第3話 灯りをつける人
三歳になった春、俺は家令のマルクに文字を教わり始めた。
きっかけは、父の机にあった帳面だった。
勝手に触ると叱られるので、椅子の横から覗いていたのだが、ある日、父が読んでいる場所を指で示してくれた。
「これは麦。こちらは塩だ」
「こっちの数字は?」
「買った量だな」
父の指を目で追い、文字の形を覚える。
麦の隣には三桁の数字があった。塩は二桁だったが、少し離れた欄に書かれた数字は、麦より大きい。
「塩の方が高いの?」
「そうだ。ここでは採れんからな」
俺がもう一度帳面を見たところで、父の指が止まった。
「……数字は読めるのか」
しまった、と思った。
この世界の数字は、前の人生で使っていたものによく似ている。多少違う形もあったが、帳面や会話を見聞きするうちに、もう大体は分かっていた。
「マルクが、数えてたから」
嘘ではなかった。
父はしばらく俺を見てから、帳面を閉じた。
「なら、文字も教わってみるか」
俺は頷いた。
その日の午後には、マルクが板と炭を持って部屋へ来た。
思った以上に話が早かった。
*
最初の授業は、自分の名前を書くことだった。
マルクが手本を書き、俺が真似をする。頭では形を覚えられても、指が追いつかなかった。炭を強く握りすぎて折り、細く書こうとすると線が途切れる。
「急がなくて結構です。まずはこちらの線から」
マルクは折れた炭を削り直し、俺の手元へ置いた。
書記官という職業が見えるときも、見えないときも、その人の字は整っていた。
俺の能力は、少しだけ扱いやすくなっていた。
相手を長く睨むより、何をしているか見ながら意識を向けた方が、文字が出やすい。読めない部分を追わず、一つ読めたら目を離す。そうすると、以前ほど頭が痛くならなかった。
マルクには、ときどきこんなものが見えた。
【職業:書記官】
【文書作成:9】
【算術:12】
数字の大きさが、上手さを表しているのだろうか。
父や母と比べたいが、同じ項目がなかなか出ない。今のところ、何となくそう思うというだけだった。
自分については何も見えなかった。
手を見ても、鏡代わりの磨いた金属板を見ても、駄目だった。
「ユウ様」
呼ばれて顔を上げると、マルクが俺の板を指していた。
「その線が一本多うございます」
能力のことを考えながら書いたせいで、自分の名前が別の何かになっていた。
俺は布で板を拭き、書き直した。
*
文字を教わり始めて十日ほどした夕方、父が庭へ俺を呼んだ。
手には小さな皿と、油を染み込ませた芯がある。
俺はそれを見た瞬間、足を速めた。
「魔法?」
「メラから聞いたぞ。毎日、灯りをつけるところを見たがるそうだな」
料理番のメラは、指先から小さな火を出せた。
夕方になると俺は台所へ行き、灯りの準備が終わるまで待っていた。何度か頼んで見せてもらったが、用もなく火を出してもらおうとすると、仕事があるからと断られた。
「俺もできる?」
「試すことはできる。ただし、火を使うときは大人と一緒だ」
「うん」
「一人では?」
「やらない」
父は頷き、庭の土が露出した場所に皿を置いた。
母も戸口に来ていた。手には水の入った桶がある。
「最初から火なの?」
「私が教えられるのは、それくらいだ」
「なら、袖を留めてあげて」
父が俺の袖口を折り返した。
俺は皿を見つめた。
やっとだ。
この世界で魔法を見てから、ずっとやってみたかった。
父は芯から少し離れた場所に手をかざした。
「身体の中にある力を、指の先へ集める。そこから外へ出すんだ」
「どうやって?」
「……少し待て」
父は手を下ろした。
考え込んだあと、自分の腹を指す。
「剣を振る前に、ここへ力を入れる。その力を、腕へ送るような感じだ」
俺も腹に力を入れた。
息を止め、指を伸ばす。
「そう固くならなくていい」
「でも、力を入れるって」
「身体の力とは少し違うんだが……」
父は困っていた。
