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無才の剣士 ~もう一度キミに好きと言うため、才能を捨てて記憶を選ぶ~  作者: 塚丸水産
プロローグ

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Ep.2 とある剣士の終わり 後編






「――う~ん、疲れたぁ!」


 その小さな体をグゥーッと伸ばしながら、疲弊を隠さない声で言うメア。表情こそいつも通り快活なそれだが、足取りはやや重々しい。


 そんなメアを隣で見ながら、アルは同意するように頷いた。


「そうだな、『白亜の宮殿』……流石は魔帝級のダンジョンだけあって今までとは比べ物にならないほどヤバかったなぁ」

「特にボス! ぷらちなむ……なんちゃら? がびっくりするくらい強かったよねぇ」


 メアは『白亜の宮殿』のボス【プラチナム・オーバー・ロード】の強さを思い出し、辟易するような表情を浮かべる。それにつられてアルも、つい先ほど倒した白金の教皇を想起する。


 50mを越える巨体も面倒ではあったが、何よりアルたちを追い詰めたのは、まともに喰らえば即死は免れないほどの超高出力のレーザー攻撃であろう。アンリの防御結界ですら限界ギリギリであったことを鑑みるに、まともな防御手段はほぼ存在しないと言っていい。

 アルたちだって、アンリがいなければ最悪全滅していた可能性すらあったのだ。


「ホント、感謝だな」

「? どうしたんですか?」

「いや、アンリは頼りになるな~って」

「ふふん! そうなのです! アンリはとっても頼りになるお姉さんなのですよ!」


 アルは改めてアンリの存在のありがたみを感じ、後ろをトテトテ歩いていた彼女の頭上に手を置いた。


「……ですが、無事に『白亜の宮殿』を攻略したことでメア様……ひいてはクローリー軍の評価は確実に上がるでしょう」

「そりゃあ魔帝級ダンジョンだもんな。魔王のメアが攻略したって知ったら『大魔総会(パンデモニウム)』の連中驚くだろうなぁ」

「あはは、ボクだけの力じゃないけどね」


 そう、アルたちはボスである【プラチナム・オーバー・ロード】を倒したことで、無事にダンジョン『白亜の宮殿』を攻略(クリア)したのだ。非常に難易度の高いダンジョンではあったが、その分攻略したことによる恩恵は大きい。


 現在は『白亜の宮殿』を去り、アルたちが一時的に拠点としている場所まで帰っている最中だ。

 陰鬱とした森の中を歩くこと既に二時間。『白亜の宮殿』攻略による疲労もあり、アルたちの足取りはゆったりとしたものだった。距離的にも、このままいけば森の中で野宿することになるだろう。


「(それは嫌だなぁ)」


 とは思いつつ、急いで脚を動かすほどの気力はない。

 アルは辟易とした思いを抱えながら、自然と隣を歩くメアに視線を送る。


「どうしたの? アル?」

「ん、いやぁ。なんていうか……メア、ホントに魔王になったんだなって」

「あはは、まぁ魔王になってまだ日が浅いもんね。ボクもまだ実感は湧かないよ」


 ”魔王”――それは広大な魔界において、非常に大きな意味を持つ肩書。

 それを持っているはずの少女は、しかし物騒な肩書など微塵も感じさせないような笑顔を浮かべていた。


 大前提アルたちは皆、広大な”魔界ランペル”に住まう魔族である。

 約500年前の人魔対戦において勝利を収めた種族であり、現在はこの世界の中心とも言える種族だ。噂でしか知らないが、海を挟んだ向こう側の人界は大戦以降荒廃の一途を辿っており、今では強力なモンスターがのさばるだけでまともに人間は生きていないという。


 そんな魔界を統治しているのが『大魔総会(パンデモニウム)』と呼ばれる組織であり、その『大魔総会(パンデモニウム)』から認可を受け正式に与えられる称号こそが――魔王を筆頭とする、支配者たちの肩書だ。


