第一部⑨『一の矢』
風が強かった。
新人魔法少女のコスチュームはハタハタと揺れている。
基本的にクルミは他人の目を見ない。視線を合わせると相手に飲まれてしまうという恐怖心ゆえだろうか、尊大な割に小心者なクルミらしい性質と言える。
それゆえに、かつて 「相手の目を見ずに話す人間は信用されないぞ」などと自称熱血の体育教師に諭されたが、クルミは(あたしが詐欺師だったらてめぇの目を睨んで話して騙してやるからな絶対だからな)と内心で毒づいたことがある。
ともあれ、彼女は相対した羅刹と目を合わせることは決してしなかった。剛力怪力の筋肉馬鹿の、足元だけをじっと見ていた。
間合いが充分にあるこの状況においてその選択は正解であった。足の筋骨がムキムキと隆起して、コンクリートを削り飛ばす勢いで加速する、その瞬間を見逃さなかったからである。
「ひゃあっ」
情けない悲鳴を上げたのはポジルンのほうだった。しかし、クルミは突進してくる羅刹とすれ違うように斜め前方へ転がってていた。
一般的に、ひたすら逃げに徹する相手を拳で仕留めることは難しいとされている。そのためか割と余力を持って回避できた。
「ねえポジルン」
「なっ、なにさっ!?」
「『逃げようよ』なんて言わないで。そんなこと聞いちゃうと泣きたくなるから」
逃げに徹していたクルミの心の中で、何かが変わった。
傍から見れば扱いに困る天邪鬼にしか映らないクルミの本心を他人が察することは難しい。
しかし、この状況においてのみ、ポジルンには正しく伝わったのだ。クルミの性根というやつが。
「……分かった。じゃあクルミ、きみに改めてアドバイスをするよ」
「今度こそしっかり聞くからお願い」
「奴らは痛みとかでは止まらない。右腕が千切れても左腕で殴るほどパワフルだ。その一方 で頭部を破壊すれば即停止する」
「それが成功すればね」
「失敗すれば泥仕合は避けられない。あれで意外と学習能力が高いからいずれ追い詰められてしまうよぅ」
『意外と』などとヌイグルミ風情にも見下される阿呆丸出しの怪人は、見るからに馬鹿のように怒り狂っていた。
ちょこまかと逃げ回るターゲットを探し続け、ようやく発見して自らの手の届く範囲に来たというのに、それでもなお取り逃がしたのだから。
これが人間VSゴキブリであれば迷わず化学兵器の殺虫剤で抹殺しているところであるが、そうした特殊能力の類を怪人が持ち合わせていなかったのは、クルミにとっての幸運といえるだろう。
この時、クルミはちょっとした余裕を覚えていた。思ったよりも攻撃は速くはない。むしろ自分の機動力が勝っているような気さえする。
こうして怪人が直線的に仕掛けてくるだけであれば魔法少女の身体能力でいくらでも回避できそうである。ただし、回避できるほどの充分な足場があれば、の話であるが。
『…………ンッッ!』
重機のように太く堅強な両腕を怪人は天にかざした。クルミがその先を想像できなかったのは戦闘に対する経験不足のためであろう。
そして床に向けて叩きつけられた二つの巨大な拳。
『フンッ…ブルグゥ!!』
振り下ろされたスレッジハンマー。轟音。
屋上のアスファルトに蜘蛛の巣のような亀裂を走らせ、粉々に砕いて割ってみせた。狙ったのはクルミそのものではなく、チョコマカと逃げ回るために必要な、フィールド。
見た目によらず、直線的なばかりでなくて間接的な攻撃を仕掛けるだけの知能がそこにはあったのだ。『意外と』などとタカをくくっていては、いけなかったのだ。
屋上、半壊。
怪人みずからも階下に落下し、瓦礫と粉塵の舞う7Fへ。
両者が共に体勢を崩せばポジルンの言う泥仕合へ移行し、ガキのケンカのような殴り合いのシバキ合いとなるだろう。そうすれば分があるのはフィジカルで圧倒的優位に立つ怪人であるが、そうした戦力の差まで計算した攻撃かどうかは分からない。
『グ…ブル…グブ…?』
