第三部③『安倉ユウナ』
「閑奈さん」
「ピイッ!」
背後から声をかけられると条件反射で全身を硬直させてしまう。最弱者ムーチョのメンタルを持つクルミの悲しい性のようなものだ。
声の主は、安倉ユウナであった。
クルミは下校ラッシュの騒々しさに巻き込まれるのを厭い避けるために、帰りの会が終われば逃げるゴキブリの如く教室から立ち去り、日直などの用が無い限りはいつも一等一番で下駄箱へと向かう。
もしも、そんなクルミに対して『いつもどうしてそんなに早く帰ろうとしてるの?』と声をかければ、クルミは『居心地が悪いから』などと本音を答えることもできずにアウアウするのみだろう。
さておき、不意を突かれたかのように現れたユウナに対してクルミの動揺はマックスである。あれ以来、話したい話したいと思いながらも一度も話せてはいないのだから。
「さっ、さようならっ…!」
「待ってよ。私もこれから帰るところだから」
それは『一緒に帰りましょう?』ということで解釈して構わないのだろうか?
対人コミュニケーションから隔絶されて久しいクルミには、いまいちそのニュアンスが読み切れない。一事が万事。こうして社会不適合者は生み出されるのかと頭がクラクラしてくる。
なのでユウナが靴を履き替えるまで意味も無く下駄箱の前で8の字を描くように歩く。これも陰キャ特有の挙動不審である。
「閑奈さんってさ」
「うん!?」
「今日の朝、なんか変な顔してたよね。あれどうしたの?」
あっ、コイツそれを聞きたいがためだけに追い駆けてきやがったな。
それにしても、これほど同じ質問をされるとは、あたしの作り笑顔はよほど珍妙だったに違いない。そうに違いない。改めて自らの匙加減の利かなさに辟易したクルミであった。やはり慣れないことはしないほうがいいと心に誓ったのだった。
「べ、別に」
「ふぅん?」
ユウナはつま先をトントンと直すとスタスタと歩き始めてしまった。質問攻めに遭うかと思い身構えていたクルミは、なんだか肩すかしをくらったような思いをしてしまう。
「どうしたの?途中まで一緒に帰ろ?」
そう言われてしまうとクルミは弱い。がっちりと硬い殻で心をガードしていたつもりが、あっさりと溶かされてしまうのだ。
クルミは女子特有の集団行動が大嫌いだった。どうして奴らは何をするにも一緒じゃなくては満足できないのか?小便ならば一人で行け。大便ならば尚更一人で行け。おしゃべりするならトイレなんぞ臭いところでするな。邪魔だ。馬鹿なのか。どうせいつもいつも同じようなツラを揃えて内輪で陰口ばっかり叩いてるんだろう?排他的極まりないドブ沼にどんなグロテスクな花を咲かせてやがるのか。
だが、そうした僻み根性丸出しの眼で見続けていながらも、心の奥底には羨望があったことは言うまでもない。
クルミは一人でいることに誇りを持てるほどストイックではないのだ。
そんなもんだから、『一緒に帰ろ?』などと言われると悪口雑言もどこへやら、心のポカポカと温まる感じにあっさりと溶けてしまう。
「………!」
この、安心感。誰かと一緒にいるというだけでホッとしてしまう。
こうなるとクルミ、他の連中にこの姿を見せてやりたい気持ちが芽生える。どうだ、あたしは常に一人ってわけでもないんだぜ?と言いたくて仕方がない。
ふむ、悲惨なほど底辺の発想である。ひとりぼっちを恥じる必要はないと常日頃のように思いながらも、 立場が変わればこうなってしまうのだ。
(恥じるべきは、こんなことを考えてしまうあたし自身だな)こうして一人反省会のネタがまた一つ追加されたのだった。
「閑奈さんってさ」
「はひっ!?」
「どっちから帰るの?」
「駅。駅と反対方面。川。多摩川上水を渡った向こう側です」