 実のところ『大魔総会(パンデモニウム)』は広大な魔界を完全に統治はできておらず、その役割のほとんどを魔王たち有権者に頼っている。

 こう言ってはなんだが、今や『大魔総会(パンデモニウム)』は有力な魔族に称号を与えるだけの組織に成り果て、実質的に魔界を統べているのは魔王たちと言っても良い。


 そして数いる魔族たちの頂点に君臨する者に与えられる称号は、魔王だけではない。


 魔公、魔王、魔帝――そして魔神。


 魔王と聞くと魔界の王のような印象を受けるかもしれないが、実際は下から二番目なのだ。

 とはいえ、広大な魔界において現在は30人ほどしか”魔王”の称号を持つ者はいないため、十二分な偉業であるのだが。


 そのうえ、メアはまだ若い。

 まだ50年ほどしか生きていないはずだし、数百年を余裕で生きる長寿の魔族からすれば、まだ小娘も良いところだ。その若さで魔王と呼ばれるに至っている時点で、メアの異常さを物語っている。


「もしかしたら、すぐに魔帝になれるかもな? 『白亜の宮殿』だってクリアしたことだし」

「……そう簡単ではありませんよ、アル」


 魔王になったばかりで気が早いかもしれないが、メアが魔帝になるところを想像して笑うアル。しかしそんなアルに言葉を挟むのは、メアの後ろをぴったりとついて歩くリーシャだ。


 アルたちは皆魔王であるメアの仲間であり部下という立場なのだが、リーシャだけは少し異なる。メアの部下であることは変わらないのだが、彼女はメアに仕えるメイド(・・・)なのだ。

 事実、彼女は現在も戦闘中もクラシカルなメイド服を綺麗に着こなしている。


「魔界広しと言えど、歴史上魔王の名を冠した傑物は少なくありません。三桁は超えるでしょう。しかし……魔帝は別です。長い長い歴史の中で、魔帝の名を冠した者は十を超える程度……二十にも満たないと言われています。魔王と魔帝は別物……魔帝と呼ばれる者たちは傑物を越えた、いわば英傑とも呼べる怪物たちなのです」

「……」


 リーシャの説明に、アルはゴクリと生唾を飲んだ。

 アルは本物の魔帝を見たことはないが、魔帝級ダンジョンのボスであった【プラチナム・オーバー・ロード】……彼奴は良い指針になるだろう。


 そもそもの話、一定以上の強さを持つモンスターや難易度を誇るダンジョンには、魔界の称号になぞらえた危険度が設定されている。魔王に準ずる危険度のモンスターやダンジョンは魔王級と呼ばれ、魔帝に準ずる危険度のモンスターやダンジョンは魔帝級と呼ばれる。


 そしてたった今アルたちが攻略したダンジョン『白亜の宮殿』は魔帝級で、その最奥に君臨するボス【プラチナム・オーバー・ロード】は当然ながら魔帝級だ。


 一言で魔王や魔帝と言っても強さには上下があるし、魔帝級のモンスターが実際の魔帝に勝てるかと問われれば首をかしげるしかない。あくまで指針の域は出ない……しかし。


 少なくとも、現存する魔帝たちが【プラチナム・オーバー・ロード】よりも弱いということはないだろう。アルたち六人の総力をもってどうにか倒した怪物……それに並ぶか上回る強さを単独で有している、怪物を越えた怪物。


 それこそが、魔帝。


「――それでも、ボクは諦めないよ」


 アルが魔帝の強大さに息を呑む横で、凛とした声が響く。

 見れば、普段の可愛らしい表情は面影もなく、凛々しい表情を浮かべたメアがいた。メアは強い決意を思わせる表情のまま、アルとリーシャを、そしてグラニスやアンリ、オーヴィスを見渡す。


「ボクの夢は変わらない――魔神になる。そのためにボクはここにいて、皆に力を貸してもらってるんだ。魔帝くらいで躓いてちゃ、魔神になんて一生なれない」

「メア……」

「リーシャの言うように、魔帝だって簡単になれるようなものじゃない。きっと何百年もかかると思う。でも……ボクは諦めない。例え三百年でも五百年でも。何百年経ったって、きっと魔帝になって、それで――」



