第11話 帰ってきた調査隊
帰ってきた馬は、屋敷の門をくぐる前から泡を吹いていた。
俺は庭で、器の上に水を留める練習をしていた。蹄の音に顔を上げると、門番が走り出す。
「領主様を!」
男の声が飛んだ。
浮かせていた水が落ち、靴の先を濡らした。
馬は二頭。
出発したのは三頭だった。
先頭の男が鞍から下りる。後ろの馬には二人乗っていた。一人がもう一人を支えている。
支えられた男の足が、不自然な向きに揺れていた。
俺は器を置いた。
近づきかけたところで、門番が片手を上げる。
「ユウ様、そこに」
足を止めた。
屋敷の戸が開き、父とセレスが出てきた。
*
負傷した男は、庭の長椅子へ寝かされた。
脛に巻いた布が赤くなっている。靴は片方しかなく、残った方も泥だらけだった。
「ダン。聞こえるか」
父が声をかける。
男は目を開き、頷いた。
「聞こえます。足を……やられました」
セレスが膝をつき、布の結び目へ手を伸ばした。
「誰に?」
「石の……兵です」
父が顔を上げた。
先頭の馬に乗っていた男へ目を向ける。
「説明しろ、ガレス」
「古い橋は渡れました。道も、途中までは残っています」
ガレスは息を整えながら答えた。
「丘の上に建物がありました。西の壁は崩れていましたが、正面には扉が残っていて……その脇に、像が二体」
「入ったのか」
「いいえ。扉の文字を写していました。そのとき、中で灯りがつきました」
セレスの手が、一瞬止まった。
「何色?」
「白です。窓の奥から。そのあと、像が動きました」
ダンが低く呻いた。
セレスは巻き布を外し、傷を見た。
「オルダを呼んで。あと、きれいな布と水」
母が屋敷へ戻る。
俺は井戸の方を見た。
「水、出せる」
セレスがこちらを向いた。
少し考え、母へ声をかける。
「先に、きれいな器を一つ」
*
俺が任されたのは、血で汚れた手を洗うための水だった。
傷を洗う分は、セレスが自分で用意する。
母から器を受け取り、長椅子の少し横へ置いた。
手を伸ばす。
水が出ない。
指先に力を入れすぎていた。
俺は一度、息を吐いた。
庭でいつもやっていることだ。器へ水を落とす。それだけ。
細い流れが生まれた。
器の底を満たし、少しずつ水面が上がる。
ガレスが隣へしゃがんだ。
手の甲には、乾いた血がついていた。
「もう十分です」
俺は水を止めた。
ガレスが手を洗う。水が赤く濁っていく。
「助かりました」
俺は頷いた。
庭の花へやるときとは、違った。
父はガレスの肩に手を置いた。
「残りの一人は」
「トールです。下の道で、逃げた馬を追っています。別れるときには、怪我はありませんでした」
「迎えを出す。お前は、もう走らなくていい」
父が門番へ指示を出した。
俺は少しだけ息をついた。
戻らなかった馬に乗っていた人も、生きている。
だが、門の向こうを見ても、まだ姿はなかった。
*
ダンの傷は、石の刃で切られたものだった。
脚の骨まで達してはいなかったが、深い。
セレスの手から、淡い光が落ちる。
オルダのものとは色が違い、白に近かった。傷がわずかに縮むと、彼女は光を止めた。
「出血を抑えたわ。あとはオルダに任せましょう」
ダンが目を閉じる。
胸が、ゆっくり上下していた。
セレスは立ち上がり、ガレスへ向き直った。
「像は、建物の外まで追ってきた?」
「階段の下までは。そこから先へは来ませんでした」
「二体とも?」
「動いたのは一体です。もう一体は、倒れていました」
彼女は父を見た。
「境界が残っているかもしれない」
「なら、近づけさせない」
父は即座に答えた。
ガレスへ顔を戻す。
「丘へ行く道に、目印を置けるか」
「明日なら」
「場所だけ教えろ。今日は休め」
ガレスは頷き、腰の筒を外した。
「これを」
革紐で口を留めた、短い木の筒だった。
「扉の写しです。途中までですが」
*
写しは、父の書斎で広げられた。
薄い紙の上に、黒い文字と線が並んでいる。
俺は入口に立っていた。
セレスが机へ身を寄せ、父とマルクがその横から覗き込む。
「古い文字ね」
セレスが指で一文字ずつ辿る。
声が、庭にいたときより低くなっていた。
「北方観測……ここが欠けている」
父が紙の端を見た。
「お前の探していた場所か」
「場所は合っていると思う。でも、この下の文が……」
俺も見たかった。
扉には何が書いてあったのか。石の兵は、なぜ動いたのか。
マルクが俺に気づき、手招きした。
机の端へ小さな踏み台を置く。
「触らず、ご覧ください」
俺は台へ上がった。
黒い線が、目の前へ近づく。
文字の形は分からない。
ただ、隅に描かれた模様に、目が留まった。
何本もの線が、中心から外へ伸びている。
途中で枝分かれし、それぞれ別の小さな円へつながっていた。
道のようだった。
川のようでもある。
その中心を見つめたとき、視界に白い文字が浮いた。
【職業継承施設】
俺は息を止めた。
父でも、母でもない。
見ているのは、紙だった。
白い文字は、紙に書かれた黒い線とは違う場所に浮いている。
もう一行が、ゆっくり現れた。
【管理者:不在】
