第2話 見えるもの、見えないもの
翌朝、俺は父の顔をじっと見た。
昨夜見えた文字を、もう一度確かめたかった。
父は朝食の途中だった。薄く切った黒パンを皿に置き、俺を見る。俺は母の膝の上から、さらに身を乗り出した。
「……何かついているか?」
父が口元を拭った。
そこじゃない。
肩のあたり。昨日は、その少し上に浮かんでいた。
「ひげじゃないかしら。昨日も触っていたでしょう」
母が言うと、父は納得したように顎を撫でた。
俺は目を凝らしたが何も出ない。
しばらくすると目が乾き、涙が滲んできた。父の顔までぼやけて、結局、何も分からなくなった。
「ユウ、パンを食べようね」
母が柔らかくしたパンを口元へ運ぶ。
考え事をしていても、差し出されると口が開いた。身体が先に食べ始め、俺は噛みながら父を見続けた。
「よく食べるな」
父は嬉しそうだった。
俺の調査は、朝食の終わりまで進まなかった。
*
文字は、それから何日かして、また現れた。
父が庭で剣を振っていたときだ。
俺は母に連れられ、戸口の椅子に座っていた。父の腕の傷はもう塞がっていたが、母からは、まだ無理をしないようにと言われていた。
父が木剣を持ち、ゆっくり踏み込む。
動きが止まったところで、肩の上に白い線が浮いた。
【職業:剣豪】
今度は読めた。
こちらの文字は、まだほとんど知らない。それなのに意味が分かる。声を聞いて理解するのとも違って、文字を見た瞬間、頭の中に言葉が入ってきた。
剣豪。
父が剣を持っているから、そう見えたのだろうか。
もっと下にも何かある。俺はそちらを読もうとした。
途端に目の奥が痛み、思わず顔をしかめた。
「眩しい?」
母が俺の額に手をかざした。
影ができても、痛みは変わらなかった。目を閉じて、母の服を掴む。しばらくすると楽になったが、もう一度見たときには文字が消えていた。
ずっと見えるわけではない。
無理に読もうとすると、痛くなる。
その二つだけは、分かった。
*
それから俺は、少しずつ言葉を覚えた。
歩けるようになると、行ける場所が増える。触りたいものも増える。そのたびに止められ、転び、抱き上げられた。
暖炉は熱い。
台所の包丁には触ってはいけない。
父の机に登ってはいけない。
最後の一つは、床へ落ちかけてから覚えた。父に受け止められ、母に叱られ、マルクにも叱られた。
前の人生なら分かっていたはずのことを、この身体ではうまく加減できなかった。見たいものがあると、足元より先にそちらへ気が向く。
文字のことは、誰にも話さなかった。
まだ、自分でも説明できなかったからだ。
父以外にも見えた。
母には、針仕事をしているときに。
マルクには、帳面を広げているときに。
ただ、見ようと思って必ず見えるものではなく、気づいたら浮かんでいることの方が多かった。
読めたところだけを覚えておく。
父は剣豪。
母は縫製師。
マルクは書記官。
何となく、その人の仕事に合っている。
だが、父は剣を振るだけの人ではなかった。畑を見に行くし、帳面も読む。村の人の話を聞いて、橋の修理を決めることもある。
母だって、服を縫うほかに屋敷の仕事を取りまとめていた。
職業というのは、その人がする仕事の全部を表すものではないらしい。
*
二歳になってしばらくしたころ、俺は初めて村へ連れていってもらった。
父との約束を、俺は覚えていた。
庭の外へ出るたびに「むら、いく」と言い続けた結果、ようやく許可が出たのだった。
父に抱かれながら坂道を下りる。
屋敷の窓から見ていた景色が、少しずつ近づいてきた。道は固く踏みしめられた土で、雨水の流れた跡が細い溝になっている。
村へ入ると、あちこちから声がかかった。
父は足を止めて返事をした。俺は地面に降ろされ、頭を下げる。