「――必ず、魔神になってみせる」



 その赤瞳に万感の意志を込めながら、メアは己の夢をはっきりと語った。

 その瞳に、言葉に、意志には何一つ噓偽りはない。メアの心の中で強く、真っ直ぐ聳え立つ夢。


 他人が聞けば、「何をバカなことを」と一蹴するだろう。

 魔帝の名を冠することができる者でさえ、魔界で一握りの怪物だけだというのに。それを大きく超える、魔神を目指すなど、ビッグマウスにもほどがある。夢見がちな少年少女ですら、もっと現実的な夢を思い描くものだ。


 しかし――アルは信じている。


 メアならばいつか必ず魔帝を越えて、魔神になると。

 そのために自分がいるのだから。


「あぁ、なれるよ、絶対に」

「うん……!」


 メアの言葉を肯定するように、アルはメアの赤瞳を真っ直ぐ見据えて頷いた。


「リーシャはどうだ? これでもまだ、メアは魔帝になれないって言うのか?」


 一転、アルはやや口元を歪ませながら、意地悪い笑みを浮かべてリーシャに問うた。今のメアの宣言を聞いてもまだ言えるのかと。

 しかし、そんなアルの言葉を受けるリーシャは相変わらず澄ました表情のままで、


「何か勘違いしているようですが、私はメア様は魔帝になれないなどとは一言も言っていません」

「へ? だってさっき……」

「私はあくまで、そう簡単には魔帝になれないと言っただけです。むしろ貴方こそ何を言っているのですか? 確認するまでもなく、メア様が魔帝になり、いずれ魔神になるというのは確定事項です。当然です、メア様なのですから」


 アルの疑問など一蹴に伏しながら、さも当然のようにメアを崇めるリーシャ。もはや見慣れた光景ではあるが、リーシャのような冷徹な能面から全肯定の言葉が出てくるのは違和感が凄まじい。しかしリーシャからすれば本当に当然のことなのだろう。


 流石は嫌がるメアの意志すら無理やり突破して、メアのメイドに志願した女だ。その脳内の九割はメアによって埋め尽くされており、優先順位の最も高い位置にメアを置いている。メアが魔神になることを欠片も疑っていない。