「ふぅん。私もそっち側なんだ」
「コンビニのほうまでまっすぐ行く」
「そういえばあそこの二階の窓、割れてたよね。どうしたんだろうね」
「…………」
「ガードレールも壊れてたし、交通事故なのかな」
「…………闇に蔓延る悪鬼羅刹が」
「羅刹?」
「なっ、なっ、なんでもないのっ!!」
こちらの世界に少しだけ反映される異次元での戦いの痕跡。まったく本人に反映されない魔法少女としての勇姿。こちらの世界では相変わらずのウジ虫。誰かと一緒に下校するだけで忙しくアップダウンする気持ち。
「で、どうしてあんな顔してたの?」
「自分でも何をしたかったのか忘れたの。忘れたし、アホらしすぎて思い出したくもない」
「アハハ」
「その笑い方やめて。バカにされてるみたいなの」
「そんなつもりないよ。ただ、あの無理な笑顔を見てたら、どうして閑奈さんは無理ばっかりしてるのかな、って思って」
「……またその話?」
「その話の続きがしたくなったんだ」
分かる。ユウナは決してバカになどしていない。子供っぽい純粋な好奇心をストレートにぶつけているだけなのだ。
青々としたイチョウの並木道。ひらりと反転したユウナは西日を背に後ろ歩きをしながらじっとクルミの瞳を覗き込む。
「閑奈さんってさ、隠すよね」
「隠す?」
「あのとき私に怒鳴った閑奈さんが本当の閑奈さんでしょう?」
「………」
「あの時に言ったよね。『あたしはカラッポじゃない』って。その通りだよね。それじゃなきゃあんなに言葉なんて出てこないよね。あれから私、閑奈さんのことを見る目が変わった。『ああやって黙ってるのはきっと、本当の自分を隠してるからなんだな〜』ってね。いつも机に伏せてるのは隠してるから。で、今度は作り笑顔で隠そうとしたでしょう?違う?」
嬉しそうに。楽しそうに。ユウナは心の奥底へ入り込んでくる。だからこそ反射的にクルミは目を逸らした。
斜陽が眩しかったからではない。ずけずけと遠慮もせずにプライベートゾーンへ踏み入ってくることへ対しての防衛反応のようなものだ。
「どうしてそんなに隠そうとするの?ああやって怒鳴ってた閑奈さんのほうが好きだよ私は。『こんなこと考えながら生きてる人がいるんだ』って驚いちゃった」
「それは安倉さんが普通じゃないからなの」
「うん。私、普通っていうのが分からないから」
「……そうだね。そういう顔してるね」
「アハハ。ほら、そうやって我慢しない素直な閑奈さんのほうが好いよ」
うざってぇ女だな。内心舌打ちをした。けれども、よく分からないけれど肯定してくれるユウナのことを振り切ることができない。
なぜって、隅っこ暮らしの陰キャ風情にこうも構ってくれるのだ。 しかも好きだと。クルミの頬が少しばかり染まって見えるのは夕日のせいだけではない。
「もっと言いたいこと言っちゃえばいいのに」
「そんなわけにはいかないの」
「どうして?嫌われたくない?『ありのまま』を見せて嫌われたらそれは仕方がない。それとも無理してでも好かれたい?」
「ポエミーな言葉を吐かないでよ。あたしみたいなのは隠して取り繕わなくっちゃ人間社会で生きていけないの。そういうリアルなものが迫ってるの」
「そうなのかな。たぶん閑奈さんが言う人間社会っていうやつじゃ言いたい放題言ってる人もいると思うけれど。たとえばさ、里奈さんなんてそういうタイプじゃない?」
過敏な神経に『里奈ツグミ』の名がカチンときた。よりによってユウナの口からその名が出たことが、特に。
「ハッ、分かってないの安倉さん。嫌われたくないとか、好かれたくないとか、そういうのじゃないの。あたしが『ありのまま』を晒せばそれは『害悪』でしかないの。そもそも軽々しく口から吐ける本心なんて大したもんじゃないでしょう?あまりに毒々しくて隠しておかなきゃいけないのが本心なんでしょう?」
