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失われた職業を継ぐ者  作者: 陸海空
16/19

第16話 板の向こうにあるもの

 板が、割れた。

 正確には、真ん中が抉れ、その裏へ細い亀裂が走った。


 俺は手を伸ばしたまま、動けなかった。

 水が当たった音は、いつもの練習とは違っていた。濡らす音ではなく、重いものを叩きつけた音だった。


「止めて」


 セレスの声で、指を下ろした。

 厚い板の向こうには、土を盛った斜面がある。跳ねた水がそこまで飛び、黒い染みを作っていた。


「……できた」


 嬉しさが、遅れて湧いてきた。

 狙ったところへ、水弾を当てられた。

 セレスはすぐには褒めなかった。

 板へ歩み寄り、剥がれた木片を拾って戻ってくる。


「これが、腕に当たったら?」


 俺は木片を見た。

 指先ほどの厚みがあった。


「怪我する」

「顔なら?」


 俺は答えられなかった。

 セレスが俺の前へしゃがむ。


「練習をやり直すだけでは済まない。今の水は、本当に危ないものよ」


 彼女の声は静かだった。

 その分、はっきり耳へ残った。


「撃つ前に、狙うものを見る。その向こうも見る。人が近づいたら、出しかけていても止める」

「うん」

「強く出せることと、使っていい場面が分かることは、別だからね」


 俺は板の向こうへ目を向けた。

 今日は、カイたちを庭の反対側で待たせている。

 いつもの丸太も、練習場所から外してあった。

 撃つ前にセレスが確かめていたものが、ようやく分かった。


     *


 威力を上げたのは、単に水を増やしたからではなかった。

 掌の先へ溜めた水を、丸い形に保つ。

 そこへ、前へ進む力を加える。


 作る。

 保つ。

 飛ばす。


 これまでは一緒にやろうとして、途中で散っていた。

 セレスに順番を分けてもらうと、一つずつなら扱えた。


【魔力:33/42】


 一発で九使った。

 水やりなら、同じ量で何度もできる。


「次も同じ威力にする?」


 聞くと、セレスは首を振った。


「次は半分に。強くするだけではなく、弱くできるかも確かめたい」


 弱くする方が難しかった。

 勢いだけを落とすつもりが、水の形まで崩れる。板の手前へ落ちた一発を見て、俺は肩を落とした。


「それでいいわ」

「外れた」

「危ないと思ったときに、弱められることも大事なの」


 彼女は新しい板へ、小さな丸を描いた。


「今度は、抉らずに当ててみましょう」


 その日の最後には、丸の中を濡らすだけの一発を撃てた。

 大きな穴を開けたときより、セレスはそちらを褒めた。


     *


 北へ行く話は、夕食のあとに決まった。

 父の机には、継承院の地図と、持ち帰った貸与台帳が並んでいた。

 エドガー・ベルクの名前については、マルクが手紙を出していた。

 春に来たときの話を、もう少し詳しく聞きたいという内容らしい。


「盗んだかもしれないのに、聞くの?」


 俺が言うと、父は台帳へ目を落とした。


「入ったことは分かった。盗んだことは、まだ分からん」

「でも、黙ってた」

「何を知っていたのかも、確かめていない」


 父は紙を重ねた。


「疑うなら、確かめる。先に決めつければ、聞ける話も聞けなくなる」


 セレスが頷いた。

 彼女の手元には、別の図があった。

 西側の区画にある、停止した設備だ。


「こちらは、現地で見たいわ。端末から読める説明と、実物の状態が合わないの」


 俺は図を覗いた。

 継承設備の一部を調べるための台らしい。

 端末では、故障している場所まで読めなかった。


「ユウにも来てもらいたい」


 セレスの言葉に、胸が跳ねた。

 父は俺の顔を見る。


「入るのは、確認した西側だけだ。中央へは行かない」

「うん」

「行き帰りは馬。疲れたら、見える文字が残っていても切り上げる」


 俺はもう一度頷いた。

 父はセレスへ顔を向けた。


「途中の道も、先に見回らせる。私はユウと一緒に動く」

「施設の中は、私が見るわ」


 二人の話を聞きながら、俺は自分の手を握った。


 森の向こうへ行く。

 石の兵がいた場所へ。

 帳面で読んでいたものを、今度は自分の目で見られる。


     *


 出発は二日後だった。

 俺は父の前に乗り、外套に包まれていた。

 セレスと、ガレスを含む兵が三人。

 ブラムも、道案内として来ていた。

 ルナは門まで見送りに出た。