目の奥が、重くなる。
俺は台の縁を掴んだ。
【継承経路:断絶】
そこで、視線を外した。
「ユウ?」
父の声がした。
俺は目を閉じ、痛みが引くのを待った。
「何か見えたのか」
頷いた。
父が台から下ろしてくれる。
俺は目を開け、セレスを見た。
「職業継承施設って、出た」
彼女は動かなかった。
「それから、管理者がいない。継承経路が、切れてる」
書斎が静かになった。
マルクが紙へ目を落とす。
父はセレスを見ていた。
彼女は椅子を引き、俺と同じ高さまで腰を下ろした。
「ユウ。紙の文字が読めたの?」
「違う。いつもの、白い文字」
「この模様を見たら?」
「うん」
セレスは紙の隅へ目を向けた。
さっき俺が見ていた、枝分かれする線の模様だった。
「……観測所だけではなかったのね」
*
セレスは鞄から、小さな本を取り出した。
紙ではなく、薄い革のようなページが綴じられている。角は擦り切れ、途中には細い布が何本も挟まっていた。
あるページを開き、机へ置く。
似た模様があった。
線の数は違う。外側の円も少ない。
それでも、中心から道が広がる形は同じだった。
「継承院の印よ」
セレスが言った。
「職業を調べる神殿とは、違う?」
「今の神殿になる前に、そういう場所があったと考えられているの」
彼女は本を閉じず、父へ向き直った。
「古い記録には、職業の継承を助ける施設が各地にあったと書かれている。ただ、現物はほとんど残っていない。名前だけ残った遺跡も多いわ」
「その一つが、北にある?」
「可能性は高い」
父は扉の写しを見た。
「では、石の兵は」
「施設を守るものなのでしょうね。でも、なぜ今も動けるのかは分からない」
俺は枝分かれする線を見た。
剣士から火刃士へ。
職業から、別の職業へ進む道。
その道を助ける場所が、森の向こうにある。
「断絶って、壊れてること?」
セレスは俺へ顔を戻した。
「何が切れているのか、調べなければ分からないわ」
すぐに直せるとは言わなかった。
俺が見えた文字だけで、答えを決めることもしなかった。
「でも、その名前が見えたことは、大きい」
彼女は本の模様へ指を置いた。
「私がこの印を探して、ここまで来たのだから」
*
夕方には、トールも戻った。
逃げた馬を連れて、迎えに出た兵と一緒に門をくぐった。
俺は食堂の窓から、それを見た。
馬の鼻面へ手を当て、トールが長く息を吐く。
オルダも来ていた。
ダンの足を診て、しばらく歩かせないよう父へ話している。
屋敷には、人の出入りが増えた。
食事を運ぶメラが忙しそうで、俺は邪魔にならない場所へ椅子を寄せた。
そこへ、カイとソラが来た。
カイの父親が、父に呼ばれたらしい。
「怪我した人、いた?」
ソラが小声で聞いた。
俺は頷いた。
「足。でも、治療してもらった」
「魔物?」
「石の兵だって」
ソラの顔が強張った。
カイは窓の外へ目を向ける。
「動く石?」
「うん」
「……盾、持ってても痛そう」
俺はカイを見た。
彼は庭で使っている木剣のことではなく、戦う人のことを考えているようだった。
ソラが俺の袖を掴んだ。
「ここまで来ない?」
「階段から先は、追ってこなかったって」
「ほんとに?」
答えようとして、俺は口を閉じた。
自分で見たわけではない。
「父様が、道へ人を近づけないようにしてる」
ソラはしばらく俺を見て、それから少しだけ手を緩めた。
*
その夜、セレスに呼ばれた。
書斎の机には、扉の写しがまだ置かれている。
父もいた。
「今日は、もうあれを見なくていい」
俺が紙へ目を向ける前に、セレスが言った。
「代わりに、一つ確認したいの」
彼女は鞄から、布に包んだものを取り出した。
中にあったのは、黒い石の欠片だった。
掌に収まるくらいの大きさ。
一面だけが平らで、細い溝が刻まれている。
「別の遺跡で見つけたものよ。魔力を通す仕組みがあったことは分かる。でも、用途は分からない」
父が机の向こうから聞いた。
「危険は?」
「これまで調べた範囲では、反応しなかった。今夜は、魔力も流させない」
セレスが俺へ石を向けた。
「文字が見えるかどうかだけ。何も出なくても、それで終わり」
俺は椅子へ座り、石を見た。
人の技能を読むときと同じように、意識を向ける。
何も出ない。
溝の形を見る。
途中で途切れた線が、石の内側へ向かっている。
薄い文字が浮かんだ。
【継承端末】
【接続:なし】
俺は声に出して読んだ。
セレスが父へ目を向ける。
そのとき、石の溝に青い光が走った。
俺は手を引いた。
触っていなかった。
魔法も使っていない。
セレスが石へ手をかざす。
周囲に薄い光の膜ができた。
「動かないで」
声が鋭かった。
石の光は、膜の内側で一度瞬いた。
そして、俺の視界だけに、新しい文字が現れた。
【継路眼を確認】
【案内機能を再開します】
俺は椅子の背へ身体を寄せた。
さっきまでとは違う。
俺が読むのを待っているように、文字は消えなかった。
セレスが俺を見た。
「何が見えた?」
答える前に、もう一行が浮かんだ。
【北方第七継承院――救援要請を受信】




