「続きは、休んでから」
「あと一回」
「今の感じを覚えておくのも、練習よ」
ソラは口を尖らせたが、羽根を返した。
カイは自分の手を見ていた。
「俺は、まだ」
「ええ。でも、力を集めるところはできていた。次は土も試しましょう」
セレスが庭の隅を指した。
「得意なものが、同じとは限らないから」
*
夕方、俺は帳面を開いた。
今日の水の練習は、一滴を落とさずに保つこと。
風は、羽根を動かしたこと。
文字へ意識を向けると、新しい行があった。
【風魔法:1】
俺は声を上げかけて、先に書いた。
消える前に、今日の日付と一緒に残す。
あれだけ動かなかった布。
何日も出なかった風。
道具と考え方を変えたら、たった一日で届いた。
帳面を持って食堂へ行くと、セレスが父の地図を読んでいた。
俺が風魔法のことを話すと、彼女は頷いた。
「今まで、力を集める練習をしていたでしょう。その続きがつながったのね」
「明日も教えてくれる?」
セレスは父を見た。
「道の調査が終わるまで、どのくらい?」
「早くても十日。橋を直すなら、さらにかかる」
「では、その間に基礎を見ましょう」
俺は帳面を胸へ抱えた。
「何から?」
「水を止めておくこと。風を弱く動かすこと。土に触れること」
彼女は指を三本立てた。
「それから、魔法を使っている間も、周りを見ること」
俺は父へ目を向けた。
父が小さく笑う。
「剣の稽古と、同じ課題だな」
セレスも笑った。
「両方やりたいなら、都合がいいわね」
俺は明日のページを開いた。
今度は、書きたいことが一ページでは収まりそうになかった。