「……このメア大好きメイドめ」


 冷徹に、冷静に魔帝になることの難しさを語った人物の言葉とは思えず、アルは苦笑を浮かべながら溢した。











◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆











 パチパチと音を立てながら揺らめく炎。

 辺り一面を覆う冷たい闇の中、暖かな光をもたらすそれを、アルはじっと見つめていた。

 動物たちの鼓動も、小鳥の囀りも、川のせせらぎも、木々の騒めきも、一切感じない。アルを包むのは、無音無窮の闇だった。


「……」


 都合良く転がっていた丸太に腰を下ろしながら、夜の暗闇と炎の暖かさを肌で感じるアル。

 そんなアルに、柔らかな声がかけられた。


「……見張りお疲れ様。隣、座っていい?」

「メア……もちろん」


 僅かに視線を動かせば、そこには穏やかな表情を浮かべるメアの姿が。


 メアはゆったりとした動作でアルの隣に座る。

 その距離は非常に近く、自然と触れ合う肩を通じてお互いの体温を感じるほど。


「今日は大変だったね」

「あぁ、あんなに苦労したのは久々だったな」

「はは、ここ最近はダンジョンに潜ってなかったしね……それに、あんなに強い敵がいるなんて」

「レーザー光線には驚いたな……危うく剣で防ぎかけたし」

「あはは、あれは凄かったね。いつもみたいにアルが剣で斬っちゃうのかと思ったけど……直前で急に飛び退いたんだもん」

「第六感ってやつかな……ヤバいって感じたんだよ。まぁ流石に、避けたレーザーが地面を抉った後を見て冷汗かいたけどな」

「びっくりしたよね〜、まるで谷みたいになってたもん……あれを見てみんな、あのレーザーはヤバいって感じたし。流石は魔帝級だったよね。だから……」


 アルの手に、メアの手が被せられた。

 柔らかくしっとりとした感触がアルを襲う。


「アルがいて良かった」

「いるよ、メアがいるからな」

「はは、何それ」

「メアがいる場所が俺のいる場所ってこと」


 メアの手がアルの手をまさぐるように動かされる。

 手の甲に触れ、指を伝い、掌をくすぐられ、指が絡められる。


「ボクも……」

「うん?」

「アルがいる場所が、ボクのいる場所だから」

「……そっか」


 アルの右腕に軽い衝撃が走る。

 見れば、メアは寄りかかるようにアルに体重を預けていた。


「……さっきはああ言ったけどね、ホントはちょっと不安なんだ」

「魔神になるのがか?」

「うん……諦めることはないよ、絶対に。でも……諦めないからってなれるものじゃないし。たまにね、夢を見るんだ」

「夢?」

「うん。ボクは走ってるんだ。魔神になるために、いつまでも、どこまでも。その周りにはアルがいて、リーシャがいて、皆がいて……不安なんて感じないくらいに心強くて、いつまでも走り続けられるんだ。でも……走り続けた先で、ふと周りを見ると、誰もいなくなってる。気づいたら一人になってて、ボク一人で走ってたんだ」


