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サヴィル・ロウの一角、高級紳士服の仕立屋「プロフェット&ナイト」に帰ったときも、私はまだ夢見心地だった。聞き慣れているはずの扉のベルも、どこか違う世界へ自分を誘う涼やかな鳴き声のように感じられた。
だからだろう。自分の客に応対している間は私に一言も話しかけないはずのダニエルが、店内に入った私を見るなり、からかうような口調で話しかけてきた。
「おやおや、ノア君。まるで泥の中にいるブタみたいじゃないか。グロブナー夫人のところに行ってきたみたいだが、そんなにも夫人の美貌にやられたのかい? そんなに美しいなら、今度僕も連れて行ってくれよ」
「ダニエル」
「プロフェット&ナイト」は、常に新品の布とぱりっとした糊の匂いで満ちている。店内の至るところにトルソーが並べられ、一つ一つが美しい紳士服を纏っていた。机上に散乱した仕立て道具――鋭い鋏や様々な太さの針など――が、照明を浴びて鈍い輝きを放っていた。
店主ダニエル・テイラーは、右頬だけを吊り上げる独特の笑みを顔に浮かべ、私を見ていた。
同居人。「縫石屋」の最初の客。無一文で帰る家すらなかった私に、店の二階を快く提供してくれた命の恩人。彼について他人に説明するとしたら、大体こんな感じだろう。
ダニエルは洒落たスーツをさりげなく着こなしていた。外見だけ見れば紳士そのものだが、中身はそこらをうろつく少年とさして変わりがない。
「別にそんなのじゃない。夫人のところへは、仕事で行っただけだ。分かっているだろう」
「ああ、そうだ。君は夫人のもとへ、仕事で行っただけだ。ただ、今の君は少々浮ついているようにみえる。感情の起伏が乏しい君にしては、珍しいことだ。何か特別なことがあったに違いない。そうだろう?」
否定できなかった。実際、あのときの私は浮ついていたのだろう。
「……あとで話す。それより」
私は、ダニエルの向かいのソファに目を向けた。
「君のモットーはお客様を待たせないことじゃなかったのか。今まさに待たせているじゃないか」
「待たせない、じゃない。退屈させない、だ」
革張りのソファには、一人の男性が座っていた。鋭い眼光に、服の上からでも分かる引き締まった肉体。知っている人物だった。
「ハリー警視」
「よう、縫石屋。商売は順調か……って聞くまででもないわな」
英国で最も有名な警察機構は、ロンドン警視庁――通称スコットランド・ヤードだろう。ハリー警視はその巨大な歯車の内の一つだ。ダニエルが手掛ける軽くて動きやすいスーツを、数年前から愛用している。
不愛想であり、他人と関わることを苦手としながら、他人の視線を気にしている私にも、気さくに話しかけてくれる数少ない人物でもあった。
「おい、ノア。ちょいと俺の愚痴を聞いてくれよ」
柔らかいソファに体を沈めた警視は、憎々しげに親指をダニエルに向けた。
「俺は今日、ただ単にスーツの綻びを直しにもらいにきたんだ。職業上、体を常に動かしているからな。スーツの減りも早い。ただ、着れなくなったわけじゃねえ。穴が空いただけだ。それを埋めてもらおうって、ただそれだけなのに……気づいたらこいつの口車に乗せられて、スーツを一着新調だ。スーツを作りたい、なんて一言も言った覚えはねえのに、いつのまにかそうなってた。しかも高いやつだ。くそっ。こいつは根っからの詐欺師だぜ」
「詐欺師、だなんて酷いなあ。僕はお喋りなだけだよ。好きなように喋っていたら、勝手に周りが乗っかってくる。親父さんがスーツを新調することになったのも、僕が言い出したわけじゃあない。親父さんが気ままに乗っかってきただけだ。そうだろう?」
「このお喋り屋が」
警視の前には、一枚の紙が置かれていた。新調するスーツの値段に、ダニエルの名前、その下に警視の手書きのサインがある。値段の欄に書かれているゼロの数を、私は視線を外して、数えないようにした。
ダニエルの口車に乗せられ、思ってもいなかったほどの高額な注文をいつの間にか取らされている客は多い。それでも文句が出ない上に、客足が途絶えないのは、ダニエルの仕立屋として卓越した技術によるものだ。
彼が仕立てる服には、命が宿っている。もちろん比喩だが、実際にそう感じることも幾度かあった。
かくいう私の仕事着も、ダニエルの手によるものだ。もっとも、口車に乗せられたわけではなく、私が縫石屋を始めるときに彼の好意によって贈られたものだが。
「まあ、サインもしてしまったことだし、今の親父さんに出来ることは僕の仕事が終わるのを待つことだ。安心してくれ。注文されたからには、最高のオーダーメイドスーツを仕立てることが、僕の職人としての意地だ」
「たくっ……お前さんの作るスーツは最高だからな。ますます質が悪い」
警視が立ち上がる気配がした。
「これ以上吹っ掛けられたら破産しちまうし、ノアが帰ってきたっつーことは、もういい時間なんだろ。そろそろお暇させてもらうが……その前に、お二人さんに聞きたいことがあってな」
「何だい? さっき断っていたが、釦に親父さんのイニシャルを彫る話、乗り気になってくれたかい? それじゃあ早速デザインを考えなくちゃいけないから、この紙の裏にイニシャルを親父さんの手で書いてもらって……」
「断る。その手に乗るか、詐欺師が。そうじゃなくて、娼婦殺しの件だ」