しかし、キョロキョロと見渡せども粉塵の中に魔法少女は見当たらず、いよいよブチ切れた怪人は下界までも響かんような咆哮を上げた。
あっちに隠れたか、そっちに隠れたか、埋もれているのか、気絶しているのか、撲殺してやるから出てこい。ヒステリックに暴れ狂うばかり。
「…………はぁ…はぁ…」
その無防備な後頭部に狙いを定めているのがクルミである。
弓をキリキリと引き絞り、矢は獲物のほうへ確かに照準を。崩壊をギリギリ免れた屋上部分から、階下の羅刹へ向けて試みる狙撃。
「……ネガティブなんだよあたし。あんたが何をするかも分からないのに自信満々に構えてることなんて、できやしないよ」
怪人が仕掛けようとした攻撃の目的を理解するより前に、一歩早く横っ飛びに動いていた。そのわずかな時間の差が現在のクルミの立ち位置を決めたと言ってもいい。
もしも、彼女の心に無駄な余裕があり回避が遅れてい たならば、瓦礫に埋もれて怪人に捕らえられて魔法少女の顔面餅つき大会が開催されていた、そういう未来もあっただろう。
付け加えるならば、『意外と学習能力が高い』と評したポジルンよりも、クルミは怪人の知能をさらに少し高く見積もっていた。
陰キャラな上に勉強でも成績下位がお決まりな彼女にとって、自分より下の存在というのをあまり想定することがないのだ。
「絶好のチャンスだクルミ。この一撃で決めるしかない」
「もうちょっと待って、あいつの動きが止まってから」
「心の準備はできてる?」
「小さな心臓がバクバク」
「ぼくも」
「あんた心臓あるんだ?」
「ふざけちゃダメだよ。それがきみの最後の言葉だったら悔いが残るだろう?落ち着いて狙うんだ」
「……あたしね、こういう肝心の場面で必ず失敗するようにできてるんだ」
「はぁ!?」
風がさらに強まった。クルミの肌が脂汗で濡れている様子がポジルンから見ても分かる。運動ではなく、精神的な負荷によって。
『失敗するだなんてふざけないで!』と言いたくなったポジルンがその言葉を飲み込んだのは、表情を見れば分かるほどに、クルミの精神はピリッと集中していたからだ。
「落ち着いてなんて言われてもあたしの鼓動は静まらない。緊張するといつもそうなの。でも、それがあたしだから、無理に静めようだなんてしない」
これ以上声をかけるのも躊躇った。あとは彼女に委ねる他に無いと思い、祈った。
そして、気が狂ったかのように瓦礫をひっくり返し索敵を続ける怪人に訪れた『もうここらを探してもアカン』という、クールに立ち戻る時間。
その動きが、止まった。
「………ッッ!!」
ポジルンが聞き流した『肝心の場面で必ず失敗する』という言葉。ところが、それは軽口でもなんでもなくクルミの本心であった。
(肝心な場面で成功を掴んでいたなら、こんな性格にはなってねぇんだよ)きっと彼女はそう言うのだろう。
実力も無い。取柄も無い。才能も無い。おまけに運も無い。そもそも弓矢なんて扱ったことも無い。勝負事でマトモに勝った経験だってほとんど無い。
そんな自己暗示的な呪いをかけたクルミの矢は———初めから当たるはずもなかったのだ。
「今っ!!!」
ポジルンの声を聞くよりも先に矢はクルミ の指を離れていた。今しかないという好機の瞬間を言われずとも分かっていたからだ。
空気を切り裂く弦。放たれる矢羽の風切り音。コンマ数秒に満たないその時間であっても飛んでいく矢の軌道が確かに怪人の頭部へ向いていると分かる。
だが、『肝心の場面で必ず失敗するようにできてる』というクルミの言葉は、正しかった。
真っ直ぐに飛んでいたはずの矢は緩いカーブを描き、羅刹の後頭部を掠めるように逸れ、瓦礫にカッと音を立てて突き刺さった。———風が強かったのだ。
その音はあろうことか羅刹の耳にもピクッと留まり、虚しく突き刺さった矢を眺め、そして飛んできたであろうほうを振り返り、魔法少女の姿を捉えた。
「は、外した……」
力無く呟いたのはポジルン 。
だが、魔法少女クルミの眼は力を失っちゃいなかった。