 隣にはカイとソラがいる。


「帰ったら、教えて」


 ルナが言った。


「何を?」

「全部」


 全部は長くなりそうだった。

 ソラが俺を見上げる。


「石のところ、近づかないでね」

「西側だけ」

「それでも」


 俺は頷いた。

 カイは父の腰の剣を見てから、俺へ顔を上げた。


「練習して待ってる」

「うん」


 門を出る。

 三人の姿が、少しずつ小さくなった。


     *


 森の道は、村への道とは違った。

 頭上に枝が重なり、日差しが細くなる。

 落ち葉の下には泥があり、馬が足を置くたび、湿った音がした。


 俺は父の腕の内側から、左右を見た。

 木の間に何か動くと、それだけで肩へ力が入る。

 鳥だった。

 次は、落ちた枝だった。


 何度もそうやって確かめるうちに、少し慣れたつもりになった。

 そのとき、先頭のブラムが手を上げた。

 父の馬が止まる。

 セレスが短い杖を抜いた。


「右」


 ブラムが低く言った。

 藪の奥で、枝が折れた。


     *


 最初に見えたのは、灰色の背中だった。

 犬に似ている。

 だが、頭が大きく、口の横から長い牙が出ていた。

 もう一頭。

 少し離れた木の陰から、同じものが出てくる。


「牙狼、二頭」


 ガレスが盾を上げた。

 別の兵が、馬を道の内側へ寄せる。


 父の腕が俺を囲んだ。


「降りるぞ」


 身体を持ち上げられ、地面へ下ろされる。

 セレスが俺の肩を押し、大きな木の後ろへ移した。


「ここにいて」


 俺は頷いた。

 口が乾いていた。

 牙狼が、低く唸る。

 声は犬に似ていた。だからこそ、口の牙と、こちらを見る目が怖かった。

 ガレスが盾を叩いた。


「こっちだ!」


 一頭が動いた。

 さっきまで木の間にいたものが、一瞬で道へ出る。

 盾にぶつかる音がした。

 ガレスの足が、泥の上を滑る。

 俺は木の幹を掴んだ。


     *


 父は、もう一頭の進路へ入った。

 剣の縁が、淡く光っている。

 牙狼が飛びかかる。

 父が横へずれ、剣を振る。


 短い鳴き声。

 灰色の身体が落ち葉へ倒れた。

 俺はそちらを見てしまった。

 父が怪我をしていないか確かめたくて、ほかが見えなくなる。


「ユウ」


 セレスの声が近くにあった。


「私を見て」


 俺は顔を上げた。

 彼女は俺の前に立ち、道の方へ杖を向けている。


「息を吐いて」


 吸うばかりになっていた。

 俺は震える息を吐いた。

 ガレスが押されている。

 盾の縁を、牙狼が噛んでいた。

 もう一人の兵が槍を向けるが、牙狼は盾を引きながら身体を振り、穂先を避ける。


 セレスが指を動かした。

 牙狼の後ろ足の下で、土が盛り上がる。

 身体が傾いた。

 ガレスが盾を押し返し、牙狼を道の脇へ追いやる。


「倒れていない。近づくな」


 父の声がした。

 剣を構え、もう一頭へ向かっている。

 俺は牙狼を見た。

 こっちを向いていない。

 ガレスの盾へ唸っている。

 練習の板が、頭へ浮かんだ。


「水、撃てる」


 声が掠れた。

 セレスが俺を見る。


「狙う先は?」

「狼」

「その向こうは?」


 俺は目を上げた。

 ガレスがいる。

 手を出しかけて、止めた。


     *


 セレスが道へ声をかけた。


「ガレス、左へ寄せて。射線を空ける」


 ガレスが盾を動かす。

 牙狼も、その面を追って向きを変えた。

 横腹が見える。

 向こうは、土の斜面。


 父は俺の手を見てから、一歩横へ動いた。

 剣を下ろしてはいない。


 水を作る。

 形を保つ。

 飛ばす。


 掌の先へ集まった水が、震えた。

 俺の手が震えているからだった。


 牙狼が、こちらへ顔を向けた。

 怖かった。


 俺は水を撃ったが、地面に当たった。

 泥が跳ね、牙狼が身体を引く。


 外れた。


 魔物の黄色い目が、俺を見た。

 ガレスがすぐに盾を叩く。


「こっちを見ろ!」


 牙狼が、また盾へ飛びついた。


「今のは、私たちが止める」


 セレスが言った。


「あなたは、次を撃つか、やめるか決めて」


 俺は手を見た。

 指が冷たかった。

 庭で何度もできたことが、できない。


 それでも、ガレスが俺のために向きを変えた。

 父も、待っている。

 俺は手首を左手で支えた。


「もう一回」


     *


 狙うのは、盾ではない。牙狼の横腹。

 その向こうは、土。