挨拶をすると、相手の顔が少し柔らかくなった。
近くで見る村は、屋敷から見たものよりずっと賑やかだった。
鶏が道を横切り、桶を抱えた女の人がそれを避ける。荷車の下から犬が顔を出し、日向では老人が道具の柄を削っていた。
そして、匂いがした。
薪の煙。湿った土。家畜。
道の端を流れる水からは、鼻をつまみたくなる匂いもした。
父が俺を道の内側へ寄せた。
「そこは踏まないように」
理由を聞く前に、頷いた。
靴を洗う水も、きっと誰かが運んでくるのだ。
前の人生で蛇口をひねっていたことを思い出した。
水は、どこから来ているのだろう。
「とうさま。みず、どこ?」
「井戸だ。向こうにある」
「おうちも?」
「屋敷の裏にもあるだろう」
そういえば、台所へ桶を運ぶ人を何度も見ていた。
運ばなければ、水は来ない。
当たり前のことなのに、外へ出て初めて、その手間の大きさが少し分かった。
*
父の用事は、村外れの共同倉庫だった。
マルクが先に来ていて、農夫らしい男たちと話している。父は俺を入口の低い腰掛けに座らせた。
「ここで待ちなさい。道には出ないこと」
付き添いの兵が、少し離れたところに立った。
俺は足を揺らしながら、中を覗いた。
袋が積まれている。麦だろうか。父は袋を開け、手のひらに中身を出していた。
何を話しているのか聞こうとしたところで、横から声がした。
「それ、木の剣?」
振り向くと、俺より大きな男の子がいた。
茶色い髪に、丸い目。俺の腰を指している。
今朝、父にもらった木剣だった。
剣というには短く、角を丸めた木の棒に鍔がついている。俺が父の練習を真似したがるので、作ってくれたものだ。
「うん」
「見てもいい?」
俺が渡すと、男の子は両手で受け取った。刃の部分を指でなぞり、軽く構えてから、すぐに返してくる。
「いいな。俺のは枝」
そう言って、手に持っていた細い枝を見せた。
少し曲がっていた。
「おなまえ?」
「カイ」
「俺、ユウ」
「知ってる。領主様の子だろ」
カイは俺の隣へ腰を下ろした。
それだけだった。
立ち方を変えたり、言葉を改めたりもしない。
俺は何となく嬉しくなって、木剣をもう一度見せた。
「とうさま、つくった」
「領主様、剣も作るの?」
「木の」
カイは頷き、倉庫の中を見た。
俺も見た。
少しして、カイの背中から、別の顔が覗いた。
「……帰らないの?」
黒い髪の、小柄な男の子だった。
俺を見ると、すぐにカイの肩の後ろへ隠れる。
「まだ。ユウと話してる」
「ふうん」
声が不満そうだった。
「こっちはソラ」
カイが紹介してくれた。
俺が手を振ると、ソラは見ているだけだった。
「ソラも、すわる?」
少し間があった。
ソラはカイを見て、それから腰掛けの空いた場所を見た。
「……カイ、そっち行って」
カイがずれると、二人の間に座った。
俺の木剣をちらりと見て、何も言わない。
「見る?」
「別に」
そう答えたのに、目は木剣に向いていた。
俺が膝の上へ置くと、少しして指で鍔を触った。
「俺の枝、取ったんだよ」
カイが言った。
「取ってない。借りたの」
「返してないけど」
「今、家にあるだけ」
カイは怒らず、そうか、と頷いた。
ソラは俺を見た。
「なくしてないから」
「うん」
俺は頷いた。
ソラも頷き、ようやく木剣を持ち上げた。
*
倉庫の用事が終わったのは、それからしばらくしてからだった。
父が外へ出ると、ソラは木剣を俺に返し、カイの後ろへ回った。
「二人とも、ここにいたのか」
父は二人を知っていた。
カイは立ち上がって頷いた。ソラはカイの背中越しに、小さく頭を下げる。
「ユウの相手をしてくれたんだな」
「剣、見せてもらった」
「そうか。枝を振るときは、人のいない場所でな」
