第4話 最初の一滴
着火を覚えてから、夕方の灯りを一つ任されるようになった。
父か母がいるところで芯へ火を移す。最初は何度も失敗したが、十日ほどすると、二回に一回はつけられるようになった。
成功した日は、食卓の皿を見ながら少し得意になる。
失敗した日は、父が続きをやってくれた。
だが、練習できる回数は少なかった。
油が燃え始めたら仕事は終わりだ。練習のために消してつけ直そうとすると、母に止められた。
「煙が出るでしょう。もうついているのだから、そのままにしておきなさい」
もっともだった。
俺は火をつけたいのであって、食堂を煙たくしたいわけではない。
別の魔法なら、もっと使えるだろうか。
そう考えたのは、裏庭で水汲みを見ていたときだった。
*
井戸の水は、屋敷の仕事にも使われていた。
料理、洗濯、掃除。馬が飲む分も必要になる。
桶を持ち上げる腕を見ていると、それだけで疲れそうだった。
「魔法で水は出せないの?」
メラに聞くと、彼女は桶を足元へ置いた。
「出せる人はいますよ」
「メラは?」
「私は火だけです。水なら、オルダさんが使えたはずです」
「父様の腕を治した人?」
「ええ。傷を洗うときにも使いますから」
俺は井戸を見た。
桶の底から、水が数滴落ちている。
水を出せるなら、桶を汲む回数が減る。
練習して出したものも、捨てずに使える。
「教えてもらえるかな」
「それは、お父様に聞いてくださいな」
俺は屋敷へ戻った。
父の部屋へ急いだつもりだったが、途中で母に捕まり、まず泥のついた靴を拭かれた。
*
父は、すぐには頷かなかった。
「火を覚えたばかりだろう」
「水も覚えたい」
「何に使う?」
「水汲み。あと、手を洗う」
「桶一杯を出すのは大仕事だぞ」
父は机の上の杯を持ち上げた。
「最初は、これにも届かん」
「少しでもいい」
「オルダには仕事がある。教えに来てもらうなら、その時間の分は払わなければならない」
俺は口を閉じた。
父から教わるときには、考えていなかったことだ。
誰かに教えてもらうには、その人の時間が要る。
その間、オルダはほかの患者を診られない。
「……いくら?」
父は俺を見て、杯を机へ戻した。
「まず、頼めるか聞こう。来られないと言われたら、待つんだ」
「うん」
それから六日待った。
俺は毎朝、今日は来るかと聞いた。三日目には母に、来る日が決まったら教えるからと先に言われた。
オルダが来たのは、昼食が終わったあとだった。
鞄を持って屋敷へ入ってくる姿を見つけ、俺は玄関まで迎えにいった。
「水を出したいんだって?」
頷くと、オルダは俺の顔を覗き込んだ。
「火は誰に習った」
「父様」
「何回くらい使える?」
「二回。三回だと、眠くなる」
彼女は父を見た。
父が頷く。
「二回までにしている」
「なら、今日は火を使わせないでおくれ」
オルダは鞄を置き、母から浅い鉢を受け取った。
*
授業は、裏庭の木陰で始まった。
俺の前に鉢が置かれる。母が横に座り、父は少し離れたところで見ていた。
オルダは俺の手を取り、手のひらを上へ向けた。
「火を出すとき、身体の中で何が動く?」
「温かい感じ」
「それを手まで持ってこられるかい」
俺は頷いた。
何度も練習していたので、最初ほど探さなくても分かる。息を吐きながら意識を向けると、胸のあたりの温かさが腕へ流れた。
「そこで火にしない。手の上に、丸く溜めるつもりで」
言われたとおりにしてみる。
温かさが指先まで来たところで、俺は止めようとした。
すっと感覚が消えた。
「消えた」
「最初はそんなものさ」
オルダは自分の手を鉢の上へ伸ばした。
「よく見ておきな」
手のひらの下に、透き通った粒が生まれた。
粒は膨らみ、指の先ほどの大きさになる。それから鉢へ落ち、小さな音を立てた。
水だった。
井戸から運ばれたわけでも、どこかに隠してあったわけでもない。
俺は彼女の手元を見た。
薄い文字が浮かぶ。
【水魔法:6】
続いて二滴、三滴。