「そんなことも…ないよ…」
「あるね!きっと安倉さんの本心っていうのは別に見せても困らないような本心ばかりなんでしょう?だから、あたしが本音を言い淀んでる姿を疑問に思ってるんだ取り繕ってる姿を不思議がるんだ。でも、あたしの見立てによると9割以上の人間のハタワタってのは生々しくできている。そんな生臭いものを表に出しちゃダメだから我慢してるんだ。頑張って我慢してるんだ。たとえば、あたしみたいなのがバカ正直に考えてることを口にしたらどうなると思う?露出狂だって赤面するわ。だから、『ありのまま』なんて見せちゃいけない。化粧をして醜い部分を隠すように、隠して、隠して、それでようやく人間でいられるんだ。そうでしょう!?」
「……閑奈さんは自分をそんなに醜いと思ってるの?」
「そうだよ!自己否定感マックスなの!あたしは思い知ってるの!別にさして興味もないハムスターがくたばって泣けるほど純粋じゃないの!でも、それを素直に態度で表しちゃダメなんでしょう!?そうでしょう!?みんなが泣いてりゃ自分も泣きまねくらいしなきゃだめなの。生憎、あたしにはそういう器用さがないから、こうやって底辺を這いつくばってるんの。もっと上手く振る舞えればって何度思ったことか!今日だって!安倉さんの言った作り笑顔だけの人間。そいつらはある意味で慎み深く生きていると言えるだろうね。だって自分の醜さをよ〜〜〜〜く知ってるんだからねえ!」
「…………」
「ま、一番気に入らないのは、自分の心がキレイだと勘違いしてる連中だけどね。本音、本音、裏表無くズバズバ物言いますって?馬鹿野郎!正直者のツラしてるてめぇらは露骨に害悪だ!てめぇらのありのままは汚ねぇってことに鏡見て気付きやがれ!『里奈ツグミ』なんてそのタイプ!取り繕わねぇてめぇのスッピンは周囲に迷惑かけるんだからちったぁ自分の醜さを知りやがれ!」
ブレーキをかけよう。今日はやめておこう。ここは抑えておこう。
そう思いながら話していたクルミは、喋ってるうちに数珠繋ぎ的に連想されるワードにエンジンがかかり、最期のほうは結局ヒートアップした挙句に怒鳴っていた。
つまりは、再びユウナの目の前で爆発したのだ。自虐と他虐の入り混じった醜い醜い罵詈讒謗。その姿、フワフワ卵もトロトロ卵も魔法少女もオムライスあったものか。露呈したクルミの中身。
だが、本人も気付かない意識レベルでは、これはユウナに対する『試し』であった。つまり、『そうやって我慢しない閑奈さんのほうが好いよ』という言葉がフェイクかリアルか。
それが臆病者ゆえの習性。これで離れてゆくならばそれまでなのだが———
「…… 閑奈さんっていっつもそんなこと考えてるの?」
「そうだよ。あたしは不徳の極みなの」
「アハハハハ!変なの!!」
「あたし変なのなの!?」
「でも、それで良いよ。それが良いよ。やっぱり好きだな、私は」
「なんで!?どうしてそんなに嬉しそうなの!?」
「たぶん言ってることにあたしは5%も共感できないかな。でもね、閑奈さん!」
「何さ!」
「世界って広いね!だって、すぐ隣にあなたみたいな人がいる!そうだよ、嬉しいんだよ私は!」
どうしてか、クルミにはユウナの言いたいことが通じてしまったのだ。急に流れ込んできたのだ。きっとユウナは閉塞的な空間に、苦しむほどに退屈していたのだ。それが、違う景色を観れて、どうしようもなく嬉しくなってし まったのだ。
振る舞い方もすっかり緩んだユウナがクルミの手をきゅっと握って引っ張る。フェイクではない、リアルな感触が伝わってきた。




