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パブを出ると、二人の男に話しかけられた。一瞬足が竦んだが、ダニエルが愛想よく対応しはじめた。
どうやら彼の昔からの友人らしい。
短髪で体ががっしりしている方がジェイコブ、眼鏡をかけていて落ち着いた印象を与える方がフレディだと、自然と耳に届いてきた会話の断片から分かった。
最初に軽く挨拶を済ませた後は、私はダニエルの後ろでぼんやりと突っ立っているだけだった。彼らの会話に加わる気など毛頭なく、かといってさっさと一人で帰ることもできずにいたのだ。
優柔不断も私の悪癖の一つだ。
私は談笑する三人から視線を外し、スラム街へと続く路地裏を眺めた。細く曲がりくねり、そこここに吐瀉物や塵が散乱した道は、密度の高い暗闇に覆われていた。恐ろしいほど静まり返っている。皆、怯えているのか。娼婦を切り刻み、誰にも目撃されることなくその場を去り、今でも悠々と獲物を見定めているかもしれない殺人鬼に。
レザー・エプロン。
これほどまでに一粒一粒の粒子が濃く絡みついている暗闇では、わずか数センチの距離にその男がいても、喉を掻き切られるその瞬間までそれと気づかないだろう。娼婦の悲鳴は闇に呑みこまれ、目撃者は青白く光る月のみだ。
私は闇にきらめく刃物を想像する。前方から不意に伸びてきた腕が、自身の腰をがっしりと掴む。慌てて逃げようとしても、そのときには鋭い刃物は肉を裂き、骨を断っている。せめて己を殺した男の顔を目に焼き付けようとしても、闇が男の全身を黒く塗りつぶしているから、何も見えない……。
「ノア君、何をぼーっとしているんだい」
大きな手が肩に置かれた。ダニエルだった。彼の周りに、あのジェイコブとフレディの姿はなかった。私が気づかない内に、会話を終えて別れたのか。
私は少しほっとしている自分に気づいた。
ダニエルは不思議そうに、私の目の前に続く路地裏を見た。
「えらく真剣に見ていたが、この道の先に何かあるのかい?」
「いや……ちょっと、レザー・エプロンのことを考えていたんだ……ほら、今をときめく大スターの彼だよ」
「……ああ、なるほどね」
路地裏からは視線を外さずに、ダニエルは左手を耳の後ろにやった。何かを考えるときの彼の癖だ。汚れ一つない白手袋が、闇の中に映えていた。しばらくそのままでいたかと思うと、「よし」と呟き、私の方を見た。
「ノア君。悪いが、先に帰っていてくれ。一仕事していく」
私はダニエルを見つめ返した。私のその行動には反対の意が込められていたのだが、夏の青空を詰め込んだような彼の瞳には、一点の曇りも見当たらなかった。私の額にじわりと汗が浮かんだ。
「……今日は止めておいたほうがいいんじゃないか」
「何故?」
「何故って……」
「僕らが容疑者候補に挙がったと、親父さんが言いにきたから?」
図星だった。押し黙った私とは対照的に、ダニエルはからからと笑った。
「大丈夫だよ。親父さんも言っていただろう? 候補に挙がる可能性があるってだけだ。それに他の容疑者が二百人もいる。有象無象の中からたった一人の真犯人に辿りつくなんて、砂丘で特定の蟻を見つけ出すみたいなもんだよ。心配ない」
彼の楽観的な態度に、苛立ちを全く感じなかったといえば嘘になる。
レザー・エプロンの名前が人々を騒ぎ立てて、数か月経っていた。その数か月で、英国中の人間の中から容疑者がたった二百人に絞りこまれた。その二百人の中から、ダニエル・テイラーに警察の目が留まる可能性がゼロだとどうして言い切れる。心配ない、などと笑って言える状況ではない。
しかし、私が彼のやることに何も言えないのは私自身が一番よく分かっていた。そもそも、私は知っていたのだ。彼がたった一人で行っていることを、何もかも。
私が彼と出会ったのは、彼が人を殺している、まさにその瞬間だったのだから。




