第10話 知っている風
翌朝、セレスは庭へ三つの器を並べた。
一つには水。
一つには乾いた土。
最後の一つは、空だった。
「今日は、それぞれへ魔力を届かせてみましょう」
俺は空の器を見た。
「風?」
「そう。何も入っていないように見えるけれど、空気はあるわね」
セレスが薄い羽根を器の縁へ置いた。
指を近づけると、羽根がゆっくり内側へ動いた。器の底へ落ちる前に、今度は反対へ流れていく。
見えないものを、彼女は動かしていた。
羽根は、その動きについていく。
「羽根を押そうとするより、その周りへ流れを作ってみて」
俺は手を伸ばした。
昨日は、手のひらの上だけだった。今日は少し離れている。
魔力を外へ送る。
羽根の下を撫でるつもりで。
端が揺れた。
だが、そこから動かなかった。
「どんな流れを考えている?」
セレスに聞かれて、俺は手を下ろした。
「羽根の下から、押す感じ」
「どちらへ?」
「……上?」
「それなら、横へ動かないのはおかしくないわ」
俺は羽根を見た。
確かにそうだった。
*
風を起こす。
そう考えると、漠然としたものしか浮かばなかった。
だが、知っている風ならある。
夏の部屋で、首を振りながら空気を送っていた扇風機。
風呂上がりに髪へ当てたドライヤー。
窓を二つ開けたとき、部屋を抜けていった風。
扇風機の前に紙を置くと、同じ方向へ飛んだ。
途中で強くなったり弱くなったりせず、空気が流れ続けていた。
俺は器の片側へ手を置いた。
羽根だけではなく、器の上を横切る空気を思い浮かべる。
流れの入口と、出口。
片方から送り、反対へ抜ける。
羽根が滑った。
器の縁から落ち、底を横切る。
「あ」
声を出しても、止まらなかった。
羽根は反対側の壁にぶつかり、そこで揺れ続けた。
「今、何を変えたの?」
セレスが聞いた。
俺は手を下ろした。
「風が通るところを、決めた」
「羽根ではなく?」
「うん。こっちから、こっちまで」
器の両側を指す。
セレスは頷き、羽根を元へ戻した。
「では、その通り道を、少し広げてみましょう」
*
カイとソラが来たとき、俺は羽根を動かすだけでなく、器の中で止める練習をしていた。
強く送ると、羽根は飛び出した。
弱すぎると動かない。
ちょうどよい風を探すとき、頭の中には扇風機の弱い風があった。
前の人生で意識したこともない感覚だったが、思い出してみると、比べられるものがいくつもある。
「もう、そんなに動くの?」
ソラが器を覗いた。
俺は頷いた。
「風の道を作る」
「道?」
「こっちから来て、向こうへ行く感じ」
ソラは俺の向かいへ手を置いた。
俺が急いで自分の手を引く。
「一人ずつ」
「分かってる」
彼は羽根を睨んだ。
指先へ力が入っている。
羽根の細い毛が揺れた。
そのあと、小さく震えるだけで止まる。
「……動かない」
「入口と出口を決めてみて」
俺が器を指すと、ソラは眉を寄せた。
「入口って、どこ?」
「自分で決める」
「じゃあ、ここ」
手の前を指し、そのまま反対側を見る。
羽根が少し滑った。
ソラが顔を上げた。
「動いた」
「うん」
「今、ちゃんと動いた」
「見てた」
カイが頷くと、ソラはもう一度器へ向き直った。
次は動かなかったが、さっきより黙って考えていた。
*
カイは風を試したあと、土の器へ移った。
セレスが器を寄せる。
「こちらもやってみる?」
「うん」
カイは乾いた土へ指を近づけた。
俺も隣へ座る。
「今日は、土を増やそうとしなくていい。あるものへ力を届かせて、その手触りを探して」
セレスが言った。
カイは頷き、じっと手元を見た。
俺も別の器で試した。
土の中へ魔力を送る。
水を作らない。風のように吹き飛ばさない。
だが、表面を動かそうとすると、粒が散った。
風になっていた。
セレスが俺の手を止める。
「また、できる方で解こうとしているわね」
「……土に入っていかない」
「どんなものだと思っている?」
俺は器の土を見た。
乾いた細かな粒。
触れば崩れ、握っても形にならない。
そこから、別のものを思い出した。
子供のころ、粘土で作った形。
指で押せばへこみ、伸ばせば細くなる。
ただし、目の前の土は粘土ではない。
「少し濡らしたら、やりやすい?」
「まとまりはよくなるわ。ただ、水で固めたものと、魔法で動かしたものを取り違えないように」
俺は器の端へ、少量の水を足した。
指で混ぜ、小さな塊にする。
触っている指の先へ、魔力を送る。
塊の表面を押すつもりで。
指は動かさない。
土が、わずかにへこんだ。
俺は顔を近づけた。
指の重さで押しただけかもしれない。
手を離し、今度は少し上から力を届かせる。
変化はなかった。
「……できたと思った」
「触れたままなら、動かせたようね」
セレスは塊を持ち上げ、へこんだ場所を見た。
「土は、触れるところから始める人も多いわ。離れた場所へ届かせるのは、次の段階」
俺はもう一度指を置いた。
*
先に形を変えたのは、カイだった。
彼は濡らしていない土を握り、手の中で押し固めていた。
指を開く。
小さな塊が残った。
「これ?」
カイが聞く。
セレスはそれを受け取り、軽く指で擦った。
表面は崩れたが、中は残っていた。
「ええ。今度は、握る力を弱くしてみましょう」
