Ep.52 狡猾な罠
「――エルト、迎えに来た。一緒に帰ろう」
そう告げたアルは、ゆっくりと右手を差し出した。
他の誰でもない、エルトへと。
同時、アルはその姿を真っ直ぐ見据え、僅かに口元を歪めた。
離れていたのはたった数日のはずなのに、やけに久々のように感じる。
元より小柄な体は、膝を抱えて丸まるように座っているせいか、一層小さく見えた。
艶を取り戻しつつあった白髪は乱雑に傷つき、肌の血色は白色を通り越して蒼白に染まっている。
何よりアルの目を引いたのは、その瞳。
彼女の空色の瞳には底なしの空虚だけが浮かんでおり――それはまるで、初めて出会ったあの日のような、伽藍洞の瞳であった。
「――ッ」
アルの脳裏に、自分に刃を突きつけるエルトの姿がフラッシュバックする。
アルの意志とは無関係に、その伽藍洞の瞳を向けられると体が強張ってしまうのだ。
また拒絶されたら。
また刃を向けられたら。
そんなこと関係ないと決意したとはいえ、心まで律することはできない。
アルの心の奥底にこびりついた記憶が、本人の意志すら押しのけて肉体を支配しようとする。
それでも――アルは伸ばした手を、引っ込めることだけはしなかった。
そして――、
「――、――――、――――――」
アルの姿を、言葉を、その意味を。
たっぷりと時間をかけて咀嚼したエルトは、僅かに瞳を見開いた。その瞳には様々な感情が混ざりあって浮かび上がり、何を言えば良いのか分からなかった。
故に、無意識のうちに絞りだしたような声が漏れる。
「……なんで…………」
嬉しさ。
悲しさ。
切なさ。
虚無感。
罪悪感。
胸中に渦巻く無数の感情をエルトは制御しきれず、その手がかりを求めるかのようにこぼされた疑問。
何故ここに来たのか。
何故ここにいるのか。
その答えを知れれば、エルトは自身の一番大きな感情を決められるのではないか。
そんな他力本願で、自分の感情から目を逸らし、状況を先送りにするかのような問いかけだった。
しかし――アルの口から発せられるのは、エルトの求める答えではなくて、
「侵入してきたんだよ。俺じゃあこの”賢王の館”に正面切って来れないし――」
「そうじゃない!」
アルの言葉を遮るように、エルトの叫びが反響した。
それは初めて聞くエルトの叫び声で――まるで今まで溜め続けたすべてが決壊するように、堰を切るように、エルトの口から激烈に紡がれた。
「なんで来たの!? わたしは貴方を裏切った! ううん、騙してた! 最初からそのつもりで! 貴方を騙して利用することしか考えてなかった!」
「……」
「あの時言ったはず! わたしの言葉は全部嘘だったって、何一つホントのことを言わずに騙してたって! わたしは貴方のことを、利用しやすいお人好しだとしか思ってなかった! バカだって、ずっと心の中で繰り返してた! なのに――!」
「……」
それは、ただの八つ当たりだった。
胸中を暴風のように渦巻く感情たち。それらに振り回され、しっちゃかめっちゃかになり、どうしたらいいか分からなくなってしまったエルトの、ただの八つ当たり。
喜べばいいのか。
一度は完全に断ち切ったはずなのに、それでも駆けつけてくれたと、喜べばいいのか。
怒ればいいのか。
アル一人でこんな危険な場所に忍び込むなど無茶にもほどがあると、怒ればいいのか。
悲しめばいいのか。
こんなところに来てしまったが故に、アルの人生は終わりを告げてしまうと、悲しめばいいのか。
「なんでこんなところまで来たの!? ホントにバカなの!? 侵入? バカじゃないの!? ここがどこだかホントに分かってるの!? 第五魔王、インフェル・ノクターンの館だよ!!」
「……」
「アイツがどれだけ恐ろしいか、ホントに分かってる!? 正気じゃない! 絶対に殺される! 勝ち目なんてあるわけない! 怖くないの!? 怖いでしょ! だって貴方は弱いから!!」
何故こんなところまで来たのか。
エルトはアルの感情が理解できず――自分の感情すらも理解できず、どうすれば良いのか分からない。それを発散するように、ぶつけるように、大声で喚く。
「そう、貴方は弱い! ずっと見てきた! だから分かる! ちっぽけで、いつも倒れて死にかけて、頼りがいなんて全然ない! 吹けば飛ぶような存在、それが貴方!」
「……」
「弱者が! なんのために賢王の館まで来たの!? 死ぬって、分かり切ってるはずなのに!! 自分の命を危険にさらして! 十中八九死ぬと分かってる場所に、なんで! なんで、なんでなんでなんでなんでなんでなんで なんでなんでなんで!!」
あらんばかりの声量でぶつけられる激情を、アルはただ静かに受け止めていた。
反論も何もかもを言葉にせず、ひたすらに黙って聞き続けていた。
