Ep.55 兄と妹
「――わたしには、できない……わたしは、おにぃが――大好きだから」
空色の瞳を潤ませ、大粒の涙を流すエルトは、今にもかき消えそうなか細い声音でそう告げた。
しかしその言葉には、溢れんばかりのエルトの意志が込められており――この場にいる全員の耳に、確かに届いた。
「エルト……」
そして、エルトの想いを正面から受け止めたアルは、大きく息を吸って、吐いた。
目を伏せて、エルトの言葉をゆっくりと噛みしめる。エルトが今までずっと秘めていた想いが、意志が込められた言葉だから。アルは時間をかけ、きちんと受け入れてあげるべきだと、そう思った。
数十秒をかけてエルトの想いを咀嚼したアルは、瞼を持ち上げ、エルトを正面から見据えた。
そこには未だに現実から目を背けるように顔を覆い、それでも自分の真っ直ぐな本心を言葉にした一人の少女がいる。ならば――兄として、やるべきことは一つだった。
「――」
アルはゆっくりとエルトに寄り添い、両の腕でその小さな体を抱きしめた。
小刻みに震えていた体が、ビクンと跳ねた。落ち着かせるように、自分の存在を感じさせるように、ぎゅっと力を籠める。
「……お、にぃ……」
「あぁ、そうだ。エルト、キミの兄だよ」
安心させるように、優しく囁く。
きっと今のエルトは極度の不安に苛まれているのだろう。
エルトにとって、インフェル・ノクターンの意志に反するという行為は、あまりにも重い意味を持つはずだ。それは長い間インフェル・ノクターンの”道具”として生きてきたが故の、洗脳じみた強迫観念もそうだし、何より逆らえば殺されるという根源的恐怖が大きい。
死は誰だって恐ろしい。
アルだってそうだ。前世を含めて五十年以上生きているアルですら、死の恐怖を前にしては体が竦むし呼吸が荒くなる。正常な判断などできるはずもない。
ましてや、エルトはまだ十四――子供だ。
逆らえば殺されるという恐怖は、エルトを縛り付けて離さなかったはず。
そんな死の恐怖を目の前にして、それでもなお、エルトは自分の意志を口にしたのだ。
どれだけの恐怖を押しのけて、その言葉を口にできたのか、アルには推し量ることもできない。
それでも、エルトが最大限の勇気を振り絞ったということだけは分かる。
怖かっただろう。
苦しかっただろう。
それでも恐怖を乗り越えたエルトのことを、アルは素直に凄いと思った。
「(だから、今度は俺の番だ)」
エルトがこれだけ勇気を振り絞って、自分の想いを伝えてくれたのだ。
兄として、一人の男として応えないわけにはいかない。
アルは自分の腕の中にいるエルトの震えが小さくなったのを感じて、少しだけ体を離す。
「ぁ……」
アルの体温が離れたことにより、エルトから未練がましい声が漏れる。
普段ならばめいっぱい抱きしめたいところだが、今はグッと堪える。アルの意志をきちんと伝えるためには、エルトの目を真っ直ぐ見据えながらでないとダメだと思うから。
アルはエルトの両肩に手を置き、微かに潤んだ瞳を見据える。
空色の瞳と血色の瞳が交錯し、二人の気持ちが僅かに繋がる。
「エルト、一緒に帰ろう。また、一緒に過ごそう」
それは一度告げて、拒絶された言葉。
望んだはずの言葉を投げかけられたエルトは、しかし隠せない動揺を覗かせる。空色の瞳を揺らし、アルの言葉を受け取れないと視線を逸らした。
「……信じ、られない。わたしは、おにぃを騙してた。嘘ついてた。殺そうとした。それなのに、また兄妹に戻れるなんて……そんなの、信じられない」
信じたい。
受け入れたい。
けれど、信じられない。
アルの言葉が、想いが、エルトの望んだものであるからこそ、それを容易には受け入れられなかった。それはエルトにとって、夢のような話だから。
アルと別れて、何度も夢想した都合の良い夢。
そんなわけないと、もう戻れるわけがないと、理性では理解できているはずなのに、心がそれを拒む。もう一度会いたいと、もう一度妹と呼んでほしいと。自分勝手で都合の良い幻想を抱いていたエルト。
誰よりもそれを望み、それが無理だと理解していたエルトだからこそ、現実として差し出されたその手を前にして、恐怖してしまった。
それも無理からぬ話である。
