第四部⑫【溺死の恐怖の中で魔法少女に差し伸べられるものは】
咄嗟に空気を胸一杯に吸い込んだ。
だが、着水の衝撃でほとんど吐き出してしまった。
(死んじゃうのっ)などと思えているうちはまだマシだった。
余裕があった。酸素を求め急いで浮上を目指してもがくことができた。しかし、ガシッと足を掴まれた瞬間、恐怖のあまり思考が止まった。
(ひっ)
爪を立てて締め上げる羅刹の剛力から伝わるのは『決して離さない』という説得力。クルミはいとも簡単にパニックに陥った。
いつだったか『サメは鼻先が弱点だから襲われても蹴ればラクショー』という話をクルミはどこかで見聞きしたことがある。実際、サメに襲われてる最中にそんなことが可能なのだろか?いかにも嘘臭い話である。妄想大好きのクルミは授業中に脳内で何度もシミュレーションをして何度も生還を遂げたが、所詮妄想でしかない。
水とは怖いものである。
深ければ深いほどに、暗ければ暗いほどに。
そんな状況で適切な判断ができるような超人的なメンタルは、クルミには無かった。
「〜〜〜〜〜〜〜〜!!!」
動揺のあまりガボガボッと大玉の空気が口から漏れた。
見開いた目は水面のほうへ。
だが、引っ張られる身体はより深みへ。
水を得た魚とばかりに怪人は溺れるクルミの足を握ったまま潜ってゆく。これが本来の姿であろう、水棲動物特有の動きで。
クルミがどれだけ全力で暴れようとも脱出不能。遠ざかってゆく気泡を無力にも見送るのみ。誘われるは音の消えた冷たい死の世界。
(………!!)
欠乏する酸素。一秒一瞬でも早くしたい呼吸。その逸る気持ちがクルミの口を開かせた。口内に、体内に、ガバガバッと水が流れ込んできた。その状況で敵と戦うことなど到底不可能。万事休すの魔法少女。
(……そんな)
起きてしまえば当たり前の出来事。自力で打開できない事態に直面してしまえばゲームオーバー。ひとりぼっちで戦うとはそういうことだ。
酸素欠乏のクルミの脳裏によぎるのは、カラフルに集められた色とりどりの魔法少女たち。あれは個の苦手を補うために集団を形成するという合理的発想ではないか。
いや、そればかりじゃない。考え方の違う他人と交わることで彼女たちは感動的なまでに輝きを増してキラキラと成長していった。
クルミは、そうなりたかった。
でも、そうなれなかった。
水深何メートルだろうか。光が届かなくなった。それだけ池が淀んでいるせいだろうか。今となっては幼き頃の澄み切った心など思い出せない。現状、薄い胸の奥底にはヘドロのような鬱積がドロドロと堆積している。
(それが……この末路なの……?そん……な……)
学年が上がるにつれて高度になってゆく女子同士のコミュニケーションを読み解くことができなかった。見当違いなことをしてしまうたびに笑い者にされてしまった。気付けば輪から外されていた。クルミはひとりぼっちになっていた。
毎日が不安で不安で仕方がなかった。誰かと繋がって安心していたかった。話せる相手が欲しかった。
けれど、(仲良くしてほしいの)と思って差し出した手は、嘲笑とともに拒否された。心にヒビが入った。『キモチワルイ』という呪いの言葉が心を蝕んだ。
自分に原因があるのだと責めた。相手も原因があるので はないかと責めた。いつしか、心はキラキラすることを失っていった。
他人に手を伸ばすのが怖くなった。
迂闊に手を伸ばせば痛い目を見るからだ。
だから、クルミは硬い殻に閉じこもるようになったのだ。他人をシャットアウトすれば痛い目を見ないからだ。
追加戦士を提案するポジルンに言った。『お願いだからこのまま一人でやらせてほしいの!!』と。ああ、ひとりぼっちでは戦ってはいけないというのに。だとするならば、これは忠告を無視した罰とでも呼ぶべき有様か。
(……そん……な……わけないだろうが!ナメるな!!ぼっちだからって死んでたまるか馬鹿野郎が!!!)
失敗したならこう言われるのだろう。それは最期の足掻きだった、と。水中で矢など放てるわけもない。ならば矢尻をナイフのように使って切り裂くほかない。
そう考えて振り上げた切先が怪人に突き刺さることは——————なかった。水中を見渡すに適したギョロリとした目はクルミが行おうとしている抵抗を捉えていたのだ。
怪人の腕は雑巾のようにクルミの身体をブンブンと振り回した。大型のトカゲなどに見られる行動。捕らえた獲物をぐったりと弱らせる方法だ。
(………ッッ!!!)
水流に飲み込まれるように、クルミの手から矢が離れた。やがて上も下も分からなくなった。それでも黙って死ぬわけにはいかないではないか。決死の覚悟で自身の足に食い込む怪人の腕に喰らいついた。
———クルミの見立てでは、ツグミは戻ってこない。
嫌いな人間を助ける道理など無いからだ。事実、ツグミはクルミを孤立から救おうとはしなかった。他人に期待をすれば裏切られる。ならば救出を望むのではなく自分を信じて戦う他ない。
何度も経験して染みついた考え方。クルミは歯をむき出しにして怪人にキリキリと噛みついたのだが。
(ひとりだって生きていけるの……!じゃなきゃ……あたしは……あんまりにも……!)
暴れるほどに増える酸素消費量。
クルミの身体から力が抜けてゆく。
少しずつ筋肉が弛緩してゆく。
とうとう噛みついた口は離れ、脱力した少女の身体はゆらぎ、咲いたピンクのコスチュームが水中花のように漂った。
(……………………あんまりにも………みじめ……なの………)
かつて、幼き頃のツグミは変わり者のクルミとも分け隔てなく付き合ってた。世界は調和をもって上手く回っていた。
ある時から、手のひらはあっさり返された。先ほど、ハムスターの件を出したとき『アハハッ!冗談でしょ!?』とツグミは言っていた。
—————嘘だ。
あの時からツグミは変わってしまった。
周囲の空気も変わってしまった。
それはたぶん間違いのないことだった。
クルミという『敵』を据えることで生まれたクラス内の新秩序は、ツグミを中心として、調和をもって上手く回るようになったのだ。
(もう一度、仲良くしてほしいの)と差し出した手をツグミは無視した。クルミを冷たくあしらうたびにツグミの人気は上がっていった。
まるで悪を断罪するヒーローのように。
(なんだかズルいの) と思った。でも、ツグミだけじゃない。きっと、みんなちょっとずつやっていることなのだろう。
(…………………)
薄れゆく意識。ぼんやりと開かれた目はキラキラと輝く水泡がゆらゆらと浮上するようすを見送ることしかできない。
脱力したはずのクルミの手が水面へ伸びたのは、無意識ゆえだろうか。求めるように。掴もうとするように。
戻ってこない、決して戻ってこないであろうツグミへ向けて、差し出したかのように伸ばしたクルミの手は———
(…………!!!)
見上げた水面をすべる黒い影。
瞬間。突如。青光りする鉄砲弾の勢い。
コンパスのようにぎらぎらと鋭く尖った銀色が水を切り裂いた。
かつて国語教科書で読んだことがある、あの『かわせみ』のように飛び込んできた。やたらと眩しく見えたのは開きかけた瞳孔ゆえだろうか。
瞬間。
だが確かに見えた。
キラキラと輝く気泡を身にまとい、剣をもって怪人の腕を断ち切る、魔法少女ツグミの横顔を。
そして、差し出したかのように伸ばしたクルミの手を———ツグミはキャッチした。




