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失われた職業を継ぐ者  作者: 陸海空
6/19

第6話 止まらずに、一歩

 立って水を出すだけなら、できると思っていた。

 座っているときと同じように手を伸ばし、鉢へ向ける。胸のあたりから力を集め、指先へ送る。

 水は出た。

 だが、途中で膝が曲がった。

 流れが途切れる。

 母が鉢を置き、俺の肩を支えた。


「足まで力を抜かなくていいのよ」

「分かってる」


 父に剣を教わるときも、よくそう答えていた。

 頭で分かっていることと、身体ができることは、思った以上に離れている。

 俺は足を置き直した。

 父に教わったように、片足を少し前へ出す。地面を踏んでから、もう一度手を伸ばした。

 細い水が落ちる。

 今度は立っていられた。


「できた」

「ええ。今日は、そのままで終わりましょう」


 俺は母を見た。

 まだ一歩も動いていない。


「歩くのは?」

「立っていられるようになってから」


 母は鉢を持ち上げた。

 急ぎたい気持ちはあったが、さっき支えてもらったばかりなので、言い返せなかった。


     *


 夏の間に、朝の時間割ができた。

 起きて顔を洗い、朝食を食べる。

 父がいる日は、庭で木剣を持つ。いない日は、母の見ているところで構えと足の置き方だけを確かめる。

 そのあと、文字の勉強。

 水魔法は休んでからだった。

 一度にやることは少ない。

 前の人生なら、何かを始める準備だけで終わってしまいそうな時間だったが、三歳の身体には十分だった。


 木剣を握った手には、汗が溜まる。

 文字を書いている途中で眠くなる日もある。

 そういう日は水の練習をやめ、昼寝をした。


 俺の記録板には、数字のほかに、母が書いた短い言葉も増えた。


 よく眠った。

 昼食が少なかった。

 庭で長く遊んだ。


「そこまで書くの?」

「数字が同じでも、今日は疲れているでしょう」


 母は板の端を指した。

 前の日、カイとソラが来ていた。庭で遊び、帰る二人を追いかけて門まで行き、夕食では匙を握ったまま眠りかけた。


「明日、どうだったか分かるようにしておくの」

「……うん」


 魔力が残っていれば何でもできると思い始めていたので、その記録は少し面倒だった。

 しかし、十二ある日でも身体が重いことはあった。母は、数字に出ない方も見ていた。


     *


 水を出したまま一歩動けたのは、練習を始めて九日目だった。

 母が鉢を持ち、俺の前に立つ。

 水を細く出す。

 そのまま、右足を少し前へ。

 流れが横に揺れた。

 俺は慌てて手を戻そうとして、身体ごと傾いた。


「止まって」


 母が鉢を下ろした。

 水はもう出ていなかった。

 俺は足元を見た。

 右足を出したあと、左足が元の場所に残っている。身体だけが前へ行き、腕まで引っ張られた。

 次は足を近づけてから、手を動かした。

 流れは途切れたが、倒れなかった。


 三度目で、一歩。


 水の筋が揺れながらも、鉢の中へ落ち続けた。

 母が俺と同じだけ後ろへ下がる。


「今、できていたわ」


 言われて顔を上げた瞬間、止まった。

 俺は鉢を見て、それから母を見た。

 母は笑っていた。


「顔を上げるのは、次ね」


     *


 カイとソラが来た日、俺は庭に線を引いた。

 木の棒で土をなぞり、そこから二歩離れたところに、もう一本引く。


「ここまで歩く」

「水を出しながら?」


 カイが聞いた。

 俺は頷いた。

 ソラがしゃがみ、線を指でなぞる。


「近いじゃん」

「止まらずに歩くの、難しい」

「普通に歩けば?」

「普通に歩くと、水が止まる」


 ソラは納得していない顔だった。

 カイは自分で二歩進み、振り返った。


