第1話 知らない天井と、小さな手
目が覚めたとき、最初に感じたのは寒さだった。
背中は温かい。腹のあたりも、何か柔らかいものに包まれている。なのに頬だけが冷えていて、鼻から入る空気には、煙のような匂いが混じっていた。
暖房を消したまま寝たんだったか。
そう思って寝返りを打とうとしたが、身体が動かなかった。
腕に力を入れる。何かが少し動いた感覚はある。しかし掛け布団を退けることも、上体を起こすこともできない。
目の前には、ぼんやりとした茶色の線があった。
何本か、横に走っている。
梁だろうか。
俺の寝室に、そんなものはなかったはずだ。
「――――」
すぐ近くで、女の声がした。
聞き取れなかった。寝起きだからではない。音は聞こえているのに、それが言葉として頭に入ってこない。
顔の前に影が差した。
誰かが覗き込んでいる。
その人に、ここはどこだと聞こうとした。
「ぁ……あ、ぅ」
妙な声が出た。
俺は口を閉じたつもりだった。けれど唇も舌も思うように動かず、喉からは細い息が漏れるばかりだった。
何だ、これ。
もう一度、声を出す。
今度は、泣き声になった。
*
最初の数日は、考えるどころではなかった。
腹が減ると、それだけで頭の中がいっぱいになる。濡れた布が気持ち悪くて、何もかも嫌になる。眠気が来ると、さっきまで抱えていた疑問ごと、意識が途切れた。
目覚めるたびに、同じ天井が見えた。
同じ女の人が俺を抱き上げ、分からない言葉で話しかけてきた。
柔らかい声だった。近くで聞くと、胸の奥に響く。
俺は、その人から乳を飲んでいた。
最初に気づいたときには混乱した。だが身体は俺の戸惑いなど気にも留めず、必死に吸いついた。腹が満たされると、今度は抗えないほど眠くなる。
夢なら、ずいぶん不便な夢だ。そう思っていた。
何度目かの目覚めに、ようやく自分の手が視界に入った。
小さかった。
指は短く、手の甲は丸い。爪まで、信じられないほど小さかった。
俺が動かそうとすると、その手がふらふらと揺れた。
握ろうとしたら、ゆっくり指が曲がった。
しばらく、それを見ていた。
見ているうちに、自分が何を認めようとしているのか分かってきて、胸が冷たくなった。
俺は、赤ん坊になっている。
*
前の人生で、俺の名前はユウだった。
働いて、飯を食べて、時々ゲームをして、小説を読んでいた。特別な技術もなければ、世の中を変えるような仕事をしていたわけでもない。
最後に覚えているのは、家へ帰る途中の道だった。
雨が降っていた。傘を持つ手に風が当たり、靴の中が少し濡れていた。帰ったら温かいものを食べようと思っていた。
そこから先がない。
何かにぶつかったのか。倒れたのか。
思い出そうとすると、記憶は同じ場所で途切れた。
死んだのだろうか。
死んだのなら、あの部屋にはもう帰れない。途中まで読んでいた小説も、冷蔵庫に残したものも、明日やるつもりだったことも、そのままだ。
連絡を待っていた人がいたかもしれない。
俺が帰らなかったことで、誰かが困ったかもしれない。
けれど、それを確かめる方法はなかった。
今の俺には、自分の頭を持ち上げることさえできない。
分からない言葉が行き交う部屋で、俺は天井を見るしかなかった。
*
部屋に来るのは、女の人だけではなかった。
ひげのある男が、毎晩のように俺の顔を見に来た。
大きな人だった。
少なくとも、今の俺にはそう見えた。手だけで俺の頭を覆えそうで、抱き上げられると、身体が宙に浮く。
そのくせ、俺を持つときはひどく慎重だった。
「――――?」
男が何かを聞く。
女の人が答える。
男は真剣な顔で頷いてから、俺の首の下へ手を入れ直した。
たぶん、抱き方を教わっている。
そう思うと、少しおかしかった。
鎧のようなものを着て帰ってくる日もあった。肩には泥がつき、革の帯には剣が下がっている。その姿には慣れないままだったが、俺を抱きながら困った顔をするところだけは、何となく分かった。
ある夜、俺はその人の指を握った。