 コテンと横に倒れたメアの頭が、アルの肩に置かれる。

 そのままメアは、グリグリと頭を擦り付けた。まるでアルの存在を確かめるように。


「……俺はいなくならないよ」

「アル……」

「言ったろ? メアのいる場所が俺のいる場所だって。メアがどれだけ走っても、どれだけ遠くに行っても、俺は必ず傍にいる。絶対だ。それに……」

「それに……?」


 アルはそこで区切ると、メアの肩を軽く掴み引き離す。そしてメアの方に向き直ると、僅かに見開く彼女の瞳を真っ直ぐ見据えた。

 アルの黒瞳と、メアの赤瞳が交錯する。


「俺はキミの隣で、一緒に走り続けるから。わざわざ振り返らなくても、いつだって分かるだろ?」

「はは、そうだね。それは……うん、心強いや」


 僅かに憂いを帯びていたメアの表情に、喜色が浮かぶ。

 離れていた二人の影が、再び重なる。


「……星、綺麗だね」

「……ホントだな、凄く綺麗だ」


 メアの視線を追うようにアルも天を仰ぐ。


 鬱蒼とした森の中で、その空間だけは不思議と木々が生えていなかった。

 昼間は日光を遮っていた自然のカーテンはなく、二人の視界にはどこまでも続く満天の星空が広がっていた。


 この森において、アルとメアだけが眺めることのできる天然の天体観測場。


 見上げるものすべてを呑み込んでしまいそうなほど雄大な闇夜は冷徹な美しさを誇っている。

 しかし、無数に散らばる大小様々な光のおかげか、自然と暖かさも感じられた。

 夜の闇と、星々の光。決してどちらか片方だけでは感じることのできない美しさと暖かさの融和は、お互いの存在の大切さを主張しているようだった。


「――」


 気づけばアルの視線は、夜空から隣にいるメアへと移っていた。

 感動するように見開かれたメアの赤瞳には万天の夜空が反射して映っており、まるで瞳の中に星空を閉じ込めてしまったかのようだった。


「……ホント、綺麗だ」


 さながら、星空を閉じ込め光輝く宝石(ガーネット)。

 アルの言葉は、無意識のうちに自然と紡がれていた。


 幸い掠れるように零れた言葉はメアに届かなかったようで、彼女は屈託のない笑顔をアルに向けて言った。


「……ねぇ」

「うん?」

「また来ようね」

「……あぁ」


 その笑顔は、星空にも負けないくらい美しかった。











◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆











 ――それに気づいたのは、偶然か、はたまた必然か。


 ふと、覚えのある気配を感じたアルは周囲に意識を投げる。

 視覚、嗅覚、聴覚。すべてをもって周囲の気配を探るアルだったが、不思議なことに、その頃には辺りからは一切の気配が霧散していた。


「……気のせいか」

「どうしたの?」

「いや……なんか、知ってる気配を感じたような気がして」

「?」


 不意に視線を上げて周囲を伺う様子のアルに、メアが小首を傾げながら問いかける。

 しかし、何の気配も感じ取れなかったアルは気のせいだと思い直し、不思議そうな表情を浮かべるメアにかぶりを振って告げた。


「(何だろう、今の……知ってるようで、知らないような……)」


 しかしアルの内心は未だ判然とせず、再び闇夜に視線を投げる。

 そこには獣の類すらおらず、鬱蒼とした木々が広がるだけ。


「(……いつだったかな。前にも似たような感覚に陥ったことがある気がする)」


 いくら記憶を辿っても、思い出すことはできない。

 しかし、アルの脳は思い出せずとも体は覚えているのだろうか。胸の内側に、ドロッとして酷く粘着く感触がこびりついて離れない。


「(そう、これは、この感覚は――死)」







































「きゃっ!?」


 次の瞬間、アルが認識したのは自身の鼓膜を震わせるメアの声だった。


「――」


 遅れて、胸元に感じるのは微かな温もり。

 見れば、メアを片手で抱き寄せていた。


 そして――もう片方の手にはアルの剣が握られていた。抜き身の刀身は”ナニカ”を防いでいるようで、バチバチと火花が散っている。


「ぐっ……!?」


 グッと、アルの腕が押される。

 未だ捉えられない”ナニカ”は相当な力を持っているようで、片腕で構えている剣をジリジリと押していた。アルはどうにか力を込めて押し返そうと試みるも上手くはいかず、刀身がアルの眼前まで迫る。


「く――そぉ!!」


 力では勝てない。


 遅れてそれを理解したアルは力の限り剣を斜めに逸らし、瞬間メアを抱えながら大きく飛び退くことで”ナニカ”の一撃を逸らして見せる。

 力のままアルの剣と競り合っていた”ナニカ”はたまらず、土埃をたてながら地面に衝突した。


「アル!?」

「メア、下がってろ……アイツはヤバい」


 アルは抱きかかえていたメアを離すと、両腕で剣を構える。

 一方でメアは何が起きたのか理解できていないようで、混乱した表情のままアルと前方の”ナニカ”の間で視線を彷徨わせていた。


「(何だ、何なんだアイツは……)」


 しかし、今のアルには懇切丁寧にメアに説明している暇はない。

 視線は”ナニカ”から動かすことはできず、次から次に額に汗が浮かぶ。今の一瞬の攻防だけで心臓はバクバクと高鳴り、眼前の存在に対してアルの有するすべての感覚が警鐘を鳴らしている。


 そして、舞い上がる土埃は夜風に吹かれ、その姿を揺らめく炎が照らした。


 それは、一体の獣であった。

 体格自体はそこまで大きいわけではない。せいぜいが全長3mほどで、アルよりは巨大だがモンスターの中では中型よりの小型だろうか。狼のような、虎のような、細身の四足歩行の獣。


 特徴的なのはその相貌で、そのモンスターは一切合切が”漆黒”であった。

 全身を覆う体毛も、地面を抉る鋭い爪も、口から覗かせる巨大な牙も、こちらを見つめる瞳も。あらゆる部位が漆黒に染まっており、すぐ傍の炎がなければ闇夜に溶けて消えてしいそうなほどに黒かった。


 ゴクリと、生唾を呑み込む。


「(【プラチナム・オーバー・ロード】なんて比較にもならない……アレは、正真正銘の化け物だ)」


 逃げろ。

 今すぐに逃げろ。


 アルをアルたらしめる生存本能が、全力で逃げろと告げてくる。

 戦ってはいけない、戦うべき相手ではない。


 アルが生き残る唯一の選択肢は、全力で逃げることだけだ。


「――」


 そこで初めて、アルはメアに視線を向けた。

 メアは未だ戸惑っているようだったが、彼女も魔王と呼ばれるほどの実力者。眼前に佇む漆黒の獣の異質さを感じ取ったようで、微かな震えと共に怯えるような表情を浮かべていた。


「(……逃げる? メアと? ……無理だ。絶対に追い付かれる)」


 恐らく、漆黒の獣の速さはアルの理解を越えている。

 初撃でさえ、アルが防ぐことができたのは奇跡に等しい。直前に違和感を感じ取ったが故に、周囲を警戒していたことが功を奏した。


 しかし――逆に言えば最大限警戒していたアルが、視認することはおろか襲撃を感知することもできなかったのだ。メアを抱き寄せたのも、剣を構えたのも、すべてアルの意識を越えた防衛本能。もう一度やれと言われてもできないだろう。


