第8話 届かせるために
四歳になってから、裏庭の一角が俺の練習場所になった。
井戸から少し離れた、土の露出した場所だ。父が丸太を置き直し、その向こうへ古い板を立ててくれた。
「水は、こちらへ向けて使いなさい。道へは出さないこと」
「剣は?」
「丸太の前だ。人が近づいたら止める」
「うん」
父は俺に言いつけを繰り返させると、仕事へ戻っていった。
母も、もう鉢を持って横には立たなかった。ときどき窓から声をかけてくるが、練習の順番は俺が決めていい。
最初の日、俺は新しい帳面を開いた。
水。剣。文字。
その下に、今日やりたいことを書き加える。
水を、前へ。
*
これまでの水は、手の下へ落ちるだけだった。
生成したあとは、普通の水と同じように地面へ向かう。
なら、横へ出せばいい。
そう思って手のひらを板へ向けたが、水が指先から垂れ袖を濡らしただけだった。
「……違うか」
手の向きだけでは駄目だった。
俺は袖を折り返し、もう一度構えた。
水を作るとき、俺は水の形と冷たさを思い浮かべている。
そこに、動きを足せばどうだろう。
井戸の桶を傾けたとき。
杯から勢いよくこぼしたとき。
水は、落ちるだけではなく、少し前へも進む。
俺は手のひらの先に、小さな流れを思い描いた。
魔力を送る。
透明な筋が斜めに伸びた。
すぐに落ち、足元の土を濡らす。
板には届かなかった。
それでも、手の真下ではなかった。
【魔力:22/26】
四使っていた。
いつもの水やりより、ずっと短い時間なのに。
俺は帳面へ、板と自分の足を描いた。
その間に、濡れた場所の印をつける。
まずは、これを少しずつ遠くへ。
*
カイとソラには、その週のうちに見つかった。
二人が庭へ来たとき、俺は濡れた土を棒で測っていた。
「何してるの?」
「水が、どこまで飛んだか」
「飛ぶの?」
カイが俺の手を見た。
ソラは袖を見た。
「服、濡れてる」
「最初に失敗した」
「寒くない?」
「少し」
ソラは呆れたような顔をした。
「先に着替えればいいじゃん」
もっともだった。
俺が屋敷へ戻る間、二人は濡れた場所の前で待っていた。戻ると、カイが地面へ枝を立てている。
「ここまで?」
「うん」
「次、越えたら分かる」
ソラはその後ろへ、もう一本立てた。
「こっちまで飛ばして」
「いきなりは無理」
「じゃあ、いつ?」
「分からない」
俺は手を伸ばした。
二人が横へ避ける。
水が、細く前へ出た。
最初の枝の少し手前に落ちる。
「あー」
ソラが言った。
俺も同じ気持ちだった。
「昨日は越えた」
「今日は負け?」
「昨日の俺に?」
カイが笑った。
俺はもう一度、濡れた場所へ印をつけた。
*
十日ほど続けると、足元へ垂れる水は減った。
代わりに、短い流れが前へ伸びる。
距離を出そうとして一気に魔力を送ると、水が散った。
細すぎれば、途中で筋が切れる。
同じ太さを保ちながら勢いをつける方が、遠くまで届いた。
カイが立てた枝を越えた日は、二人とも来ていなかった。
俺はその場所へ小石を置き、帰ってから帳面に大きな丸を描いた。
次に会ったとき、ソラは自分の立てた枝を指した。
「こっちは?」
「まだ」
「じゃあ、残しておく」
彼は枝の根元へ土を寄せた。
どうやら、俺が越えるまで抜かせないつもりらしかった。
水の練習が終わると、三人で木剣を持った。
カイは俺の古い木剣をソラへ渡す。ソラは毎回、貸しているだけだと念を押す必要があるくらい、自分のもののように扱っていた。
「今日は足から」
俺が言うと、ソラは木剣を下ろした。
「また?」
「振るとき、転ぶから」
「俺、昨日は転んでない」
「昨日、いなかったじゃん」
「家で」
カイが前へ出た。
「じゃあ、見せて」
ソラは少し黙り、それから構えた。