 父は右。ガレスは左。


 一つずつ確かめた。


 水を作る、丸く保つ。

 頭の中に、板へ当たった音を思い出す。

 今度は、怖い目ではなく、狙った場所だけを見る。


 俺は息を吐いた。

 水弾が、手の先を離れた。

 重い音がした。


 牙狼の身体が横へ倒れた。

 前足が土を掻き、口が開く。


 俺は次を作れなかった。

 ただ、見ていた。

 父が近づき、剣を構えたまま動きを確かめる。

 少しして、顔を上げた。


「倒れた」


 ガレスが盾を下ろした。

 その面には、深い歯形が残っていた。

 俺は木へ背をつけた。

 膝が曲がる。

 セレスの手が肩を支え、そのまま地面へ座らされた。


     *


 魔力は、まだ残っていた。


【魔力:14/42】


 なのに、立ち上がれない。

 喉が詰まったようで、渡された水もすぐには飲めなかった。


 父が前へしゃがむ。


「怪我は?」

「ない」

「では、少し休もう」


 俺は父の袖を見た。

 血はついていない。


「父様は?」

「ない」


 ガレスも、肩を少し打っただけだと言った。

 それを聞いてから、ようやく水を飲めた。


 倒れた牙狼は、まだ道の脇にあった。

 さっきまで動いていた。

 俺を見ていた。


 その身体を、自分の魔法が倒した。


 嬉しいとは、思えなかった。

 怖くなくなったわけでもなかった。


「練習とは、違ったでしょう」


 セレスが隣へ座った。

 俺は頷いた。


「手が、動かなかった」

「それでも、最初にガレスを見て止めた。次は、射線を確かめた」


 彼女は俺の手元を見た。


「そこは、忘れないで」


 俺は杯を両手で持った。

 震えは、少しずつ小さくなっていた。


     *


 先へ進む前に、ブラムと兵が周囲を確かめた。

 牙狼は二頭だけだった。

 追ってくる気配もない。


 父は俺の顔を見て、屋敷へ戻るか聞いた。

 俺は少し考えた。


 戻りたかった。

 門の内側で、カイたちと練習していたかった。

 けれど、今日の俺の役目は、ここで戦うことではない。

 西側の設備を見ることだ。


「行く。馬に乗る」


 父は頷いた。


「途中で気が変わったら、言いなさい」


 俺は父の前へ乗せられた。

 外套の中へ手を入れ、自分の指を見た。


 文字が浮いた。


【個人レベル:2】


 俺は動きを止めた。

 さらに、その下を読む。


【魔力:14/52】


「……父様」


 父が手綱を引いたまま、こちらを見る。


「レベルが、二になった」


 父は少し黙り、それから俺の肩を抱き直した。


「そうか。初めてか」

「うん」

「今日は、大きな経験をしたな」


 セレスが馬を寄せた。

 俺が最大魔力も増えたと話すと、彼女は頷いた。


「技能とは別の、身体と魔力の成長ね。今ある力が全部戻るわけではないけれど、上限は広がる」

「剣は?」

「技術は、また練習よ。ただ、動かしやすさは少し変わるかもしれない」


 俺は手を握った。

 今はまだ、強くなった実感より疲れの方が大きい。

 それでも、一のままだった数字が変わった。

 魔物を前にして、何もできずに終わらなかった。


     *


 継承院へ着いたころには、俺は半分眠っていた。

 父に起こされ、顔を上げる。


 丘の上に、建物があった。

 崩れた白い壁。

 中央へ伸びる丸い塔。

 正面の階段には、動かない石の兵が立っている。


 地図より、大きかった。


 西側へ回ると、低い入口の前でセレスが止まった。

 俺を馬から下ろし、父が隣へ立つ。


「ここから先は、足元を見て」


 俺は頷いた。

 扉の脇には、継承院の印がある。

 意識を向けると、文字が現れた。


【一時通行登録:有効】

【案内者を認識】


 扉が、低い音を立てて開いた。

 中の空気は冷たく、乾いていた。

 セレスが灯りを作る。

 壁に刻まれた線が、奥へ続いている。


 俺は一歩、中へ入った。

 その瞬間、視界いっぱいに文字が広がった。


【職業付与設備】

【停止原因:継承核の未装着】


 俺は立ち止まった。

 壊れているのだと思っていた。

 だが、表示は違った。

 必要なものが、取り外されている。


 セレスへ伝えようとしたとき、その下にもう一行が現れた。


【継承核搬出記録――王国暦、昨年秋】


 俺は、父を振り返った。

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