「俺、こっちで見てる」


 母が鉢を持ってきた。

 今日は二人も見ている。俺は手を伸ばし、いつもより少しだけ胸を張った。


 水を出す。

 一歩進む。


 ソラが顔を近づけた。


「出てる」


 俺はそちらを見てしまった。

 流れが途切れる。


「あ」


 ソラが言った。

 カイが線の向こうから戻ってくる。


「話しかけたら止まるんだな」

「止まらないようにしたい」


 俺が答えると、ソラは母の鉢を見た。


「次、俺が持つ」

「まだ重いから、こちらを一緒に持ってくれる?」


 母は片側の縁を示した。

 ソラは俺を見てから、おずおずと手を添えた。


 俺はもう一度、手を伸ばした。

 今度はソラが何も言わない。

 口を結び、鉢ばかり見ている。


 一歩。

 もう一歩。


 水は途中で細くなったが、線を越えるまで落ち続けた。


「できた!」


 カイが声を上げた。

 俺は水を止めた。


 ソラが鉢を覗き込む。


「俺、動かさなかった」

「うん。助かった」

「次も持つ」


 母が鉢を持ち上げると、ソラは残念そうに手を離した。

 俺は自分の手を確かめる。


【魔力:8/14】


 まだ残っていた。

 けれど今日は、木剣でも遊ぶつもりだった。


「水は、終わり」


 言うと、母が少し驚いた顔をした。

 それから、頷いた。


「では、片づけてくるわね」


     *


 木剣を持ったカイは、前より構えが落ち着いていた。

 両手で握り、足を開く。

 俺の父に教わった形を、家でも練習しているらしい。


「父ちゃんに見せた」

「何て?」

「いいんじゃないかって」


 カイは嬉しそうだった。

 ソラは木剣を肩に載せ、俺たちを見ている。


「ソラもやる?」

「見てる」


 そう言ったくせに、俺とカイが並んで振ると、横で同じように振り始めた。


 母が戻ってくるころには、三人とも息が上がっていた。

 剣を打ち合わせるのは、まだ禁止だった。代わりに父が庭へ埋めた丸太へ向かって、ゆっくり振り下ろす。


 カイは途中で止められる。

 ソラは丸太に当たる前から目を閉じる。

 俺は狙ったところから少しずれた。


「ユウ、曲がった」

「見えてる」

「俺の方が真ん中」


 ソラが丸太を指す。

 確かに、浅い跡が真ん中についていた。


「目、閉じてたのに」

「閉じてない」


 カイが笑った。

 ソラがそちらへ顔を向ける。


「笑わないでよ」

「上手かったから」

「……ならいいけど」


 俺はもう一度構えた。

 カイの手元へ目が向いたとき、文字が浮いた。


【職業:未定】

【剣術:1】


 俺は少し驚いた。

 カイにも、技能がついている。


 試しにソラへ意識を向けたが、何も出なかった。

 見えないことと、持っていないことは違う。

 父に言われたことを思い出し、それ以上は見ようとしなかった。


     *


 秋に入る前、俺の魔力は十八になった。

 最初に見えた六の、三倍だった。


 ただ、毎日三倍の水が出るわけではない。

 水生成と魔力制御が少しずつ上がり、同じ消費で出せる量も増えていた。


【水魔法:2】

【魔力制御:2】


 母が用意してくれた杯には、内側に細い線がある。

 毎回そこまで出して、減った数字を比べるためだ。


 最初に線まで溜められたときは、魔力を六使った。

 半月後には四。

 さらに何日かすると、三で届いた。


 最大魔力が増えることと、上手く使えること。

 その両方があると、できることは思った以上に増える。


 俺は杯へ水を出しながら、視線を少しだけ上げた。

 母の手元を見る。

 流れは止まらない。


「今日は、こちらを見られるのね」

「うん」


 返事をした途端、水が乱れた。

 慌てて杯へ目を戻す。


 母は笑わず、溢れる前に手を少し動かしてくれた。