意図してやったわけではない。手のひらに触れたものを、身体が勝手に掴んだ。
男が動かなくなった。
それから、俺の顔と自分の指を交互に見て、女の人に何かを言った。
声が少し弾んでいた。
女の人は笑った。
男も笑った。
俺は指を離そうとして、うまく離せなかった。
その間ずっと、男は待っていた。
*
言葉が分かるようになるまでは、ずいぶん時間がかかった。
最初に覚えたのは、自分の名前だった。
「ユウ」
女の人が、毎日そう呼んだ。
乳を飲ませるときも、布を替えるときも、眠らせるときも。同じ音を繰り返しながら、俺の顔を見ていた。
偶然なのか、それとも俺には分からない理由があるのか。
こちらでも、俺はユウらしかった。
次に覚えたのは、女の人が母で、男が父だということだった。
母の名前はセリア。
父は、アーヴィン。
まだ自分では呼べなかったが、部屋を訪ねる人たちの声から、少しずつ分かってきた。
母は俺を窓辺へ連れていき、外を見せてくれた。
ガラスはなかった。木の戸を開けると、冷たい空気が入ってくる。
見えたのは、低い屋根と、土の道と、遠くの森だった。
車の音がしない。
電線も見えない。
夕方になると、家々の輪郭が早く暗がりに沈んでいった。
ここがどこなのか、まだ分からない。それでも、自分の知っている暮らしから遠い場所にいることだけは、日に日に確かになっていった。
夜の部屋を照らすのは、暖炉と油の灯りだった。
その灯りの下で、母は俺の服を繕っていた。縫い目のある小さな服を見て、赤ん坊のものでも新品ばかりではないのだと気づいた。
父の袖口にも、同じような縫い目があった。
*
魔法を初めて見たのは、俺が自分で座れるようになったころだった。
その日の父は、いつもより遅く帰ってきた。
玄関の方で人の声がして、母が席を立った。俺は敷物の上に残され、開いた戸の向こうを見ていた。
父の腕から、血が落ちていた。
袖が裂けている。後ろには、知らない男が二人いた。一人は顔に布を当て、もう一人は足を引きずっていた。
母が何かを言った。
父は短く答えた。
その言葉のうち、聞き取れたのは一つだった。
魔物。
どういう生き物を指すのか、俺はまだ知らなかった。
父は椅子に座り、母が傷口を洗った。湯をかけられると、父の指が椅子の縁を強く掴んだ。
俺は立とうとしたができなかった。
這って近づこうとしても、母の足元まで行くのに時間がかかった。
やがて、白髪の女が鞄を抱えて入ってきた。
「深いね」
その言葉は分かった。
女は父の傷を確かめ、布で水気を拭った。それから、傷の上に手をかざすと淡い光が灯った。
指先から滲むように、薄い緑色の光が父の腕へ落ちていく。
俺は息を止めた。
開いていた傷の縁が、ゆっくり寄っていった。
さっきまで見えていた赤い裂け目が細くなる。父が腕を動かそうとすると、女は低い声で叱った。
「まだだよ」
俺は光を見続けていた。
魔法だ。魔法がある。
前の人生で画面越しに見ていたものが、今、手を伸ばせば届く場所で起きていた。
思わず声を上げると、母が俺を抱き上げた。
「大丈夫。お父様は、大丈夫よ」
俺が怖がっていると思ったのだろう。
実際、怖かった。
光に驚いている間も、床に落ちた血は消えなかった。
治療を終えた女は、疲れたように椅子へ腰を下ろした。母が差し出した水を飲み、しばらく目を閉じていた。
父の傷も、完全になくなったわけではなかった。
「二日は使わないこと。腫れたら呼びな」
「助かった」
「礼はいいから、今度は盾を持っていきな」
女がそう言うと、父は苦い顔をした。
*
父の腕に包帯が巻かれている間、俺はよくその膝に乗せられた。
自分から手を伸ばすと、父は仕事の途中でも抱き上げてくれた。ただし、いつまでも相手をしてくれるわけではない。
机の上には帳面があった。
父がそれを見るときは、俺も一緒に見た。
数字は、こちらでも数字らしかった。文字はまだ読めない。父は何かを数え、指で欄を辿り、ときどき長く黙った。