「(恐ろしく速いのか、あるいは気配を断つことができるのか……いずれにせよ、アイツ相手に背を向けるのは愚策だ)」


 すると、今の攻防を聞きつけたのだろう。

 背後のテントで休んでいたはずのリーシャたちが姿を現した。


「メア様! アル! 今の衝撃音は!? 何があったのですか!?」

「お二人とも、無事なのですか!?」


 リーシャとアンリは二人の傍に駆け寄りながら心配を露わにし、


「何だ、アイツは……」

「ありゃ……ちと、ヤバいかのぅ……」


 瞬時に敵の存在に気づいたグラニスとオーヴィスは、その別格な存在感に冷や汗を流した。


「――――――メア、皆。よく聞いてくれ。…………俺がアイツの相手をする。だからその間に、できるだけ遠くに逃げてくれ」


 瞬間、その場に沈黙が落ちる。


 静かに紡がれたアルの言葉は全員の耳に届いたはずではあるが……全員が、理解するのを拒んでいた。そして長い長い時間を――実際には数秒ほどであっただろうが、少なくともそう感じるほどの時間的感覚を経て、全員が言葉の意味を飲み込んだ。


 ――何故、とは誰も問わなかった。


 そんなこと、眼前でこちらを睨めつける漆黒の獣を見れば一目瞭然だったからだ。

 今、この場にいるのは”魔王”メア・クローリーとその配下たち。魔界でも有数の実力者たちで……故に、獣の強大さを正確に感じ取っていた。


 全員で立ち向かっても、勝算は皆無。

 かといって、アル以外にあの化け物の相手をできる誰かがいるかと言えば……それも皆無。


 この場で最も強く、最も獣とやり合える可能性のあるアルが殿を務めるというのは、誰がどう見ても合理的な答えであった。


 皆、頭では理解している。

 理解している……が、


「ダメ……ダメだよ! アル!!」


 納得など、できるわけもなかった。


「一緒に逃げよう! それが無理なら一緒に戦う! 大丈夫、皆で立ち向かえば、きっと勝てるよ!!」


 メアは大声を張り上げながら、アルに縋りついた。

 その表情は恐怖で彩られており、ただでさえ白いメアの肌は蒼白に染まっていた。


「ボクだって昔と比べたら強くなったんだよ! もう足を引っ張ることはしない! アルと一緒に戦えるよ!」

「……ダメだ」

「なんで!? 確かにアルからしたら、まだ頼りないのかもしれない! でも! ボクは魔王で! アルの恋人だもん!! アル一人に任せて逃げるなんて、そんなの絶対にできない! したくないよ!!」

「……それでも、ダメだ」

「!! なんで、そんなこと言うの……! ヤだ……ヤだよ! アルを一人で行かせるなんて……あの時みたいに、もう失いたくないの!!!」


 きっと今のメアは、眼前の獣に対する恐怖と、それ以上にアルを失うかもしれないという恐怖に苛まれているに違いない。その恐怖を吹き飛ばすように、あるいは目を逸らすように、必死に叫んだ。


「……メア」

「アル! 言ったじゃん……! ずっと一緒だって! なのに……なのに一人で行っちゃうなんて、そんなのってないよ!!!」

「……メア」

「隣にいてよ! 一緒に戦おうって言ってよ! たとえ勝てなくても、たとえ絶望的でも、それでも最後まで一緒にいようって、そう言ってよ!!!」

「……ごめん、俺は……」

「お願い! お願いだから――こっちを向いてよぉ!!」


 絶対にアルを行かせないとばかりに、アルの腕を抱きかかえるメア。

 遂には涙さえ流したようで、流れ落ちた雫がアルの腕に滴った。


 そんなメアを、アルは視界に捉えることはできなかった。


「(あぁ、クソ……これが最後になるんなら、ちゃんとメアの顔を見たかったのにな)」


 しかし、それは叶わない。

 アルの眼前には、今にもアルたちに飛び掛かってきそうな獰猛な暴獣がいる。いつ襲ってくるか分からない獣から、視線を逸らすことができないのは常識だ。アルが視線をメアに向けた途端、獣は即座に襲い掛かってくるだろう。