一歩進み、木剣を振り下ろす。
身体が前へ流れ、最後に小さく跳ねた。
「転んでない」
確かに、転んではいなかった。
*
父は、数日に一度だけ俺たちの練習を見た。
三人を並ばせ、一人ずつ動かせる。
カイには、肩を固くしないこと。
ソラには、振る前に目を閉じないこと。
俺には、止まる場所を先に決めること。
「最後に何とかしようとするから、崩れる」
父は木剣を持ち、俺の前へ立った。
「私の剣へ、ゆっくり当ててみろ」
俺は踏み込み、振り下ろした。
乾いた音がする。
父の木剣に触れたところで止めるつもりだったが、腕がさらに下がった。父が受ける位置を変え、俺の身体を支える。
「今、どこで止めた?」
「……当たってから」
「当たる前から、止まれる形にしておくんだ」
父は俺の肘を指した。
伸ばしきっている。
少し曲げて、もう一度。
今度は力が入りすぎた。
何度か繰り返し、最後に一度だけ、足を残したまま木剣を止められた。
「それだ」
父が言った。
俺は手の感触を覚えようとした。
隣でカイが、自分の肘を曲げ伸ばししている。
ソラも、俺の足元を見ていた。
*
次にオルダが来たときには、板へ水を届かせられるようになっていた。
距離は、俺の歩幅で四歩ほど。
勢いは弱く、板を濡らすだけだったが、俺は自慢したかった。
オルダは庭の端に立ち、流れを見た。
「ずいぶん先まで出るようになったね」
「もっと強くしたら、水の弾になる?」
「なる。ただ、勢いをつけるほど、狙いも大事になるよ」
彼女は板へ目を向けた。
その後ろに道がないことを確かめ、頷く。
「練習場所は、ちゃんと選んだんだね」
「父様が作った」
オルダは屋敷を振り返った。
それから、俺の帳面を借りて記録を眺める。
「何を使ってる? 水だけかい」
「火も。灯りをつける」
「ほかは?」
「教わってない」
俺が言うと、彼女は土の上へしゃがんだ。
「風と土もあるよ。普通の属性魔法としては、その四つを習う人が多い」
「オルダは?」
「今話した四つなら、水と土。火は少し使える。風は苦手だね。専門は治癒だよ。」
俺は身を乗り出した。
「土、見たい」
オルダは足元の小石を避け、指を地面へ近づけた。
乾いた土が、わずかに動く。
盛り上がった部分が固まり、小さな突起になった。
俺は息を止めた。
大きな変化ではない。けれど、今まで誰も触っていなかった土が動いた。
「これ、大きくしたら壁になる?」
「できる人ならね」
「穴も掘れる?」
「掘れるよ。ただ、この下まで固い石だったら、私には難しい」
俺は井戸の方を見た。
畑。溝。道。
頭の中に、いくつも場所が浮かんだ。
*
土魔法は、水とは感覚が違った。
オルダは、まず地面へ魔力を届かせるよう教えた。
俺はしゃがみ、土へ手を近づける。
身体の中から力を送るところまでは、もう分かる。
しかし、その先が分からなかった。
水は自分で作る。土は、すでにそこにある。
動いてほしい場所を見ても、何も起きない。
水を出すときのように力を押すと、指先に湿り気が生まれた。
「それは水だね」
オルダが言った。
俺は手を拭いた。
「土を動かすつもりだった」
「慣れた方へ行くんだろう。今日は、違う感じがあると覚えれば十分さ」
彼女が作った突起を、俺は指で触った。
少し固い。
自分の力を、その中へ染み込ませるつもりで送ってみる。
変化はなかった。
魔力だけが減った。
「……出ない」
「水も、最初は出なかっただろう」
そのとおりだった。
風については、オルダも手本を見せられなかった。
代わりに、軽い布を糸で吊るす練習を教えてくれた。
「息で吹いて動かすんじゃないよ」
「分かってる」
そう答えたのに、最初は思わず口をすぼめた。
オルダが笑い、俺も笑った。