オルダはそこで手を引いた。
「出したいものを、よく思い出すんだ。水の冷たさ。手に載せても、形を保たずに流れる感じ」
「どうやって、水になるの?」
「それは私も知らないよ」
俺が顔を上げると、彼女は平然としていた。
「どうすれば出せるかは教えられる。どうして出るかは、学者に聞いておくれ」
「学者は知ってる?」
「知ってる人がいれば、私も聞きたいね」
父が向こうで少し笑った。
俺はもう一度、鉢を見た。
*
火のときと同じで、最初は何も出なかった。
手のひらへ力を集めても、指がじんわり温かくなるだけだった。
水を思い浮かべる。
井戸の桶。顔を洗ったときの冷たさ。杯の縁から落ちる滴。
力を外へ出そうとすると、ばらけて消えた。
「押し出しすぎだね」
「止めると、なくなる」
「なくならないくらい、少しずつ送る」
俺には難しかった。
水が出ないので、どのくらい送ればいいのかも分からない。
二度試したところで、オルダが俺の手首に触れた。
「今日はここまで」
「まだできる」
「腕を下ろしてごらん」
下ろすと、手が少し震えていた。
握ってみて、ようやく気づいた。
「火のときと違うから、余計な力を使ってる。休んでからだ」
「次は、いつ?」
「手に力を集める練習は、明日でもいい。ただし、お母様と一緒に。水を出すところは、私がもう一度見る」
オルダは母へ向き直り、俺の顔色や手の冷たさを確かめるよう話した。
俺は鉢の底を見ていた。
そこにある水は、全部オルダが出したものだった。
*
母との練習は、日に一度だった。
手のひらへ力を集め、少しだけ外へ送る。消えたら終わりにする。
やっている間、母は俺の手を見ていた。
俺は母の顔を見てしまい、よく集中が途切れた。
「そんなに見ないで」
「見ていないと、疲れたのが分からないでしょう」
「手だけ見て」
「今も手を見ているわ」
俺は鉢へ顔を戻した。
見られていると思うと、妙にやりにくい。
それでも四日目には、手のひらの下で何かが光った。
一瞬だけだった。水なのか、汗なのか分からない。
母が布で俺の手を拭いた。
「もう一度だけ、やってみましょう」
今度も、光った。
母は鉢を窓辺へ持っていき、明るいところで底を確かめた。
「少し濡れているわ」
俺も覗いた。
鉢の底に、細い跡があった。
指で触ろうとして止められた。
「水が出たのか、ちゃんと見てもらうまで待ちましょう」
「出たと思う」
「私もそう思うわ」
母は鉢を戻した。
その日は、それ以上練習させてもらえなかった。
*
二度目にオルダが来たとき、俺はすぐに鉢を見せた。
水はとっくに乾いていたので、出たときのことを話す。
オルダは聞き終えると、俺の手を洗い、丁寧に拭いた。
鉢も別の乾いたものに替える。
「じゃあ、見せておくれ」
俺は息を吐いた。
手のひらへ力を集める。
その先に水の形を思い浮かべ、少しずつ送る。
冷たい感覚が生まれた。
透明な粒が、手の下で膨らむ。
俺は目を離さなかった。
粒が落ちた。
鉢の底に当たり、丸い跡になった。
「……出た」
もう一度、粒が生まれた。
今度は少し小さい。
それが落ちたところで、オルダが俺の腕を支えた。
「十分だ」
「二滴」
「ああ。自分で出した二滴だね」
俺は鉢を持ち上げた。
傾けると、水がゆっくり動いた。
火をつけたときとは、また違う嬉しさがあった。
出したものが、手元に残っている。
「これ、飲める?」
「今は飲まないでおこう」
「どうして?」
「鉢も手も触っているだろう。飲むための水にするなら、器や扱い方も気をつけないといけない」
俺は頷いた。
魔法で出したから、何もかも安全になるわけではないらしい。
水は庭の小さな鉢植えへ垂らした。
二滴では土の色もほとんど変わらなかったが、俺はしばらくその場所を眺めていた。
*
帰る前、オルダは父と母に練習の仕方を話した。
俺も隣で聞いていた。
「一度に出す量を増やすより、同じくらいを安定して出す方が先だね。まだ小さいから、一日一度で十分」