精一杯の言葉を吐き出したエルトは、徐々に声量を落としていき、か細い声が漏れるだけになった。
普段は出さない大声を出したからか、はたまた昂る感情を抑えきれなかったからか。エルトは小さな肩を上下させながら、荒い呼吸を繰り返す。アルを見据えていた瞳は伏せられ、その感情を窺うことはできない。
そんなエルトに、耐え切れず声をかけようと口を開くアルだったが――アルの言葉が紡がれる直前に、エルトの微かな声が届く。
「……なんで」
「……」
「なんで、来たの……言ったでしょ……わたしの言ったこと、全部嘘だって……」
微かに漏れ出たエルトの声音は震えていた。
「……記憶喪失っていうのも、嘘」
そこでもう一度、エルトは顔を上げた。
「あの時、貴方は言った……自分に似てるって、生まれ変わったって、一から始めようって……それで、自分の妹として生きようって」
「……あぁ」
エルトはアルと兄妹となったあの日を思い出すように、想起するように呟いた。
その声色は平坦ながらも、ほんのわずかに懐かしむような気配を滲ませていたと思うのは……アルの願望だろうか。
「あの時、貴方は完全な善意でそう言ってくれた……それをわたしは踏みにじったの」
「……エルト」
「だって、嘘だったから。記憶喪失なんかじゃない、ただ自分にとって都合のいいように誤魔化してただけ……だから、あの時の言葉は、全部意味がないの」
アルの瞳と、エルトの瞳が交錯する。
伽藍洞の瞳は、揺れていた。その表情はまるで、罰を受け入れる受刑者のようで……罰を望んでいるようにも見えた。
エルトは今、何を望んでいるのだろうか。
その表情から窺えるように、罵声を浴びせてほしいのか。
赦すと、そう言って肯定してほしいのか。
エルトの本心など、アルには分からない。
だからこそ――アルは、アルの本心に従った。
「エルト、迎えに来た。一緒に帰ろう」
それは、先ほどアルから発せられた言葉と一言一句同じもの。
アルはエルトを連れ戻すためにここまで来たのだ。
ならば、するべきことも、かけるべき言葉も変わらない。
「――」
重ねて告げられた言葉を受けて、エルトはやっと理解した。
アルが何故ここまで来たのか。何のために賢王の館に侵入までして、エルトの下に来たのか。
再び差し出されたアルの掌を見て、エルトは大きく瞳を見開き――、
「…………ダメ」
その手を拒絶するように、顔を伏せた。
「……言ったでしょ、わたしは貴方を裏切った。そんなわたしに、その手を取る資格はない」
「資格なんて――」
「ううん、そうじゃない」
アルの言葉を遮るように、エルトはかぶりを振った。
僅かに上げられた顔。アルから逸らすように投げられた視線。その瞳は大きく揺らいでおり、まるで今のエルトの心を表しているようだった。
「嘘、そんなんじゃない。この気持ちはもっとずっと、自分勝手なもの」
「……自分勝手なもの?」
「うん……わたしは、きっと信じられないの」
そう告げるエルトは自嘲するような笑みを浮かべ、アルの掌をチラリと見やった。そしてすぐに視線を戻すと、今度は自身の小さな手を見る。
「わたしは一度、自分から貴方との繋がりを断ったの。刃を向けて、冷徹な言葉もかけた」
「……」
「それは消えない。きっとこれから先、なにがあろうと。貴方がなんでここまできたのか、それは分かった。でも、なんでわたしにそこまでしてくれるのか……それが、分からない」
「……それは」
アルは自分の気持ちを語ろうと、口を開くが……エルトはそれを拒絶するように被りを振って見せた。
「意味ないよ。だって、自分の命を投げ打って、こんなに危険な場所まで来た貴方を信じられないんだから……いくら言葉を重ねても、きっとわたしの心は動かない」
「……エルト」
「過ちを犯したわたしを、それでも妹だって思ってくれるなんて……もう一度繋がりを持てるなんて、わたしは信じられない。いつかきっと、この時のことを思い出して、貴方はわたしを拒絶する」
「そんなこと……」
「……あるいは、わたしがもう一度貴方を裏切るかもしれない。わたしは弱いから……もう二度と貴方を裏切らないなんて、自分を信じられない」
そこで初めて、アルは理解した。
自身に刃を突きつけるエルトの姿が、かけられた言葉が、アルの心に深く刻まれているのと同じように……エルトもまた、あの日の記憶が心の奥底にこびりついているのだと。
それはきっと、アルにとっては喜ばしいことでもあった。
信じたいけれど信じられない。それはすなわち、エルトにとってもアルとの日々は大切なものであったという証明にもなるから。エルトにとってアルは、都合の良い暗殺対象ではなく、大切な兄であれたということなのだから。
けれど、エルトの心を覆う闇はそう簡単に晴らすことはできない。
相手が大切な存在であればあるほど。