絶対に無理だと思っていたものが、手の届く場所に現れたのだ。都合の良い夢だと、身勝手な幻想だと、そう思ってしまうのも仕方がない。
アルはそんなエルトの気持ちをすべて理解したわけではないが、エルトの中に渦巻く不安を振り払うように言葉を続けた。
「分かってる。正直な、ショックじゃなかったと言えば嘘になる。っていうか割と、結構、かなり、ショックだった。ミーシャがいなかったらあのまま寝込んでたかもしれなかったな……」
「なら……」
「でも、そんなの関係ないんだよ」
はっきりと、アルの口から告げられた感想にエルトは僅かに目を伏せた。だが、そんなエルトにきっぱりと「関係ない」と告げるアル。あまりにあっけらかんと言うその様に、エルトは目を見張った。
「本当に大切なのは、俺がどうしたいかだ」
「おにぃが……?」
「あぁ。俺はエルトが大切だ。超可愛いと思ってるし、いつだって可愛がりたい」
「へ……?」
ふんわりと穏やかな笑みを浮かべながらそう告げられたその言葉が、あまりにもこの状況に似つかわしくなくて……エルトは思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。
そんなエルトなどおかまいなしに、アルは続ける。
自分の言いたいことを、想いを、感じたことを、一切隠すことなく。
「ころころした空色の目が好きだ。普段は眠たげに細められてるけど、ふと目が合った時にほんの少し目尻が上がる所作とか超可愛い。小さい手が好きだ。握るとちっちゃくて柔らかくて、ずっと握っていたくなる。たまにちょこんと俺の袖を握る仕草とか愛くるしくて溜まらない」
「ちょ、おにぃ……?」
「白色の髪が好きだ。俺とそっくりで、撫でてるとホントの兄妹みたいに思えて愛おしくなる。たまに自分の髪と俺の髪を見比べて微笑んでるのとかめっちゃ可愛いしな」
「み、見てたの……?」
「もちろん」
次々に繰り出されるアルの言葉に、エルトは動揺していく。
その色白な頬を真っ赤に染める様子すら、アルには愛おしく思えた。
「ちょこんとした仕草とか、一心不乱に食べる様子とか、小動物っぽくて庇護欲が湧いてくるし。たまに構ってほしくて近くに寄ってくるのとか嬉しくてたまらないし」
「……うー……」
「寝てる最中に俺のことを探すみたいに手を彷徨わせて、俺の腕を抱き寄せることもあったな。可愛すぎて昇天するかと思ったぞ」
今までのエピソードを赤裸々に語るアル。
その中にはエルト本人ですら自覚していないものもあり、もはや恥ずかしさで顔から火が出る勢いだった。
「俺はエルトともっと一緒にいたい。もっと頭を撫でたいし、もっと手をつなぎたい。まだまだ甘やかしたりないし、これからも愛で続けたい」
「……」
「そして――もっと、色んなことを知ってほしい。色んなものを見て、色んなことを体験して、色んな感情を抱いてほしい。俺はそんなキミを、隣で見ていたいんだ」
「……おにぃ」
自分のことを”道具”だなんて言わないでほしい。
自分には感情がないなんて諦めないでほしい。
アルは知っている。
知らない食べ物を物珍しく見つめて、いざ食べて美味しかった時に、目を輝かせていたことを。
熱々のお湯に全身浸かった時に、幸せそうに頬を上気させながら満足気な表情を浮かべていたことを。
自分を取り合う人たちを見て、興味なさげに見つめながらも、満更でもないように小さく頬を緩めていたことを。
アルは知っている。
エルト本人ですら知らない、気づいていない感情を。
そしてできることなら、それをもっと感じてほしい。もっと抱いてほしい。
楽しいことばかりではないだろう。きっと苦しいことだってあるし、悩むことだってある。傷つくこともあるかもしれない。
それでも――感情を排して”道具”として生きるよりもずっと幸せだと思うから。
「悩んで、苦しんで、傷ついたっていい。辛いことがあったらいつでも俺に頼ってくれ。一人で苦しむ必要なんてない。そんで辛いことよりもっとずっと楽しもう。楽しんで、和んで、バカやって、喜んで……幸せな日々を送ろう。俺と一緒に、行こう、エルト」
それは、まるであの日のようだった。
アルとエルトが初めて出会ったあの日。
目覚めたエルトに、アルが言葉をかけた、忘れもしない日。