「お話しする練習は、また明日にしましょう」


     *


 その数日後、屋敷の門へ荷車が来た。

 麦の袋と、布に包まれた壺を積んでいる。車輪の片方には新しい木が使われ、もう片方は泥で黒かった。


 俺は父と一緒に、受け取りの様子を見ていた。

 商人は父へ挨拶し、積み荷の布を外す。


 その脇で、護衛の男が手袋を取った。

 指の付け根に、擦りむいた跡がある。


「水を借りても?」

「井戸は裏だ」


 父が答えると、男は頷いた。

 腰の袋から小さな器を出し、歩き出そうとする。


「俺、出せる」


 言ってから、父を見た。

 父は俺の顔を確かめた。


「今朝は?」

「まだ使ってない」

「なら、器を地面へ置いていただきなさい」


 護衛が足を止めた。

 俺と父を見比べ、それからしゃがんで器を置く。


「ここでいいですか、坊ちゃん」

「うん」


 俺は器の上へ手を伸ばした。

 いつもと違う場所だ。知らない人が見ている。


 力を急に送らない。

 木剣を握るときのように、肩を上げない。


 水が落ちた。

 細い流れを保ち、器の底へ溜めていく。


 男は黙って待っていた。

 杯の線がないので量が分かりにくかったが、底を十分に覆ったところで止めた。


「助かります」


 男は器を持ち上げ、傷についた汚れを洗った。

 俺は自分の手を見る。


【魔力:14/18】


 四使った。

 庭の花だけではなく、誰かの役に立った。


 嬉しくて顔を上げると、男が俺の父へ言った。


「小さいのに、水を随分きれいに流せますね」

「毎日やっているからな」


 父はそう答えた。

 声に、少しだけ誇らしさが混じっていた。


 男は手を拭き、腰の剣の位置を直した。

 その指の動きを見て、俺は思わず聞いた。


「剣も使うの?」

「ええ。道中で必要になることがありますから」

「魔法は?」


 男は俺を見た。

 少し笑い、自分の器へ指を向ける。


 細い水が、短く落ちた。


「このくらいなら」


 俺は目を見開いた。

 剣を持った人が、水を出した。

 それだけで、もう少し話を聞きたくなった。


「剣を使いながらも、できる?」

「水を?」


 男が聞き返す。

 俺は頷いた。


「歩きながら出す練習をしてる。剣を持ってても、できるかな」


 父がこちらを見た。

 男はすぐには答えず、手袋をはめ直した。


「できる人はいます。俺は、戦っているときには出しません」

「どうして?」

「剣から気が逸れるからです。水を出している間に斬られたら、困るでしょう」


 俺は頷いた。

 一歩歩くだけでも、最初は止まった。

 相手が剣を持って向かってくるなら、もっと難しい。


「でも、できる人はいる?」

「いますよ」


 男は腰の剣に手を置いた。


「前に組んだ護衛は、刃へ火をまとわせていました」


 俺は、その剣を見つめた。

 ただ灯りをつけるための火が、剣の上で燃えるところを想像する。


 父の手が俺の肩へ触れた。


「話の続きは、荷を下ろしてからだ。仕事の途中だからな」


 俺は慌てて男から離れた。

 男は笑い、荷車の方へ戻っていく。


 父を見上げると、父は少し困った顔をしていた。


「お前のやりたかったことは、それか」

「うん。剣と魔法、両方」


 父は荷を運ぶ男の背を見た。

 それから、俺へ目を戻す。


「なら、今日は稽古で足元をよく見なさい」

「どうして?」

「魔法を考えるたびに転んでいては、剣を持たせられん」


 俺は門前の石を見て、足を置き直した。


 刃へ火をまとわせる。

 そんな人が、本当にいる。


 男の仕事が終わるまで、俺は門のそばで待つことにした。

 聞きたいことは、今までで一番多かった。

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