「そのうち、もっと出せるようになる?」
俺が聞くと、オルダは椅子の背に手を置いた。
「使って、食べて、眠って。それを続ければ、扱える力は増える。身体も育つからね」
「大人も?」
「増える人はいるよ。私も、昔は今ほど治せなかった」
俺は彼女を見た。
「たくさん使えば、早く増える?」
「疲れ切るまで使えばいいって話じゃない。次の日に起きられないようじゃ、仕事にも練習にもならんだろう」
父が頷いた。
「剣と同じだな。腕が動かなくなるまで振れば、翌日は握れん」
「それに、同じ水を出すにも、慣れれば少ない力で済む。たくさん出せたからといって、中の力だけが増えたとは限らないよ」
それは、俺には大事な話に聞こえた。
魔力そのものの量と、使う上手さは別だ。
前の人生で遊んだゲームには、使った能力が育つものがあった。
この世界でも似たことが起きるのなら、毎日続ければ差がつくかもしれない。
ただ、まずは二滴を、毎回出せるようにならなければならなかった。
*
その夜、自分の手を見た。
【水魔法:1】
着火の隣に、新しい文字があった。
俺は板に写し、それから少し下へ目を向けた。
【魔力:1/6】
数字を見た瞬間、胸が高鳴った。
今まで読めなかったところだ。
一つ残っていて、全部で六つ。
そういう意味だろうか。
確かめたかったが、もう魔法を使わないと約束している。
俺はその数字を書いて、翌朝を待つことにした。
朝、目覚めてからもう一度見る。
【魔力:6/6】
増えていた。
右側はそのままで、左側だけが戻っている。
俺は寝台の上で板を抱えた。
これなら、昨日より眠いかどうかだけで判断しなくてもいいかもしれない。
母には、まだ数字のことを話さなかった。
見えたばかりで、間違っている可能性もある。しばらく確かめてから、どう説明するか考えよう。
*
それから毎日、水を出した。
母の針仕事の横で鉢へ二滴。上手くいった日は三滴。
出したあとは、庭の鉢植えに使った。
最初のうちは水やりと呼べる量ではなかったが、母は毎回、どの鉢にするか選ばせてくれた。
魔力は、使うと減った。
日によって減り方が違った。同じ二滴でも、途中で何度も失敗すると多く減る。
昼寝のあとには、少し戻っていた。
一晩眠ると、六まで戻った。
俺は板に日付の代わりの線を引き、数字を書いた。
まだ暦を上手く使えないので、線が七本になったら長い線でまとめる。
カイとソラが来た日には、二人にも水を見せた。
「それだけ?」
ソラが鉢を覗いた。
「前は出なかった」
「そっか」
カイは頷いた。
「次はもっと出る?」
「たぶん」
「じゃあ、また見る」
ソラが鉢の縁を持った。
「次、俺が持つ」
「揺らすとできない」
「揺らさないって」
母がそばに来ると、ソラはすぐに手を離した。
そのくせ、帰り際には俺にだけ、今度は持たせてと言ってきた。
*
数字が変わったのは、水を出せるようになってから二十日ほど経った朝だった。
【魔力:7/7】
俺はまばたきをした。
見直しても、七だった。
前の日の板には、六と書いてある。
その前も、その前も、右側の数字は六だ。
一つ、増えた。
毎日の練習が効いたのか。
身体が成長したのか。
オルダの言うとおり、まだそれを分けて考えることはできなかった。
でも、増えることは分かった。
俺は板に七と書いた。
炭を持つ指に、つい力が入る。
いつか杯一杯。
その次は、桶一杯。
庭へ水を運ぶ人が、一度休めるくらい出せたらいい。
そこまで育った力を、ほかの魔法にも使えるだろうか。父のように剣を振りながら、術も使えるようになれるだろうか。
考えていると、戸口から父の声がした。
「ユウ。朝食の前に、少し庭へ出るか」
俺は板を置いた。
「剣?」
「ああ。今日は握り方からだ」
木剣を取って、寝台を下りる。
戸口へ急いだ俺を、父が片手で止めた。
「靴を履いてから」
俺は引き返した。
魔法も剣も、できるようになるには、覚えることがまだ山ほどあった。