どうやら、自分でできることと、人に教えられることは別らしい。
「先に見せてあげたら?」
母が言うと、父は頷いた。
指先に小さな光が生まれる。橙色の点は、すぐに火となって芯に触れた。
油が燃え、皿の上に灯りがついた。
俺は父の指を見た。
文字が浮かぶ。
【火魔法:3】
火が消えたあとも、しばらく指先を見ていた。
父は大きな火を出すのではなく、芯へ火を移すための、小さな炎を作ったのだった。
「やってみるか」
俺は頷いた。
*
何も起きなかった。
指を伸ばしても、握ってから開いても、父の真似をして息を吐いても、皿には何の変化もない。
父は灯りを消し、芯の位置を直して待っていた。
母は途中で椅子を持ってきて、庭の端に座った。
「熱くなるところを想像してみろ」
言われたとおり、暖炉の火を思い浮かべる。
薪が赤くなり、手を近づけると熱い。それを指先に持ってくるつもりで、皿へ手を伸ばした。
指に力が入っただけだった。
「……出ない」
「初めてだからな」
父は隣にしゃがんだ。
「今日はここまでにしよう」
「もう一回」
「また明日だ」
「あと一回だけ」
父が母を見る。
母は俺の顔を見てから、静かに首を振った。
「疲れているわ。さっきから手が下がっているもの」
俺は慌てて腕を上げた。
その動きが、自分でも思ったほど速くなかった。
前の人生の感覚なら、まだ十分も経っていない。
だが、腕はだるかった。何も出せなかったのに、指の先が少し冷たい。
「魔法が出なくても、力を使っていることはある」
父が俺の手を包んだ。
「焦るな。明日もできる」
俺は皿を見た。
父が指をかざすと、今度も簡単に火がついた。
*
次の日も、その次の日も、火は出なかった。
父が村へ出る日は、母と一緒に指先へ力を集める練習だけをした。火をつけようとするのは父がいるときに限られた。
教わる時間は短かった。
もっとできると思う日は多かったが、夕食の途中で眠くなることもあった。そういう日は翌日の練習を減らされた。
七日目、俺はようやく違う感覚を掴んだ。
息を止めると、腹も肩も固くなる。
ゆっくり息を吐きながら手を伸ばすと、胸のあたりから腕へ、かすかな温かさが動いた気がした。
驚いて父を見ると、その感覚は消えた。
「何かあったか」
「あった。たぶん」
「どんな感じだ?」
「あったかいのが、動いた」
父は頷いた。
「次も、それを探してみろ」
次の日には、また分からなくなった。
その次の日、少しだけ分かった。
できるようになったと思っても、毎回同じにはならない。
俺は魔法を覚える前に、待つことを覚えさせられていた。
*
カイとソラが屋敷へ来たのは、そのころだった。
村での用事を終えたカイの父親が、帰りに二人を連れてきた。俺が何度も村へ行きたがるので、父が誘ってくれたらしい。
庭の片隅で、俺たちは木剣を見せ合った。
カイの枝は、ちゃんとした木剣になっていた。俺のものより長く、鍔の代わりに紐が巻いてある。
「父ちゃんが削った」
「俺のは?」
ソラが横から言った。
カイが自分の木剣を少し持ち上げる。
「ソラのも、家にあるだろ」
「持ってきてない」
「忘れたの?」
「だって、ここにもあるかと思った」
ソラは俺を見た。
俺が木剣を差し出すと、すぐに受け取った。
「少しだけな」
「分かってる」
ソラは庭の方へ歩きかけ、知らない兵がいるのに気づくと戻ってきた。
俺とカイの間に立ち、そこで木剣を振る。
「魔法、教わってるんだ」
俺が言うと、カイの顔が上がった。
「出せる?」
「まだ」
「何の?」
「火」
「危ないじゃん」
ソラが木剣を下ろした。
「大人と一緒にやる」
「燃えたら?」
「母様が水を持ってる」
それでもソラは、庭に置かれた皿へ近づこうとしなかった。
カイは皿を見に行き、しゃがんで芯を眺めた。
「父ちゃんは出せないって言ってた」
「カイは?」
「やったことない」
俺は驚いた。