ある日、老人が部屋に入ってきた。
母がマルクと呼ぶ人だ。
「北の畑は、今年も難しいかと」
俺の知っている言葉が増えるにつれて、大人たちの会話も少しずつ聞こえるようになっていた。
「森際か」
「はい。人を出すなら、護衛も必要です」
「種は?」
「足りております。ただ、蒔く者がおりません」
父は帳面に目を落とした。
俺も同じ場所を見た。
畑がある。種もある。
それでも、作れないらしい。
父が紙の上に引いた線を見ながら、俺は窓の外の森を思い出していた。
あの向こうに何がいるのだろう。
父の腕を裂いたものも、そこから来たのだろうか。
考えていると、父の指が俺の手に触れた。
俺はその指を掴んだ。
前より、自分の意思でできるようになっていた。
「お前も気になるか」
父が俺を見て言った。
もちろん答えられない。
父は少しだけ笑って、俺の頭を撫でた。
「もう少し大きくなったら、連れていこう」
*
一歳を過ぎたころ、俺はようやく歩き始めた。
自分では慎重に進んでいるつもりなのに、足はすぐにもつれた。床へ座り込むたびに、母が手を差し出す。
最初は、子供扱いされることが落ち着かなかった。
中身は大人なのに、そう思うこともあった。
だが転んだ膝は痛いし、腹が減れば機嫌が悪くなる。暗い部屋に一人で残されると、廊下の足音を待っている自分がいた。
身体に引っ張られているのかもしれない。
それでも、母に抱かれて安心する気持ちは、作り物ではなかった。
その冬、父が帰ってこない夜があった。
母は暖炉に薪を足し、俺を寝かせようとした。だが目を閉じても、戸が開く音を待ってしまう。
「まだ起きているの?」
母が小さく笑った。
俺は戸の方を指した。
「と……」
喉がうまく動かない。
母が顔を近づける。
俺はもう一度、言った。
「とー、さ」
母の表情が変わった。
そのあと、俺をぎゅっと抱きしめた。
「そうね。お父様、遅いね」
父が帰ってきたのは、それからしばらくしてからだった。
外の冷気と一緒に入ってきた父を見て、俺は母の腕の中から手を伸ばした。
「とーさ」
父は戸を閉める途中で止まった。
母が何か言おうとしたが、その前に父がこちらへ来た。冷たい外套を脱ぎ、手を布で拭いてから、俺を抱き上げる。
「もう一度」
俺は父のひげを触った。
「とーさ」
父は頷いた。
何度も、頷いた。
その顔を見ていると、俺まで嬉しくなった。
*
眠る前、母が俺の布団を直してくれた。
父は暖炉のそばで、濡れた靴を乾かしていた。二人が低い声で話している。薪が崩れ、小さな火の粉が上がった。
俺は寝台から、その光景を眺めていた。
前の人生のことは、まだ忘れていない。
帰れないのかと考える夜もあった。朝になれば元の身体で目覚めるかもしれないと、何度も期待した。
けれど、目が覚めるたびにここにいる。
知らない天井だったものは、もう見慣れた天井になっていた。
母が寝台を覗き込む。
「おやすみ、ユウ」
俺はその指を握った。
少し離れたところで、父が笑った。
そのときだった。
父の肩のあたりに、何かが浮かんだ。
薄い、白い線。
目を凝らすと、それは文字のように並んでいた。
読めない。
こちらの文字だからではなかった。見ようとするほど、輪郭が揺れた。
父が立ち上がると、白い線も一緒に動いた。
俺はそちらへ手を伸ばした。
「お父様に抱っこしてほしいの?」
母が言った。
父が近づいてくる。
文字が、一瞬だけはっきりした。
【職業――】
そこまで見えたところで、目の奥がちくりと痛んだ。
俺は目を閉じた。
額に、大きな手が触れる。
「眠いんだな」
父の声がした。
確かめたかった。
今、何が見えたのか。
魔法なのか。俺だけに見えているのか。
しかし赤ん坊の身体は、今日も俺の都合を聞いてくれなかった。父の手の温かさを感じながら、意識がゆっくり沈んでいく。
明日、もう一度見てみよう。
そう思ったところで、眠りに落ちた。
初投稿です。よろしくお願いします。