俺はカイを見た。
本人はまだ半信半疑らしく、掌の土とセレスを交互に見ている。
風では、俺の方が先だった。
土では、カイの方が早い。
何を思い浮かべるかだけでなく、感じ取りやすいものにも違いがあるらしかった。
ソラが横から覗いた。
「石になった?」
「土だと思う」
「固い?」
「少し」
ソラは指で突き、すぐに引っ込めた。
「俺もやる」
彼の風の器は、いつの間にか端へ寄せられていた。
*
その日の午後、セレスは俺だけに、もう少し細かな話をした。
俺は帳面を開き、彼女の前へ座った。
「あなた、水を勢いよく出すとき、何を考えていた?」
「細いところを、速く通る感じ」
「見たことがあるの?」
「……桶から水が出るところとか」
それも見たことがある。
ただ、一番はっきり思い浮かぶのは、ホースの先を指で狭めたときだった。
セレスは小さな水の粒を作った。
「同じだけの水を動かしてみましょう。まず、広く」
粒が平たくなり、短い帯になって鉢へ落ちる。
「次は、狭く」
細い筋が、先ほどより速く鉢の内側へ当たった。
俺は身を乗り出した。
知っている。
それを、自分の手の先でできる。
「量を増やさなくても、当てる場所を狭くできる?」
「できるわ。ただし、細く保つ制御と、勢いをつける力は必要になる」
俺は庭の板へ顔を向けた。
いつもの流れを、そのまま強くするのではない。
先だけを細くする。
頭の中に、具体的な形があった。
*
最初の水は、途中で散った。
出口を狭くしたつもりが、作る量まで減らしていた。
二度目は、手の前に水を少し留めた。
そこから細い筋へ変え、板へ向ける。
今までより鋭い音がした。
水が板へ当たり、跳ね返る。
俺はすぐに止めた。
丸の中に、新しい濡れた跡ができている。
「今のは、消費が?」
「四」
前にも、同じくらい使っていた。
だが、届き方が違った。
セレスは板へ歩き、表面を確かめた。
「今は練習用に出力を抑えているけれど、目に当てれば大怪我になるわ。魔力を込めれば、この板を傷つける水弾にもできる。次は、威力を上げる前に狙いを安定させましょう」
俺は頷いた。
強くなった手応えが、腕の中に残っていた。
前の人生で見ていたものは、知識として覚えているだけではなかった。
音も、動きも、当たった水の感触も、思い出せる。
この世界の魔法で、それをどこまで再現できるのだろう。
*
セレスが来てから八日目、俺は土を少し動かせるようになった。
指を触れた場所から、細い溝を伸ばす。
まだ指二本分ほどだったが、手を動かさずに土の表面が変わった。
【土魔法:1】
帳面へ写し、丸をつける。
カイも、土を固める練習が安定してきた。
ソラは風を動かせる日と、できない日があったが、以前のようにすぐ水や土へ移らず、羽根の前に長く座るようになっていた。
俺の風は、器を離れた。
庭へ吊るした布を、ようやく横へ揺らせたのだ。
頭の中では、小さな扇風機が回っていた。
広げすぎず、布まで空気の道をつなぐ。
最初の道ができれば、流れを続けるのは少し楽になった。
【風魔法:2】
数字を見て、俺はセレスへ報告した。
彼女は頷き、次に俺の帳面を指す。
「今日は、どのくらい使った?」
「朝と今で、二十一」
「まだ余裕があるのね」
「全部で四十二になった」
最初の六から、ずいぶん増えていた。
練習で扱える量が増え、朝に使っても、休めば午後にまた使える。無駄に散る分が減ったので、同じ魔力で試せる回数も増えていた。
セレスは少し黙った。
帳面の古い記録をめくり、新しいものと見比べる。
「伸び方は、続けて見ておきたいわね」
「速い?」
「あなたくらいの年齢で、こんなに毎日使う子を、私は多く見ていないの」
彼女は帳面を返した。
「だから、知ったふうに決めつけずに、記録しておきましょう」
*
夕食のあと、セレスが庭へ出た。
俺もついていくと、彼女は腰の短い棒を抜いた。
木の柄の先に、濃い青色の石が嵌まっている。
短い杖だった。
「火も少し見ておきましょうか」
俺は頷いた。
灯り以外の火を、初めて教わる。
セレスは石の先へ、小さな炎を灯した。
炎は風に揺れながらも、消えなかった。
「まずは、燃やすものへ移さずに保つこと。水を留めた練習が、ここでも役に立つわ」
俺は炎を見た。
思い浮かんだのは、台所のコンロだった。
丸く並んだ、一定の大きさの火。
強くしすぎれば鍋の底からはみ出し、弱めれば小さくなる。
そのうちの一つだけを、手の先へ。
俺は指を伸ばした。
「もう少し、身体から離して」
セレスが手首の位置を直す。
火が生まれた。
いつもなら、芯へ移すか、すぐに消える。
今日は、その小さな形を保つ。
炎が揺れた。
消えかけたところへ、力を足す。
大きくなりすぎる前に、弱める。
ほんの短い間だった。
それでも、俺は自分の意思で火を消すまで、指先の向こうを照らせた。
セレスが俺を見た。
「……何を思い浮かべたの?」
俺は火の消えた場所を見た。
「同じ大きさで、燃えている火」
「灯り?」
「それより、料理するときみたいな」
彼女は少し首を傾げたが、そこで質問を止めた。
「明日も、その形から始めましょう」
俺は頷いた。
知らない魔法を覚えるたび、前の人生の何でもない光景が、違う意味を持ち始めていた。




