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今でもはっきりと覚えている。その年から数えて三年前であった。計算すると……一八八五年か。
冬だった。視界を覆うほどに雪が激しく降っていた。温度計は二℃の値を出していた……と覚えているのは、ロンドンで最低気温を記録した日だったからだ。
そんな日に、私はろくに防寒もせず、空腹で道を歩いていた。あの頃のことは、あまり思い出したくない。ずっと働いていた職場をクビになり、着の身着のままで冬のロンドンに放り出されたのだ。ズボンのポケットに突っ込んでいた僅かな金は、食事を取ると数日で底をついた。市内に知り合いもいない私は行く当てもなく、せめて雨風の凌げる場所はないかと歩き回った。
スラム街の奥にまで入り込み、一本の路地裏を何となく覗きこんだときだった。何かが煌めいた。その鋭く強い光は 私の目を一直線に刺し、私は小さな悲鳴を漏らしてしまった。
「誰か、いるのか」
男の声がした。降り積もった雪の上を歩いてくる音がした。その場から動くことができずにいた私は、近づいてくる男とその後ろに広がる惨状を、代わる代わる見ることしかできなかった。
一人の女が倒れていた。一目で娼婦だと知れたのは、冬にもかかわらず過度な露出をしているのが遠目でも分かったからだ。
地面に仰向けに倒れている女の腹はぱっくり裂けていた。医者が帝王切開をするときのように、臍から乳の下まで一直線に切り込みが入っていたのだ。その隙間から、何かぬめっとした白いものが見え隠れしていた。女の周辺の積もる雪は、見事なまでに真っ赤に染まっていた。赤と白の色彩が、私の網膜に強く焼き付いた。
私は男を見た。男の手には鋭利なナイフが握られていて、先程の発光源がこれであったことを私は知った。ナイフの切っ先が雪に反射し、それが私の目を貫いたのだ。
この男は殺人犯であり、あの女はつい先ほどに殺された。男が現場を立ち去ろうとしていたまさにそのとき、私が声を上げてしまった。
まるで小説の一場面を見ているかのように、ひどく客観的に私は状況を把握することができた。
男は私の前に立った。一言も発さなかった。ただ私の顔を眺めていた。私もまた、男の視線を真正面から受け止めた。
男の瞳は、白い世界の中で青く輝いていた。
しんしんと降る雪が、私と男の体を覆っていった。しばらく続いた静寂を破ったのは、私の方であった。
「貴方のところに、余っている部屋はありませんか」
「……は?」
驚いた顔を隠そうともしない男に、私は言いつのった。
「部屋を、探しているんです。どこにも行くところがなくて。仕事もクビになったばかりで。もし貴方のところに空いている部屋があったら、貸してほしいんです。もちろん、相応の代金は払います。今は払えなくても、今後絶対に払うので、だから」
部屋を貸してください、という私の懇願は、私自身の腹の音によってかき消された。
一瞬の間があった。
私の腹に視線を落とし、男は爆発的に笑い出した。
「ああ、ああ、ああ、もう、君という男は最高だな!」
ひどく陽気な笑い声であった。雪が周辺の音を吸い込んでいることもあって、その声は驚くほど響き渡り、私を困惑させた。
すぐ後ろでは娼婦が死んでいるというのに、男はまるでそこが馴染みばかりのパーティー会場かのように屈託なく笑い、大声で話した。
「正直、迷ったんだよ! こんな場面を見られたら、殺すしかないってね。だけど、僕は男は殺さないと決めている。一種のポリシーみたいなもんだ。それを破ってでも殺すべきか、と一瞬思ったが……まさか君が殺人犯に部屋の交渉をするような、最高にイカれている奴だなんて思わなかった! 反射的に殺さなくて、本当に良かったよ! もし君を殺していたら、僕は最良の友人を一人失ったことになるからね」
男は満面の笑みで、私の肩を抱いた。その手にはナイフの代わりに、一枚の紙幣が握られていた。
「さあ、友よ。ご飯に行かないか? ああ、安心していい。僕の奢りだ。君と僕がここで出会ったお祝いに、早めの晩餐でも取ろうじゃあないか。その後は、君の新居に案内しよう。運よく、僕が経営する店兼自宅の二階が空き室でね。そこが新しい君の城だ。好きに使っていい。本当に好きなように、だ。その部屋はもう完全に君のものなんだから!」
あっけないほど簡単に、私は新しい家を見つけることができた。
それから晩餐を終えるまで、腹を裂かれた娼婦のことを二人とも口に出そうとはしなかった。私も気に留めなかった。