カイが手に持った枝を下ろした。
父はそれを見てから、俺を抱き上げた。俺はまだ歩けるつもりだったが、持ち上げられると急に足が楽になった。
「かえり、あるく」
「坂の手前までだ」
言われて、すぐに頷いてしまった。
カイが手を振る。ソラはその横から、ほんの少しだけ手を上げた。
「また来る?」
カイが聞いた。
「くる」
答えてから、父の顔を見た。
父は口元を緩めた。
「私の用事がある日に、また連れてこよう」
ソラが何か言いかけたが、俺を見て口を閉じた。
カイがそちらを向く。
「何?」
「……俺も、いるから」
「うん」
俺が返事をすると、ソラは今度はちゃんと手を振った。
*
帰り道、父の腕の中で、俺は村を見下ろした。
カイとソラが倉庫の前を離れていく。二人の後ろには家々があり、その向こうに畑が広がっていた。
ところどころ、草ばかりの土地がある。
耕していないのだろうか。
「あそこ、はたけ?」
指すと、父が足を止めた。
「前はな」
「つかわない?」
「使えるようにしたいんだが」
父はそう言って、俺を抱き直した。
少し考えてから、言葉を続ける。
「畑を広げるには、先に森際を見回らなければならん。だが、見回る者も畑を耕す者も、同じ村の人間だ」
俺は畑を見た。
父の説明は短かったが、屋敷で聞いた話とつながった。
魔物を追い払う人が必要だ。
その人が働いている間にも、誰かが食べ物を作らなければならない。
「へいし、ふやす?」
父が俺を見た。
「増やせればな」
「どうして?」
「兵にも、食べるものと給金が要る」
父はまた歩き始めた。
俺はその肩に手を置いて、揺られながら考えた。
食べ物を増やすために、人が要る。
人を増やすために、食べ物と金が要る。
どこから手をつければいいのだろう。
前の人生の俺なら、検索をしていたかもしれない。けれど今は、聞ける相手の腕の中にいるだけだった。
顔を上げると、父の横顔のそばに、また文字が浮かんだ。
【職業:剣豪】
【個人レベル:――】
下の行を読もうとして、俺は途中でやめた。
目が痛くなる前に、視線を畑へ戻す。
見える文字には、父が何を心配しているかは書いていなかった。
それは、聞かなければ分からなかった。
*
その夜、母に村の話をした。
井戸。鶏。倉庫。
カイとソラ。
言葉がうまく出なくて何度も言い直したが、母は急かさず聞いてくれた。
「お友達ができたのね」
「うん」
「楽しかった?」
「また、いく」
母が笑った。
俺は膝の上の木剣を撫でた。明日も庭で振ってみようと思った。今度会ったとき、カイに少しは上手なところを見せたかった。
母が服の袖を繕い始める。
針が布を通り、糸が引かれる。その手元を見ていると、薄い文字が現れた。
【職業:縫製師】
【裁縫:7】
俺は、今度は追いかけすぎずに見た。
母の手は迷わず動いていた。擦り切れた場所に別の布を当て、細かな縫い目を重ねる。
「かあさま」
「何?」
「じょうず」
母の手が止まった。
それから、俺の鼻先に指を軽く当てた。
「ありがとう」
文字が消えた。
残ったのは、縫いかけの服と、少し嬉しそうな母の顔だった。
あれが何なのか、まだ分からない。
レベルという言葉は知っている。職業も、数字も、前の人生で遊んだゲームを思い出させた。
けれど、ここで針を動かしているのは母だった。
昼に会った二人も、枝と木剣を見せ合った子供たちだった。
まずは、もっと話せるようになろう。
文字が教えてくれないことを、聞けるように。
俺は母の手元へ、もう一度目を向けた。
「それ、どうやるの?」
母は針を俺から遠ざけ、縫っている場所を見せてくれた。
「ここが破れたでしょう。だから、こっちの布で支えるの」
俺は頷いた。
最初の授業は、そんなふうに始まった。