 未だにこちらの様子を伺っているのは、この場で唯一己の脅威になりうるアルが、最大限の警戒を向けているからだ。

 故に、アルは獣から視線を逸らすことはできなかった。


「(ホントはもう一度、好きだって言いたかったんだけどな……こんな状態じゃ無理か。どうせなら面と向かって言いたいし、それに……好きだなんて言ったら、なおさらメアの顔を見たくなっちまう)」


 アルは最後にもう一度愛する少女の姿を拝みたいという願いをグッと堪える。


「行っちゃダメ! 行っちゃヤダ! アル!!!」

「メア」

「ボクの前からいなくならないで! もう、ボクを一人にしないでよ!」

「メア、聞いてくれ」


 横合いに投げかけられる言葉は、どうにもアルの覚悟を鈍らせる。

 メアが本気で言葉を絞りつくしているからこそ、アルの気持ちを揺らいでしまう。


 だからこそ、アルはメアの言葉を遮り、静かに告げた。


「メア、俺の意志は変わらないよ。俺はずっと、キミの傍にいる……これからも、ずっとだ」

「――アル」

「リーシャ、頼む」

「ぇ、アル――」


 紡がれた言葉は途切れ、メアの体がぐらりと揺らいだ。

 その小さな体を抱きかかえたのは、メアを誰よりも敬愛するメイド、リーシャ・セーロス。彼女は割れ物を扱うように丁寧な所作でメアを抱き寄せると、その冷徹な表情を歪ませた。


「……恨みますよ、アル。私にメア様に危害を加えさせるなんて」

「悪かったよ、リーシャ。でもお前にしか頼めないことだ。お前は世界の誰よりもメアを第一に考えてる。あ、俺の次にか」

「いいえ、貴方よりも、私の方がメア様を一番に考えています」

「……まぁ、そんなお前だからこそ、この場で誰よりも冷静に決断できるだろ。俺を殿にして逃げる……それがこの状況で唯一、メアを生き延びさせる方法だ」

「……」

「お前なら、その方法を迷わず選べる」

「……」


 リーシャが今、どのような表情を浮かべているのか、それはアルには分からない。

 いつも通り冷徹な表情を浮かべているのか、言葉通り怒りの感情を見せているのか。もしかしたら、悲しみの表情を浮かべてくれているのかもしれない。


 けれど、アルには確信があった。

 例えどんな表情を浮かべていようと、リーシャならば、誰よりも何よりもメアを優先するリーシャならば、アルの意志を尊重してくれると。


「…………本当に、バカ。私だって……」

「……悪いな。恨んでくれ」

「……えぇ、恨みます。恨みますよアル。この恨みは、直接恨みごとの一つや二つぶつけなければ晴れません。……必ず、生きて帰ってきてくださいね」

「……あぁ、健闘するよ」


 その言葉を最後に、リーシャの気配が遠ざかるのを感じた。


「さて……アンリ」

「アルくん!」


 柄ではないかもしれないが、これでお別れになるかもしれないのだ。アルはせめてこの場にいる仲間たちにくらいはお別れの挨拶を告げようと、最初にアンリに声をかけるが……返ってきたのは、普段通り快活なアンリの声だった。


「意外だな、正直もっと泣き喚いてると思ってた」

「……泣き喚きなんてしないのですよ! アンリは、アンリは……子供じゃないんですから……!」


 訂正。声色自体は快活なものだったが、言葉の節々が震えており、時折鼻を啜るような音が聞こえてくる。きっと必死に涙を堪えているのだろう。普段は子供の様に可愛らしいアンリだが、ああ見えて聡明な娘だ。


 アルの意思を尊重するために、アルを困らせまいと、今にでも泣き叫びたい思いをグッと堪えているに違いない。


 事実、アンリはその玉のような瞳を盛大に潤ませ、大粒の涙を溜めていた。

 それでも流すまいと、寸前のところで抑えていた。


「もっと、たくさんナデナデしてやりたかったんだが……ごめんな」

「何で、アルくんが謝るのですか……! アンリだって、もっと、ずっと……う、うぁ、あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」


