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イーストエンドは、シティ・オブ・ロンドンの中世期の防壁の東側とテムズ川の北側に広がっている。
貧民層が集まり、ロンドンで最も治安が悪い地域として有名だ。
噂通り、色欲と堕落の権化のような地だった。
ぎっしりと建ち並ぶ粗末な家々――中には、板を立てかけただけのものもある――の前には、しなびた老女の死体が打ち捨てられている。死体と吐瀉物の腐臭が辺りに漂っていた。骨が浮き出るほど痩せ細った子供たちが、地面を這いつくばって、食べ物を探していた。布切れのような服を纏った娼婦が、道行く男を見定めしていた。
そんな光景を、青白い月が残酷なまでに照らしていた。
一歩進むごとに、極貧と苦痛の空気が肺に満ちた。
一晩の相手を金で買った男たちは、娼婦の腰を抱き、路上であっても服の下をまさぐった。そこらの暗闇で行為に及ぶ者もいた。
「今まで考えたこともなかった世界だろ」
ダニエルが笑いながら言った。彼の腕は、私の肩をしっかりと掴んで離さない。
「性欲と金を持て余している連中は、こういうところで女を買う。娼婦が、一番後腐れなく便利だからな。娼婦の方も客を取らないと食べていけないから、必死で男を誘う。ただでさえ医者のいない環境に生きているのに、何人もの男と致していたら、病気くらい簡単にもらう。スラム街の娼婦のほとんどの死因は性病だ。あるいは、客を取れなかったことによる餓死だな。凍死も多い。そういう世界だ。そういうのがまかり通る場所なんだよ、ここは」
知っている、という返事はダニエルの耳に届くことなく、消えた。
ダニエルに話したことはなかったが、かつてスラム街に住んでいたことがあった。
年は覚えていない。確か十六か十七だったか。無情に過ぎ去っていく一日一日を生き抜くのに精一杯で、日付の感覚など完全に失っていた。夜明けとともに起き上がり、一日中工場で働き、深夜に帰宅して、藁のベッドで死んだように眠った。
あの頃の私に、未来はなかった。ただ呼吸をする、その一瞬一瞬が全てであった。
イーストエンドほど治安が悪い地区ではなかったが、娼婦はいた。毎日、誰かが死んでいた。泥と汗と馬糞と死体の臭いが、体に染みついていた。
スラムには様々な年齢、性別の住人がひしめき合っている。有り余る性欲を抑制できない年頃の男も、当然いた。娼婦を買うお金などない彼らは、ときに男を襲った。私も襲われた。
消し去りたい記憶だ。墓場まで持っていくと決めた。
「お兄さん、暇?」
私の体に、一人の娼婦がもたれかかってきた。
顔中に深く刻まれた皺を無理やり隠そうとしている女で、乳房がほとんどはみ出していた。スラムに住んだことがあるといっても、娼婦に慣れているわけではない。
固まった私に代わって、ダニエルが女を押しのけた。
「あの女の口紅が、手についてるぜ」
ダニエルの言葉に掌を見ると、濃い口紅がべったりとついていた。擦り落とそうとしても取れない。慌てる私に、ダニエルは声を上げて笑った。
「何がおかしい」
「いや、ここまで感情を露にするノア君は珍しいからね。こんな君の姿が見れるのなら、もっと早く連れてこればよかったな」
見ろよ、とダニエルは顎をしゃくった。
目の前の路地を真っ直ぐ進んだ先に、テムズ川が見えた。
霧があまり出ていない上に、月が辺りを照らしているから、いつもより遠くまで見通せるのだった。ロンドンと海を繋ぐ川は、黒々とした水面に揺らめく月を浮かべ、静かに流れていた。
遠くにぽつりぽつりと小さな宝石の光があった。ガス灯であった。忘れ去られた道に、淋しそうに頭を垂れていた。
川の辺りに、数人の影が蠢いていた。




