第6話 止まらずに、一歩
立って水を出すだけなら、できると思っていた。
座っているときと同じように手を伸ばし、鉢へ向ける。胸のあたりから力を集め、指先へ送る。
水は出た。
だが、途中で膝が曲がった。
流れが途切れる。
母が鉢を置き、俺の肩を支えた。
「足まで力を抜かなくていいのよ」
「分かってる」
父に剣を教わるときも、よくそう答えていた。
頭で分かっていることと、身体ができることは、思った以上に離れている。
俺は足を置き直した。
父に教わったように、片足を少し前へ出す。地面を踏んでから、もう一度手を伸ばした。
細い水が落ちる。
今度は立っていられた。
「できた」
「ええ。今日は、そのままで終わりましょう」
俺は母を見た。
まだ一歩も動いていない。
「歩くのは?」
「立っていられるようになってから」
母は鉢を持ち上げた。
急ぎたい気持ちはあったが、さっき支えてもらったばかりなので、言い返せなかった。
*
夏の間に、朝の時間割ができた。
起きて顔を洗い、朝食を食べる。
父がいる日は、庭で木剣を持つ。いない日は、母の見ているところで構えと足の置き方だけを確かめる。
そのあと、文字の勉強。
水魔法は休んでからだった。
一度にやることは少ない。
前の人生なら、何かを始める準備だけで終わってしまいそうな時間だったが、三歳の身体には十分だった。
木剣を握った手には、汗が溜まる。
文字を書いている途中で眠くなる日もある。
そういう日は水の練習をやめ、昼寝をした。
俺の記録板には、数字のほかに、母が書いた短い言葉も増えた。
よく眠った。
昼食が少なかった。
庭で長く遊んだ。
「そこまで書くの?」
「数字が同じでも、今日は疲れているでしょう」
母は板の端を指した。
前の日、カイとソラが来ていた。庭で遊び、帰る二人を追いかけて門まで行き、夕食では匙を握ったまま眠りかけた。
「明日、どうだったか分かるようにしておくの」
「……うん」
魔力が残っていれば何でもできると思い始めていたので、その記録は少し面倒だった。
しかし、十二ある日でも身体が重いことはあった。母は、数字に出ない方も見ていた。
*
水を出したまま一歩動けたのは、練習を始めて九日目だった。
母が鉢を持ち、俺の前に立つ。
水を細く出す。
そのまま、右足を少し前へ。
流れが横に揺れた。
俺は慌てて手を戻そうとして、身体ごと傾いた。
「止まって」
母が鉢を下ろした。
水はもう出ていなかった。
俺は足元を見た。
右足を出したあと、左足が元の場所に残っている。身体だけが前へ行き、腕まで引っ張られた。
次は足を近づけてから、手を動かした。
流れは途切れたが、倒れなかった。
三度目で、一歩。
水の筋が揺れながらも、鉢の中へ落ち続けた。
母が俺と同じだけ後ろへ下がる。
「今、できていたわ」
言われて顔を上げた瞬間、止まった。
俺は鉢を見て、それから母を見た。
母は笑っていた。
「顔を上げるのは、次ね」
*
カイとソラが来た日、俺は庭に線を引いた。
木の棒で土をなぞり、そこから二歩離れたところに、もう一本引く。
「ここまで歩く」
「水を出しながら?」
カイが聞いた。
俺は頷いた。
ソラがしゃがみ、線を指でなぞる。
「近いじゃん」
「止まらずに歩くの、難しい」
「普通に歩けば?」
「普通に歩くと、水が止まる」
ソラは納得していない顔だった。
カイは自分で二歩進み、振り返った。
「俺、こっちで見てる」
母が鉢を持ってきた。
今日は二人も見ている。俺は手を伸ばし、いつもより少しだけ胸を張った。
水を出す。
一歩進む。
ソラが顔を近づけた。
「出てる」
俺はそちらを見てしまった。
流れが途切れる。
「あ」
ソラが言った。
カイが線の向こうから戻ってくる。
「話しかけたら止まるんだな」
「止まらないようにしたい」
俺が答えると、ソラは母の鉢を見た。
「次、俺が持つ」
「まだ重いから、こちらを一緒に持ってくれる?」
母は片側の縁を示した。
ソラは俺を見てから、おずおずと手を添えた。
俺はもう一度、手を伸ばした。
今度はソラが何も言わない。
口を結び、鉢ばかり見ている。
一歩。
もう一歩。
水は途中で細くなったが、線を越えるまで落ち続けた。
「できた!」
カイが声を上げた。
俺は水を止めた。
ソラが鉢を覗き込む。
「俺、動かさなかった」
「うん。助かった」
「次も持つ」
母が鉢を持ち上げると、ソラは残念そうに手を離した。
俺は自分の手を確かめる。
【魔力:8/14】
まだ残っていた。
けれど今日は、木剣でも遊ぶつもりだった。
「水は、終わり」
言うと、母が少し驚いた顔をした。
それから、頷いた。
「では、片づけてくるわね」
*
木剣を持ったカイは、前より構えが落ち着いていた。
両手で握り、足を開く。
俺の父に教わった形を、家でも練習しているらしい。
「父ちゃんに見せた」
「何て?」
「いいんじゃないかって」
カイは嬉しそうだった。
ソラは木剣を肩に載せ、俺たちを見ている。
「ソラもやる?」
「見てる」
そう言ったくせに、俺とカイが並んで振ると、横で同じように振り始めた。
母が戻ってくるころには、三人とも息が上がっていた。