その手を取るのは、怖くなる。
信じた分だけ、裏切られた時の絶望は大きくなるのだから。
ましてや、エルトは一度アルを裏切っているのだ。
いくらアルが赦すと手を差し伸べたところで、エルトの心に巣食う罪悪感が取り払われることはない。信じたいけど信じられない。裏切られる土台は自分で作ってしまったから。そんな自分すら、信じることができない。
エルトの心は、アルの手を取るには、摩耗しすぎていた。
それでも。
それでも、アルは――、
「エルト、キミが俺のことを兄だと思ってくれるなら、もう一度一緒にいたいと思ってくれるなら、俺は――」
「――それに、もう遅いの」
差し伸べた手を、更に近づけるアル。
しかしエルトはそれすらも拒絶するように、瞳を閉じた。
「……言ったでしょ、アイツは恐ろしいの」
「……インフェル・ノクターンのこと、だよな。遅いって何が……」
「アイツは恐ろしいほどに強くて……恐ろしいほどに狡猾」
何度か聞かされていたインフェル・ノクターンの特徴である狡猾さ。
それが突然エルトの口から出される意味が分からず、アルは眉をひそめる。
「(何だ、何か、嫌な予感が……)」
アルの体を言い知れぬ不安が襲い、小さく喉を鳴らす。
――ピシッ。
不意に、石造りの部屋に亀裂が走った。
「何だ!?」
それはアルの足下から生じ、徐々に広がっていく。
明らかに自然現象とは思えない亀裂は音を立てながら走り続け、数秒後には辺り一面に広がっていた。
「(ここは地下室のはずじゃ!? まさか、この下にも……!?)」
亀裂によって無数に分断された地面は床としての機能を失い、土埃を上げながらグラついていく。
このままでは、崩落するのは時間の問題だ。
「エルト!」
まずい、と思い咄嗟にエルトの手を掴むアル。
しかし、焦るアルとは対照的に、エルトの表情は酷く冷徹だった。その表情には一切の焦りも驚きもなく、ただただ深い諦念だけが浮かんでいる。
「無駄だよ。言ったでしょ、もう遅いって」
「だから、遅いってどういう――」
アルの言葉は不意に途切れる。
ガクンと体が傾いたと思えば、次の瞬間には全身を浮遊感が襲った。
見れば、地面は遂に限界を迎えたようで崩落を始めていた。
アルの足下も落下し、足場をなくしたことによって宙に放り投げられる。
地下室がまるまる崩落したことで、辺りは瓦礫と土埃で覆われてしまう。とても目を開けていられる状態ではなく、アルは苦悶の声を漏らしながら瞼を閉じた。
更には途轍もない衝撃音がアルの鼓膜を劈く。
「エルト!!!」
そんな状況でアルは、どうにか掴んだままだったエルトの手を引き寄せる。
身軽な彼女の体は驚くほど簡単に寄せられ、アルはエルトを守るように抱き抱えた。
そして――アルとエルトは、地下室の更に地下に落ちていった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「がはっ! ごほ!」
アルは全身を襲う痛みに耐えながら、激しく咳き込んだ。
辺りを覆う土埃や細かい瓦礫が器官に入り込み、更には僅かに出血もしているようで、アルはまとめて吐き出した。
「痛ぇ……けど、何とか助かったか」
落下している最中に無数の瓦礫にぶつかったことによる痛みと、瓦礫の山に落下したことによる痛みはある。見ればアルの体には無数の切傷や打撲跡のような痣が浮かんでいるものの、奇跡的に頭は打たなかったようで、意識ははっきりとしている。
「……エルトは、いる」
舞い上がる土埃のせいで見えにくいが、アルの腕の中には確かな感触が残っていた。
アルが下敷きになる形で落下したので、衝突による怪我はないはず。
落下中はできるだけ抱き抱えて守ったつもりではあるが、それでも細かい瓦礫がぶつかるのは防げない。
アルはエルトが怪我をしていないか詳しく確認しようとして――その動きを止めた。
「(何だ、この圧迫感……)」
弾けるように、アルは頭を上げて一点を見据えた。
土埃のせいで姿形は窺えないが、微かな影が煙の中に浮かんでいる。
「……」
自然と、アルの額に汗が浮かんだ。
はっきりと感じるわけではない。それでもアルの身を襲う圧迫感は確かにあった。まるで喉元が圧迫されているかのように呼吸がしにくいのが、その証拠だ。
そうしてしばらくその影に視線を向けていると、土埃が晴れる。
「な……」
徐々に現れたその姿は、一言で言えば異形だった。
人の形をしていながら、明らかに人ではない異形の怪物。
その怪物はアルを視界に収めると、スッと目を細め、愉悦に満たされたように口元を歪めて見せた。
「――ようこそ、アルファスト君。私の城”賢王の館”へ」
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