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「警察だ」
ダニエルの囁きに目を凝らすと、影はロンドン警視庁の制服を着ていた。
数日前にダニエルの店にいた、あの彼の鋭い眼光が思い出された。
「ハリー警視か」
「いてもおかしくない。イーストエンドは切り裂きジャックの本拠地だからな。ああやって見回りをしているんだろう。潜入している警察官もいるだろうな」
道行く男たちを見た。ただ娼婦と楽しむ者も、連続殺人鬼を見つけるため雑踏に潜み目を光らせている者も、例外なくこの地独特の空気に包まれ、見分けがつかない。
「どうする、ノア君」
ダニエルを見た。
彼の身体には暗闇と月光、どちらも棲んでいた。
彼の左半身は闇と同化していたが、右半身は舞台のスポットライトの如き月光に照らされていた。彼の瞳は、夜の闇の中にあって私を真っ直ぐに見つめていた。
忘我。私はしばし彼に見惚れた。この世の底が詰まった地で見るダニエルは、どの娼婦よりも美しかった。
「引き返すかい」
我に返った私は、頑として首を振った。
「いや、君についていく」
ダニエルは声を上げずに笑い、かつて私が彼に言った言葉を口にした。
「もし、今夜君が僕についてくるとして……警察に捕まっても、僕は知らないからな」
「望むところだ」
彼は、今夜のターゲットを探し始めた。どんな娘がいい、と聞かれ、私は「美しいと君が思う人を」と答えた。
整った顔に微笑みを浮かべ、洒落たスーツを着こなしているダニエルに、何人もの娼婦が声をかけた。
中には、勢いで押し倒そうとする女も現れた。それら一切を無視した彼は、所在なさげにしていた若い娘に声をかけた。
娼婦とは思えないほど慎ましい娘であった。
地味、とも言い換えられるだろう。顔も体も貧弱で、足首などぽきりと折れそうなほどだった。頑張って男性を誘うんですけど、私みたいな娼婦を買ってくれる人は中々いなくて、と娘は語った。
気弱な笑みが愛らしかった。
「お二人のどちらが、私を買ってくれるのでしょうか」
私とダニエルを順番に眺めながら、娘は言った。
「僕だ。ただ、このノア君も私たちと共に寝所に入る。とはいっても、君に僕たち二人を相手させるわけではないよ。ノア君は、ただそこにいるだけだ。問題ないかい?」
「ええ、私は問題ありませんが……」
ダニエルに肩を抱かれた娘は、不思議そうに私を見た。娼婦に手を出さず、行為に参加することもなく、ただ部屋にいるだけの客など滅多にいないのだろう。
私は曖昧に視線を逸らした。ダニエルを狙っていた娼婦が、憎々しげに私たちを睨んでいるのが視界の端に映った。
「ここです」
何とか形を保っているような掘っ立て小屋に、私たちは案内された。
風が吹くたびに、家全体が悲鳴のような音を立てた。入り口に、布切れのような下着が干されていた。両側の家々が娘の家にのしかかるようにして立っていることもあり、ひどく陰気で窮屈そうだった。
中はますます荒れていた。硬い床の上にぺらぺらのシーツを敷いているのが、ベッド代わりだった。他には何もなかった。窓も明かりもない部屋は、濃い闇の粒子で満ちていた。
私はゆっくり深呼吸した。
ダニエルが、脱いだジャケットを私に放った。
「持っておいてくれ」
私は皺がつかないように畳み、脇に挟んで持った。部屋の隅に行き、埃が少ない場所を選んで座った。
ダニエルは娘を押し倒した。
行為が、始まった。