剣を打ち合わせるのは、まだ禁止だった。代わりに父が庭へ埋めた丸太へ向かって、ゆっくり振り下ろす。
カイは途中で止められる。
ソラは丸太に当たる前から目を閉じる。
俺は狙ったところから少しずれた。
「ユウ、曲がった」
「見えてる」
「俺の方が真ん中」
ソラが丸太を指す。
確かに、浅い跡が真ん中についていた。
「目、閉じてたのに」
「閉じてない」
カイが笑った。
ソラがそちらへ顔を向ける。
「笑わないでよ」
「上手かったから」
「……ならいいけど」
俺はもう一度構えた。
カイの手元へ目が向いたとき、文字が浮いた。
【職業:未定】
【剣術:1】
俺は少し驚いた。
カイにも、技能がついている。
試しにソラへ意識を向けたが、何も出なかった。
見えないことと、持っていないことは違う。
父に言われたことを思い出し、それ以上は見ようとしなかった。
*
秋に入る前、俺の魔力は十八になった。
最初に見えた六の、三倍だった。
ただ、毎日三倍の水が出るわけではない。
水生成と魔力制御が少しずつ上がり、同じ消費で出せる量も増えていた。
【水魔法:2】
【魔力制御:2】
母が用意してくれた杯には、内側に細い線がある。
毎回そこまで出して、減った数字を比べるためだ。
最初に線まで溜められたときは、魔力を六使った。
半月後には四。
さらに何日かすると、三で届いた。
最大魔力が増えることと、上手く使えること。
その両方があると、できることは思った以上に増える。
俺は杯へ水を出しながら、視線を少しだけ上げた。
母の手元を見る。
流れは止まらない。
「今日は、こちらを見られるのね」
「うん」
返事をした途端、水が乱れた。
慌てて杯へ目を戻す。
母は笑わず、溢れる前に手を少し動かしてくれた。
「お話しする練習は、また明日にしましょう」
*
その数日後、屋敷の門へ荷車が来た。
麦の袋と、布に包まれた壺を積んでいる。車輪の片方には新しい木が使われ、もう片方は泥で黒かった。
俺は父と一緒に、受け取りの様子を見ていた。
商人は父へ挨拶し、積み荷の布を外す。
その脇で、護衛の男が手袋を取った。
指の付け根に、擦りむいた跡がある。
「水を借りても?」
「井戸は裏だ」
父が答えると、男は頷いた。
腰の袋から小さな器を出し、歩き出そうとする。
「俺、出せる」
言ってから、父を見た。
父は俺の顔を確かめた。
「今朝は?」
「まだ使ってない」
「なら、器を地面へ置いていただきなさい」
護衛が足を止めた。
俺と父を見比べ、それからしゃがんで器を置く。
「ここでいいですか、坊ちゃん」
「うん」
俺は器の上へ手を伸ばした。
いつもと違う場所だ。知らない人が見ている。
力を急に送らない。
木剣を握るときのように、肩を上げない。
水が落ちた。
細い流れを保ち、器の底へ溜めていく。
男は黙って待っていた。
杯の線がないので量が分かりにくかったが、底を十分に覆ったところで止めた。
「助かります」
男は器を持ち上げ、傷についた汚れを洗った。
俺は自分の手を見る。
【魔力:14/18】
四使った。
庭の花だけではなく、誰かの役に立った。
嬉しくて顔を上げると、男が俺の父へ言った。
「小さいのに、水を随分きれいに流せますね」
「毎日やっているからな」
父はそう答えた。
声に、少しだけ誇らしさが混じっていた。
男は手を拭き、腰の剣の位置を直した。
その指の動きを見て、俺は思わず聞いた。
「剣も使うの?」
「ええ。道中で必要になることがありますから」
「魔法は?」
男は俺を見た。
少し笑い、自分の器へ指を向ける。
細い水が、短く落ちた。
「このくらいなら」
俺は目を見開いた。
剣を持った人が、水を出した。
それだけで、もう少し話を聞きたくなった。
「剣を使いながらも、できる?」
「水を?」
男が聞き返す。
俺は頷いた。
「歩きながら出す練習をしてる。剣を持ってても、できるかな」
父がこちらを見た。
男はすぐには答えず、手袋をはめ直した。
「できる人はいます。俺は、戦っているときには出しません」
「どうして?」
「剣から気が逸れるからです。水を出している間に斬られたら、困るでしょう」
俺は頷いた。
一歩歩くだけでも、最初は止まった。
相手が剣を持って向かってくるなら、もっと難しい。
「でも、できる人はいる?」
「いますよ」
男は腰の剣に手を置いた。
「前に組んだ護衛は、刃へ火をまとわせていました」
俺は、その剣を見つめた。
ただ灯りをつけるための火が、剣の上で燃えるところを想像する。
父の手が俺の肩へ触れた。
「話の続きは、荷を下ろしてからだ。仕事の途中だからな」
俺は慌てて男から離れた。
男は笑い、荷車の方へ戻っていく。
父を見上げると、父は少し困った顔をしていた。
「お前のやりたかったことは、それか」
「うん。剣と魔法、両方」
父は荷を運ぶ男の背を見た。
それから、俺へ目を戻す。
「なら、今日は稽古で足元をよく見なさい」
「どうして?」
「魔法を考えるたびに転んでいては、剣を持たせられん」
俺は門前の石を見て、足を置き直した。
刃へ火をまとわせる。
そんな人が、本当にいる。
男の仕事が終わるまで、俺は門のそばで待つことにした。
聞きたいことは、今までで一番多かった。