風も土も、その日は技能にならなかった。
ただ、庭に新しい練習道具が二つ増えた。
*
水魔法の練習は、そのあとも続けた。
遠くへ飛ばすだけではなく、近いところへ弱く、遠いところへ強く。
板に丸を描き、そこを狙う。
勢いを変えると、届く場所も変わった。
同じ方向へ手を向けても、強く出せば丸の上、弱く出せば下へ落ちる。
俺は板の前で首を傾げた。
水を出す魔法なのに、当てるためには普通の水の動きも考えなければならない。
前の人生で、ホースを使ったことがあった。
遠くへ水を飛ばすとき、少し上へ向けた。
それを思い出し、手の角度を変える。
水が弧を描いた。
板の丸より、少し右へ当たった。
「惜しい!」
カイが横から言った。
ソラは板を見つめている。
「もうちょっと左」
「やってみる」
次は左へ外れた。
ソラが両手を広げた。
「ちょっとだって!」
俺は手を下ろし、笑った。
狙いを直すつもりが、腕ごと大きく動いていた。
*
最初に変わったのは、剣の方だった。
冬の冷たい風が吹き始めた朝、父が木剣を持って庭へ来た。
「今日は、三回。踏み込んで当て、元へ戻る」
「全部?」
「ああ。ゆっくりでいい」
俺は構えた。
前の足を出す。
後ろの足を寄せ、木剣を振る。
父の木剣へ当たる。
肘を伸ばしきらず、そこで止める。
足を戻す。
剣も戻す。
「次」
二回目も、同じように。
三回目には腕が少し重くなったが、最後まで形を崩さずに戻れた。
父が木剣を下ろした。
「よくなった」
俺は息を吐いた。
褒められたのが嬉しくて、もう一度やりたくなったが、まず手を確かめた。
文字が浮く。
【剣術:1】
俺はしばらく、それを見ていた。
「父様」
「どうした?」
「剣術。ついた」
父が俺の手元へ目を向けた。
彼には見えない文字だったが、俺の顔を見て、意味は分かったらしい。
「そうか」
父はしゃがみ、木剣の柄を軽く叩いた。
「覚えた形を、明日もできるようにしなさい」
「うん」
その日は三回で終わった。
俺は屋敷へ戻り、帳面へ新しい一行を書いた。
*
水魔法が変わったのは、その五日後だった。
ソラが立てた枝を越え、板の丸へ細い水を当てる。
流れを弱めても、丸の中に残せた。
止める。
少し休んで、もう一度。
二度目も、狙った場所へ届いた。
地面に溜まる水が増えていたので、その日はそこでやめた。
手を見る。
【水魔法:3】
俺は声を上げた。
庭の反対側で木剣を振っていたカイとソラが、こちらを向く。
「どうした?」
「当たった」
「見てたよ」
ソラが言った。
「二回とも」
「うん。二回とも」
俺は頷き、板を見た。
丸の中だけ、色が濃くなっている。
杯へ水を溜める。
前へ流す。
勢いを変え、狙ったところへ届ける。
できることが増えた結果、数字が変わった。
その順番が、ようやく少し分かった気がした。
*
夜、帳面へ今の状態を書いた。
【個人レベル:1】
【職業:未定】
【魔力:3/34】
【火魔法:1】
【水魔法:3】
【魔力制御:2】
【剣術:1】
【継路眼:1】
使える魔力は、また増えていた。
個人レベルは一のまま。職業も未定。
水が上達しても、全部が一緒に変わるわけではない。
帳面の次のページへ、風と土、と書く。
風は布が動かない。
土は水が出た。
失敗の記録なのに、見ていると楽しみになった。
次に何を試すか、もう決まっている。
ただ、明日はカイとソラも風を試したいと言っていた。
ソラは、自分ならすぐに布を動かせると言った。カイは何も言わなかったが、帰るときに糸の結び方を聞いてきた。
俺は吊るした布を窓のそばへ寄せた。
外から入る風で、端が軽く揺れる。
今は、まだ見ているだけだ。
その動きをよく覚えてから、帳面を閉じた。