魔法があるなら、誰でも一度くらい試すものだと思っていた。
「教わらないの?」
「誰に?」
聞かれて、言葉が止まった。
俺は父が使えるから、教わっている。
カイの父親が使えないなら、誰か別の人を探さなければならない。
その人が教えてくれるとも限らない。
ソラが、俺の袖を引いた。
「ねえ、剣。これ、どこで振っていいの?」
俺は庭の端を指した。
魔法の話を聞いていなかったようで、ちゃんと皿から離れた場所を選んでいた。
*
初めて火が出たのは、練習を始めて十二日目だった。
父は俺の隣にしゃがみ、いつもと同じように待っていた。
手を伸ばす。
息を吐く。
胸から腕へ、温かさがゆっくり移る。
そこで強く押し出そうとすると、これまでは感覚が途切れていた。
今日は、指先まで来るのを待った。
小さな橙色の点が生まれた。
俺は目を見開いた。
点は一瞬だけ炎の形になり、そのまま消えた。
芯には届かなかった。
「出た」
自分の声が、ひどく小さく聞こえた。
「出たよ、父様」
「ああ。見ていた」
父の手が背中に触れた。
俺は指を見た。火傷はしていない。さっきまであった温かさは消え、腕の中が少し空っぽになったようだった。
「もう一回」
「手は?」
「痛くない」
「頭は?」
「大丈夫」
父は少し考えて、頷いた。
「一度だけだ」
今度は、芯の近くに指を置いた。
先ほどの感覚を思い出す。温かさを追い、指先まで待つ。
火が出た。
芯の端が赤くなり、小さな炎が揺れた。
俺は手を引いた。
皿の上で、火が燃え続けている。
自分の指から出たものはもう消えているのに、移した火は残っていた。
「ついた」
父を見ると、父も皿を見ていた。
それから俺に目を向け、笑った。
「夕食の灯りを、一つ頼めるな」
俺はすぐに頷いた。
頷いてから、急に眠くなってきた。
*
その日の夕食には、俺が火をつけた灯りが使われた。
メラが皿を食卓へ運び、いつもの場所へ置く。
「これ、ユウ様が?」
俺は椅子の上で頷いた。
「お上手です。これで台所へ来る楽しみが増えますね」
「手伝える?」
「お父様とお母様がいいとおっしゃった日にね」
母が俺の皿へ煮込んだ肉をよそった。
「灯りは頼むけれど、薪にはまだつけないこと」
「うん」
「一人でも?」
「やらない」
父が向かいで笑っていた。
俺は灯りを見た。
前の人生では、スイッチを押すだけだった。
こちらでは、油を用意して、芯を整えて、火を移す。
俺ができるようになったのは、その最後の小さな部分だけだ。
それでも、食卓に自分のしたことが残っているのが嬉しかった。
*
寝る前に、覚えた文字を板へ書こうとした。
今日できたことを残しておきたかったのだが、「火」の字をまだ知らなかった。
仕方なく、皿と炎の絵を描いた。
炎が葉っぱのようになった。皿も歪んでいる。
炭を置き、自分の指を見た。
昼間の感覚を思い出しても、火を出そうとはしない。ただ、そこにあった温かさを、もう一度確かめたかった。
薄い文字が浮いた。
【火魔法:1】
俺は動かなくなった。
父でも母でもない。
今見ているのは、自分の手だった。
文字の上にも、何かがある。
目を凝らす前に、一度まばたきをした。急がず、読めるところだけを見る。
【ユウ・レインフォード】
【個人レベル:1】
【職業:未定】
さらに下に、知らない名前があった。
【固有スキル:継路眼 1】
俺は板を引き寄せた。
まだ書けない文字ばかりだったが、見えている形を真似した。線を一本ずつ写し、途中で文字が薄れると手を止める。
全部を書き終えたころには、額が少し重くなっていた。
板を置き、目を閉じた。
継路眼。
あの文字を見せているのが、それなのだろうか。
職業は未定。
レベルは一。
火魔法も一。
分からないことは、増えた。
それでも今日は、明かりを一つつけられた。
俺は枕元の板を手で確かめてから、布団へ潜り込んだ。