自分が分からないと迷子のように告げるエルトに対し、一から生きよう、今日から自分の妹だと言った、始まりの日。
「――これが、俺の想いだ。エルトに騙されたとか、刃を向けられたとか、全部どうでもいいことなんだよ。俺がエルトを大切に思ってる。俺がエルトとこれからも一緒にいたい。それが答えだ」
ただひたすらに、真っ直ぐ、己の意志を表明する鮮血の瞳。
その瞳にはエルトしか映っていなかった。ただ一人、エルトだけを見つめ、エルトだけに向けられる感情を発露している。
「――」
エルトの視界には、そんなアルの姿がめいっぱいに広がっていた。
言葉を、瞳を、意志を、熱を。
真正面からぶつけられたエルトには、それが嘘だなんて、とても思えなかった。アルの全身全霊をもってエルトに向けられた想いが、紛れもない本心であることなど、疑う余地もなかった。
両肩に置かれた掌が、エルトを見据える瞳が、短い距離を通じて感じる熱が。
アルの想いが本物であると雄弁に訴えかけていた。
「エルトも、そうなんだろう?」
「な、にを……」
急に投げかけられた問いかけに、エルトの肩がビクリと跳ねる。
「もっと、色んなことを知りたいって思ったんだろ? もっとあの場所にいたいと思ったんだろ? もっと……俺と一緒にいたいって、そう思ってくれてるんだろ?」
「――」
「もう一度兄妹として過ごしたいって、やり直したいって、そう思ってくれてるんだろ?」
「――」
「俺のことを――大好きだって、そう思ってくれてるんだろ?」
それは、紛れもないエルトの本心。
見ないふりをして、隠し続けて、抑え込み続けてきたエルトの想い。
やっとの思いで自覚した、インフェル・ノクターンに対する恐怖すら跳ねのけるほどの熱情。空っぽだったエルトの中に生まれてしまった、確かな灯。
「エルトにとって一番大切なことは、エルト自身がどうしたいかだ。エルト、キミは――どうしたいんだ?」
あの時は死の恐怖に苛まれながらも、それでもこの感情を捨て去ることなどできないと、溢れんばかりの激情によって吐露された想いだった。
けれど、今は。
アルの想いをまざまざと聞かされ、思い知らされた今は。
自分の中に生まれた感情を、秘めることも、抑えることも、飾ることもしない。
アルと同じように、真正面からぶつけよう。
「――わた、しは……わたしは、わたしは! もっとおにぃと一緒にいたい! 初めてだった……あんなに美味しいものを食べたのも、暖かいお風呂に入ったのも、誰かと一緒に眠ったのも。あの場所に戻りたい! もっと撫でてほしい! もっと手をつないでほしい! もっと抱きしめてほしい! 初めてだったの! あんなに優しくされて、大切にされて、想ってもらえて……こんなに胸が暖かくなるんだって、初めて知ったの!」
堰を切るように発せられる言葉と共に、エルトの瞳からはボロボロと涙が零れ落ちた。
それでも、エルトは気にせず続けた。涙で視界が滲もうとも、喉が痛んで声が掠れようとも、そんなことは些細なことだとばかりに。ただひたすらに、己の胸のうちを言葉に変えた。
「好き! 好き! 大好き! こんなに胸が暖かくなって、一緒にいるだけで嬉しくなって、もっとずっと傍にいたいって想うのは! 大好きだから! わたしはおにぃが大好きっ……!」
エルトがアルにぶつけたものと同等――否、それ以上の激情をぶつけられ、アルは全身が打ち震えるのを自覚した。
全身を走るその感情の名は、歓喜。やっとエルトの口から聞くことのできたその想いを受けて、アルは――エルトの体を強く抱きしめた。
「――!」
「エルト! あぁ、俺も。俺も、エルトが大好きだ。一緒に帰ろう。一緒にいよう。お前は俺の妹だ……!」
「うん! うん……!」
抱き合う中でお互いの存在を感じると同時、お互いの想いすらも分かち合ったような気がした。
アルはエルトが大好きで。
エルトもアルが大好きで。
言葉以上に、その想いが伝わってくる。
そしてその想いを噛みしめるように、二人は強く、強く抱き合った。
この日、この瞬間。
アルとエルトは、再び兄妹となった。
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嘘です、シテクダサイ。泣いて喜びます。




