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スラム街からほど近いパブは、ダニエルと同居するようになってからよく行くところだった。
馬車馬が垂れ流す糞尿より、浮浪児の死体の匂いの方が目立つ地区に店はある。
薄闇に紛れている人物が猟奇殺人鬼かもしれない状況の中で客足は僅かに減ったものの、仕事を終えた労働者で狭い店内は賑わっていた。
「ダニエル。ノア。よく来たな」
空いている席を顎でしゃくって、店長のマックスは人好きのする笑顔を浮かべた。
「ビールを頼むよ」
ダニエルが言うと、程なくして小柄な少年が厨房から現れた。
見慣れない子供だった。十代前半くらいか。二つのグラスを両手でしっかりと握りしめて客の間を縫ってくる姿はどこか頼りなくて庇護心をそそられるが、恐らく見た目よりは年長だ。酔っ払い客を無理に刺激しないように、通るタイミングを窺うなど、子供が意識してやることではない。
服で覆われていない部分は例外なく傷だらけだった。マックスに息子はいない。スラム街の孤児か。
「見慣れない顔だな。ここで働き始めて、どれくらいだい?」
私たちが寛ぐテーブルに慎重にグラスを置く子供に、ダニエルが話しかけた。子供の瞳にちらりと警戒心が走った。にこにこと微笑んでいるダニエルの顔に視線を注ぎ、ようやく口を開く。
「……今日でちょうど一か月だ」
「雇ってもらったのか」
「そうだ」
「オリヴァーっていうんだ」
話が聞こえていたのだろう、マックスが輪に加わった。額に大粒の汗を浮かべている。自分の腹の位置にある少年の頭を、乱暴に撫でた。
「この前まで、スラムで暮らしてた。人手が足りなくなってきたもんでね。働いてくれる奴を探していたら、こいつが頼み込んできた。家も親御さんも持ってないっていうから、そんならうちで住み込みで働きなって提案したんだ。ほら、この店の上が一部屋空いてるだろ。そこで過ごしてるんだ。その代わり、一日中働いてもらってる。助かってるよ」
やはり体中の傷はスラムで受けたものなのだろう。この世の底が煮詰まったスラムは、完全なる弱肉強食だ。腕っぷしが強い奴か狡賢い奴だけが生き残る。この少年の喧嘩が強いとは思えない。
マックスが話している間、少年はじっと床を見つめていたが
「おい、ガキ。こっちにビール追加だ」
客の怒鳴り声に反応し、するりと離れていった。マックスも「じゃあ、ゆっくりしていけよ」と片手を振って、忙しない仕事に戻っていく。
店内の喧騒はますます酷くなり、人々の熱気とアルコールが一種の質量となって空間を包み込んでいた。もうそろそろ涼やかな風が肌を撫でる季節だというのに、店内は呼吸するだけで汗ばむほどだ。酔っ払い共が大声で騒ぎ立てていた。
溺れそうになるほどの大音量、盛況ぶりであった。
「で、夫人の家には何があったんだい? 金銀財宝か、間男か、それとも大いなる遺産か」
「ディケンズか」
「好きだろ、君」
ダニエルは酒を呷った。黄金色の液体が彼の喉へと流れた。喉仏が上下する様を私はぼんやりと眺めていた。
脳裏に、あの蝋人形が思い出された。豪奢な応接間で、あの蝋人形は今にも動き出しそうだった。陶器のような肌、蜘蛛の巣のように皮膚の下を走る血管、柔らかな毛髪……。
悩ましい唇は、淡く色づいていた。
「裸の男だ」
ぽつりと漏れ出た私の言葉に、ダニエルはびっくりしたような顔を向けた。




