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「裸の男? なんだい、それは。貴族の立派なご子息が真っ裸で君を迎えたとでもいうのかい。それとも、本当に夫人が不倫しているのか。いや、待て。そもそも、その男を君が見ても良かったのか」

「何の話をしているんだ。本当の人間じゃない。私が夫人の家で見たのは、蝋人形だ」

「……蝋人形? それならそうといってくれよ。びっくりしただろ。君は言葉が足りなさすぎるんだ。悪いことだとは思わないが、周りが誤解をする」


 私はグラスに口をつけ、ほんの少し酒を口に含んだ。アルコールの臭気が鼻から抜けていく。元々、酒はそんなに得意ではない。


「応接間に飾られていたんだ。グロブナー氏が買い求めたものらしい。聞いた限りでは新人の職人が作ったということだ」

「なるほどね。それを見て、君はあんなにも心を置き去りにしていたというわけだ。そんなに美しかったのかい?」


 難しい問いだった。私は宙に視線を投げかけ、言葉を探した。


「美しかった……けど、ただ美しいわけじゃない。何というか、自分でもよく分からないが……私はあの人形を見て、深い共感を覚えた……共感だ、と思う。恐らく。蝋人形が、自分と同じ生き物のように思われたんだ」


 いくら人間に似せて作られているからといって、蝋人形は本物の人間ではない。当たり前だ。その美しい肌を剥いだら、現れるのは臓器ではなく空洞なのだ。何も抱え込まない、何も持っていない、だからこそ逆説的に何でも抱え込んでいる暗闇。

 その暗闇に蝋人形は、喜びや絶望や悲哀などの全ての感情を捨てた。チリ紙のように使い捨てられた感情は底の知れない洞に呑み込まれ、やがては完全に消え去ったのだろう。

 だからこそ、蝋人形は涼しい顔で立ち続けることができるのだ。何もかも捨て去ったその先にあるのは、晴天の青空のような虚無だ。

 残るのは、ただただ美しい「皮」だけなのだ。


 そこまで考えたとき、私は思ったのだった。ならば、私と同じだ。私の体の中心には、虚ろな穴がある。その穴に満ちた暗闇の中を、私は彷徨いつづけている。自分が何を探し求めているのかすら分からず、家への帰り道を失くした幼子のように震えている。


 ノアという「皮」を被り、周りの人々をやり過ごしながら。


 ……ああ、私は何を書いているのだ。こんな馬鹿げたことを、本気で思っているのか。思っているとしたら狂人だ。狂っている。

 狂う? 当たり前ではないか。虚偽と欺瞞に満ちたこの世にあって、狂わずにいれる者など一体何人いることか。


 私のたどたどしい説明に、ダニエルは眉を片方上げた。グラスを驚異的な速さで空にしながらも、「君の言っていることは、抽象的すぎて完全に理解することは難しいが……」と続けた。

「君がその人形を見て、美しいと思ったのなら、本当に美しいのだろう」


 あの小柄な少年――オリヴァーといったか――に二杯目を頼むと、流れるように新しいグラスが運ばれてきた。

 マックスの言葉通りなら一日中働いているにも関わらず、その集中力と機敏な動きに疲れは見えない。「助かっている」という言葉も少年を持ち上げるための甘言ではなく、本当にそう思っているのだろう。

 スーツの上着を脱ぎ、本格的に飲み始めたダニエルに私は言った。夫人の家であの天使のような少年を見たときから、ずっと思っていたことだった。


「蝋人形に宝石を縫いつけたら、美しいと思わないか」


 ノアの箱舟の内部を照らし続けたという伝説が残っているガーネット。火にくべると、光りながら弾け飛ぶ様がまるで流星のようなフルオライト。澄み切った水の色を宿すアクアマリン。柔らかな薄紅色が可憐なローズ・クォーツ。


 あの少年の肌に咲かせた宝石は、どんな命を宿すのだろうか。


「宝石?」


 呟いたダニエルは、私の手を取って自身の腰の下部へと誘導した。布の上からでも、腰椎のすぐ下の辺りに微かな出っ張りのようなものがあるのが分かる。ダニエルはそこに私の指を押しつけた。硬い。目には見えずとも、感触だけで何の石か分かるほど、私の指は宝石に対して敏感になっている。


 一粒のダイヤモンド。私が人の体に縫いつけた、初めての宝石。


「僕の体に縫いつけたように、かい?」


 濡れた唇を私の耳に押し当てるようにして、少しの酔いと笑みを含んだ言葉をダニエルは囁いた。私は掴まれていた手を振り払い、非難の意を込めて彼を見上げた。


 ダニエルは声を上げて笑い、水を一杯呷った。


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