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 私はダニエルを見た。ダニエルの碧眼には、何の感情の変化も見て取れなかった。


「娼婦殺しって、レザー・エプロンのことか? マンチェスター・ガーディアン紙が大々的に報じていたけれど」

「そうだ。別に俺から詳しく話さなくとも、大体のことは知ってるだろう。今や、レザー・エプロンの名前を聞いたことないなんて奴は英国中探してもどこにもいないからな。娼婦殺しに、ガキから大人まで皆が夢中だ。次は自分か、と震えている娼婦もいれば、煽りに煽って発行部数を稼ぐ記者もいる」


 レザー・エプロン。世間の出来事に疎い私でも、あれだけ持て囃されれば嫌でも耳に届いていた。一連の事件について報じて注目を集めたマンチェスター・ガーディアン紙を、ダニエルが買ってきたことも記憶に新しい。


 簡単に言えば、ロンドンのイーストエンドのスラムに住み、客を取っていた娼婦たちを狙った連続殺人だ。ロンドン警視庁が発表した被害者として名前が挙がっているのは三人。エマ・エリザベス・スミス。マーサ・タブラム。そしてメアリー・アン・ニコルズ。

 スミスは、膣に鈍器を挿入され腹膜が破裂。翌日、腹膜炎によりロンドンの病院で死亡。タブラムは、ホワイトチャペルのジョージ・ヤードの階段の踊り場で、死体となって転がっていた。体に三九もの刺し傷があったといわれている。ここまででも凄惨な事件だが、三人目のニコルズは最も残虐な方法で殺されていた。喉は二つの深い切り傷で切断され、膣には二回の刺し傷が見られ、腸がはみ出していたという。

 我々はこの事件が、「レザー・エプロン」と知られている悪名高き人物の手によるものであると告発する。


 ……と、マンチェスター紙は締めくくっていた。


 「レザー・エプロン」などという名前がどこから来たものかは分からない。……大方、発行部数を稼ぐために記者がでっちあげたのだろう。しかし、それに言及しないほどに英国中がこの事件に浮足立っていた。


 特に夢中になっていたのは、娼婦たちでも子供たちでも記者でもなく、上流階級に属す人々だ。


 仕事柄、貴族と交流することは多い。一生遊んでもなお余りある金を浪費し、社交やらパーティーやらに精を出す当主の妻や子息たちにとって、娼婦をターゲットにした連続殺人はもはや娯楽の一部であった。同じ立場の者同士が集まれば、その話題が出ないことはなかった。私にすらその話を持ち出す人もいた。


 自分は絶対にその事件に関わることはないという信用と優越感から生じる娯楽性だ。本当に怯えている人間は、暇があればレザー・エプロンの名を出して「怖いですわね」と顔を見合わせるようなことはしない。


「ダニエル・テイラーにノア。お前らも容疑者の候補に挙がっている」


 警視の言葉に、取り留めのない思考が霧散した。

 立ち尽くす私の前に立ちはだかるようにして、ダニエルが警視と向かい合った。


「僕とノア君が容疑者だって? 冗談じゃない。見世物小屋猿の方が、人間の言葉をもっと上手く喋るね。そもそも僕たちには、娼婦を殺す動機なんてないじゃないか。無実の市民まで疑うほど、ロンドン警視庁は無能の集まりなのかい?」

「完全に疑っているわけじゃない。容疑者として候補が挙がる可能性があるという、ただそれだけのことだ。今回の事件は特殊なんだよ。何しろ犯人の足取りが一向に掴めねえ。一日でも早く事件を解決するためには、誰でも疑う必要がある。そのせいで容疑者が二百人いる、なんて訳の分からないことにはなってるがな。その中に入ってるだけだ。今すぐ捕まえるなんて馬鹿なことはしないから、安心しろ。特にノア」


 警視は鋭い眼光をほんの少し和らげて、「安心しろ」と繰り返した。私は情けないことに、足をがくがく震わせて今にも倒れそうになっていた。しっかりしろ、と己に叱責するも、本能は理性を遥かに凌ぐ。

 落ち着いて立てるようになったのは、警視が店を出て行って暫くしてからだった。その間、ダニエルが私の背中に腕を回して支えてくれた。


 積極的に人と触れ合うことのない私だが、ダニエルには何の気兼ねもなく体を預けることができた。恥ずかしい話だが、昔の癖が体に染みついているのかもしれない。子供の頃の私は、常に庇護される側にあった。

 ダニエルの胸に額を当てると、肌触りの良い布の向こうから彼の規則正しい鼓動の音が聞こえた。それに耳をすませているうちに、私の呼吸は通常のペースを取り戻していった。「大丈夫かい」というダニエルの言葉に、私は頷いた。


「少し取り乱した。もう大丈夫だ……すまない」

「君が謝ることじゃない。どう考えても悪いのは、僕らを容疑者扱いしたロンドン警視庁だ。まあ、僕らの他に二百人も容疑者がいるなら、親父さんの言う通り心配はないだろうがね。親父さんのことは仕方がないから許してあげよう。親父さんのスーツ代で、パブに十回は行ける」


 ダニエルの口調は陽気だった。私を元気づけるためかと一瞬思ったが、ぎごちなさやわざとらしさは見当たらなかったから、本当に心配していないのだと解釈した。


 楽観的なのか、経験に裏打ちされた自信があるのか。どちらにせよ、何事にも動じない彼が頼もしいのは事実だ。


「パブに行こう。今の僕にとってはレザー・エプロンなんかいう猟奇殺人鬼よりも、君の話を聞くほうがよっぽど重要だ」


 ダニエルは一層陽気に、私の肩を抱いた。

 糊と布の匂いに混じり、彼の肌に染みついた煙草の香りが、鼻腔を擽った。


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