第二章③『変人と恋人』
人に話しかけられるだけでも警戒心。
ましてや秘密を探ろうとしているかのようなユウナの言動に対してはより一層の警戒心。
人間不信のクルミは、他人を判断する上で『敵意の有無』を真っ先に確かめる。日々虐げられし小動物の悲しき本能である。もっとも、それを正確に測れるほどの観察眼があれば苦労はしないわけであって、大抵は乏しい 脳の活動領域をオーバーしてハムスターのように放心状態になるのだが。
「い、い、いつもと違う、感じ?」
「なんとなくね」
距離を詰めてゴリゴリと質問攻めに遭うかと思いきや、意外にもさらりと話を打ち切る。さらには洗い終わった雑巾を干して帰り支度を始めているではないか。思わせぶりなことを言っておきながらアッサリと肩透かし。これではクルミの喉元にモヤモヤばかりが残ってしまう。クルミは久しぶりに自発的に他人へ言葉を発した。
「ま、待って。何かあたし変わったところあるの?」
「うん。なんかいつもと違う」
「それはさっき聞いた。いつもと——って」
待てよ?
そこまで口にしておかしな心地がした。彼女の言うことが本当だとすれ ば彼女は『いつも』のクルミを知っているということになる。
見知らぬ他人から『いつも見てるよ』と言われればゾクッとする。だが、それ以上にクルミはゾクッとした。クラスを水槽に例えるならばタニシかコケに等しい存在感しかない自分を日ごろから観察しているという、ユウナの奇人っぷりにこそゾクッとしたのだ。
「ちょっと待って、あたしの『いつも』を見てるの?」
「別にジロジロってわけじゃないけど、なんか色々と大変そうだなーって思って、見てる」
「色々と大変……って」
「それでも頑張ってるところも、見てるよ」
クルミは開いた口が塞がらない。こんな得体の知れないヤツがこのクラスにいたとは。ふんわりとしているこのユウナという女の眼に一体どこ まで覗き込まれているのか、分かったものではない。
斜陽差し込む茜がかった教室には二人きり。
女子という生き物はグループに属していないと生きる途はない、というのがクルミの自虐気味の持論であるが、数少ない例外として単独で行動する雌もいる。ユウナがそれである。仮に二人きりとなったのがツグミグループの者だとしたら『ひゃあ』悲鳴を上げて逃げていただろう。
だが、体育祭の一件を見てもユウナは属さない。無駄につるむことはしないし、ツグミに同調することもないし、トイレだって阿呆のレミングスみたいに集団で行くことはない。
だからというわけではないが、彼女に敵意は無いことだけは分かった。あるのは興味だろうか。奇しくもこの時、クルミも珍しく他人に対し て積極的な興味を示していた。もっと話してみたいと思ったのだ。
「あたしが何を頑張っているように見えるの?見たまんまダメダメだよ、あたしなんて」
「閑奈さんって学校嫌いでしょ?」
「…………なんでそう思うの」
「毎日つらそうな顔してるもん」
「…………そりゃ嫌いだよ」
「アハハ」
「はぁ!?なんで笑うの!?さっきから安倉さんが何言ってるのか分からないの!!」
今に至るまでこの学校で、クルミが感情を露わにした口調で喋ったのはこれが初めてである。
突拍子もなく短い言葉で確信を次々に突いてきながらも、相手の質問を誘い翻弄するようなユウナの話術。
もしもこれが計算されたもので、手玉に取ってもてあぶことが目的だとクルミが判断していた ならば、怒りのあまり奇声を上げて逃げ出していただろう。
だが、ユウナにはそうした邪気をまるで感じない。心地良いほど自然体で透明なのだ。同時に、クルミが苛立つのもそれが原因なのだ。
「ごめんね。私はこの学校のことは好きでも嫌いでもないよ。でも、私が学校を嫌いになったら無理してまで行くなんてできないんだろうなって思う。閑奈さんみたいに頑張ること、きっと私にはできない。だから、すごいなって、そう思っちゃうんだよね」
その言葉にいよいよ、カチン、ときた。
『がんばって学校へ通えてえらいわねぇ』と言われた心地がしたからだ。
「———バカにしてるでしょ?」
「してないよ?」
「毎日学校に行くなんて普通だよ!普通のことすらできなくなったらあたしは終わりだよ!そんなん頑張ってるなんて言わないよ!普通の人が笑顔でやってることなんだよ!」
「…………っ……びっくりした…そんな声出すんだ」
「ふんっ、そうだよ。あたしは無口だけど心はカラッポじゃないの。あんま見縊るな」
「いつもそんな感じでいいのに」
「これが通常運転ならキチ〇イなの」
クルミの心のガードは固く、他人に自分を見せることをしない。裸の自分を受け入れてもらえるほどの自信が無いからである。また、後先考えずに発言できるほどの度胸も無い。人付き合いが苦手な上に慎重派なのだから誰も寄ってくることはない。
それがどうだろうか、放課後の教室に響き渡った彼女の大声。決して格好いいものではない。するりするり と心のガードを脱がされた挙句に開き直って自分から全裸になったようなものである。
(陰キャの発狂ほど見苦しいものはないの)というのがクルミの哲学であるが、それを覆してしまったのは、相手がユウナだからと言わざるを得ない。
「閑奈さんの言う『普通』ってなあに?」
「普通は普通、普通のことを指すの。ほかのみんなのそれを普通と呼んでるの」
「人の普通なんて十人いたら十通りあるよ。みんな違うんだよ」
「そういう話をしてるんじゃなくて、せめてアベレージに近付きたいって思うの。成長したいのあたしは」
「どうして?」
「自身の無能さを繰り返し味わい続けるとそうなるの」
「そうなの?」
「誰にでもできる簡単なことすらできない人間もいるってことなの 。もういいでしょ。質問攻めは、さ」
「もっと聞かせてよ。あたし閑奈さんみたいな人、嫌いじゃないんだ」
「ふぅん。でも、あたしはそんな自分がウルトラ嫌いなの!じゃあね。あたし帰るの」
一転して質問する側に回る。それが小賢しい話術の類ではないとクルミは分かっている。彼女は自然体のままで動いているようにしか見えないのだ。だからこそ、言葉をぶつけ合っても不思議と嫌な気持ちが胸中に残らなかったのかもしれない。
少しの沈黙と下校放送がこの日の終わりを告げた。
そして、通学カバンを持ったユウナは黒板の右下からひょいと二枚のマグネットを剥がし、ひらりと舞い、口元で少しイタズラっぽく笑った。
「———最近何か変わったことあった?っていうのはね、それっ」
ユウナの指さしたのは、クルミのカバンに新たにぶら下がったキーホルダー。事情を知らないユウナにとってはポップな人形にしか映らないであろう、可愛らしい羅刹キーホルダー。
「アハハ。本当はね、興味があっていつか話してみたいって思っただけなんだ。じゃあ、またね閑奈さん」
二人の名前が記されたマグネットを教卓の上に並べて置いて、ユウナは教室から去った。去り際に小さくひらひらと手を振って。
こんな醜い姿を晒しても尚も興味が途切れず『またね』と言い放つユウナは何なのだろう?
呆然と立ち尽くし取り残されたクルミは不思議な胸の温かみを感じていた。