 限界だったのだろう。

 アンリはそれまで抑えていた感情が堰を切ったように溢れ出し、悲しみの限り泣き叫んだ。


「嫌、嫌なのです!! もっと撫でてほしいのですよ! これからもずっと! アルくんがいないとアンリは、アンリは……!!!」

「ありがとう、ごめんな」

「う、うぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――」


 静謐な夜の空間に響いた、酷く切ない絶叫。

 それは、唐突に途切れた。


「……グラニスか」

「あぁ……これ以上は、見ていられなかったのでな」

「……ありがとな」


 恐らくメアの時と同じように、無理やり気絶させたのだろう。

 オーヴィスはアンリに手を出すようなことは死んでもしないので、グラニスだろうと当たりをつけて問えば、静かな肯定が返ってきた。


「……本気か。本気でソイツの相手をするつもりか? たった一人で」

「それ以外に方法はないだろ?」

「……俺はついぞ、お前の隣に立つことはできなかったな」


 メアやアンリとは違い、至って冷静に告げられたグラニスの言葉。しかしその声色には、深い後悔がにじみ出ていた。

 

「……俺がもっと強ければ……いや、今言っても詮無いことか。アル……分かっているな?」

「何をだ」

「俺はまだ、一度もお前に勝てていないのだ。俺がお前を越す前に死んでもらっては困る」

「……はは、勝手だな」


 不器用ながら、それは確かな、グラニスなりの激励なのだろう。

 勝てと、死ぬなと。

 身勝手極まりない言い分だし、随分と無茶を言ってくれるが……冷えかけていたアルの心に、微かな火が灯るのを感じた。


「お前こそ……鍛錬、サボんなよ」

「フッ、お前に言われたくはないな」


 それ以上、グラニスに告げる言葉も、グラニスから告げられる言葉もなかった。


「最後に爺……は、まぁいいか」

「相変わらず小生意気な小僧じゃな!」


 アルはオーヴィスに声をかけるも、冷静に考えると彼に最後に言いたいことなど特になかったため割愛する。が、案の定背後から気勢のいい言葉が投げかけられた。


「だって俺とアンタの間にしみったれた挨拶なんていらんだろ」

「お前さぁ、最後くらいまともに会話できんのかのぅ?」

「じゃあ逆に聞くけどアンタ、俺に言いたいことあんの?」

「ない」

「だろ?」


 分かり切った問いに返されたのは、分かり切った返答。

 想像通りすぎるオーヴィスの態度に、アルは微かに笑みを浮かべた。


「結局どこまで行っても小生意気な小僧だったのぅ」

「アンタとは色々合わなかったからな」

「……ふん、クソガキはクソガキらしく、最後までクソガキを貫かんかい」

「どういう意味だよ」


 オーヴィスの言っている意味が分からず、しかし馬鹿にされているのだろうとあたりをつけて口を曲げながら問うた。


「……爺より先に死ぬガキがおるか」

「……」


 アルは一瞬、オーヴィスが何を言っているのか理解できなかった。

 しかしそれが……偏屈な爺が覗かせた微かな優しさだと気づき、自然と口元を緩めた。


「多くは言わん。じゃから……死ぬなよ」

「あぁ。よぼよぼの爺さんより先に死ぬわけにはいかないな」

「儂はまだ現役じゃわい!」


 最後に告げたアルの軽口に、オーヴィスは声を張り上げて返した。

 その声が僅かに震えていたことには、アルは気づかないふりをした。


「……さて」


 オーヴィスを最後に、背後に感じる気配がなくなったのを感じ取ったアルは改めて漆黒の獣に切っ先を向ける。


「待っててくれるなんて随分とお行儀がいいんだな」

「グルウウウウウウウウウウウウ」

「って聞いてないな。暴走でもしてんのか? にしてはホント、よく待っててくれたよ」


 漆黒の獣は今にも発狂しそうなほどに瞳を歪ませ、全身から殺気を漲らせた。その牙はカチカチと震えと共に鳴り続け、口元から大量の唾液が滴り落ちていた。


「――生きて帰るって約束しちまったもんでな。ここで死ぬわけにはいかないんだ」

「グルウウウウウウウウウウウウウウウウアアアアアアアアアアアア!!!!」

「行くぞ――!!!」


 満天の星空の下、二つの漆黒が駆けた。











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嘘です、シテクダサイ。






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