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イーストエンドに行く前に、私はパブに寄った。
「君が一杯飲みたいだなんて、珍しいね」
「いや、そういうわけじゃないんだ。お礼を言わなくちゃいけない相手がいる」
「お礼?」
マックスのパブは数日前と同じように盛況していた。
仕事を終えた労働者が、パブに一日の疲れを癒しにきていた。煤と土と汗にまみれた男たちが、酒と一晩の相手を求めていた。
いくつものグラスを抱えた少年が、店内を走り回っていた。
私はダニエルに囁いた。
「あの子だ」
「あの少年は確か、一か月にマックスに雇われたっていう……」
「あ、あんた」
数日前と同じように、私たちの席にビールを運んできたオリヴァーは、私の顔を見るなり声を上げた。しかしすぐに居心地悪そうに視線を逸らした。
私はふと、傷だらけの少年の顔をどこかで見たような感覚に襲われた。
何を言っているのだ。オリヴァーには数日前にパブで、そしてつい一日前に道端で会っているではないか。いや、違うのだ。それ以後に、私はこの少年の顔を見はしなかったか。つい最近だ。それこそ数時間前に、私は暗闇の中で誰かを見た気が……。
私の瞳を覗き込む少年。オリヴァーの顔に、過去の幻影が重なった。私は無理やり、その幻を払い落とした。
オリヴァーの手には、何重にも包帯が巻きつけられていた。
「昨日はありがとう。情けない姿を見せてしまって、悪かった。困っただろう」
子供と話すのは慣れていない。特に思春期あたりの少年となれば、己と住む世界が違う生き物だ。詰まりながら話す私に何か思ったのか、オリヴァーははっと私の顔を見た。
「……いや、別に」
オリヴァーは言った。
「困ってなんかいないよ」
「さっきから僕だけ話についていけていないんだが、ノア君とオリヴァー君、君たちの間に何かあったのかい? 初耳だが」
私とオリヴァーの顔を順番に眺めながら、ダニエルは不思議そうに言った。その手にあるグラスの中身は、既に半分に減っていた。
夕食の後に一杯のコーヒー。その上酒も進むなど、すごい胃袋だ。
「そういえば、昨日のノア君は何か変だったな。仕事から帰ってくるなり自分の部屋に直行して、出てこなかった。あれと何か関係があるのかい?」
私は、客に教えられた見世物小屋を観に行ったら、気分が悪くなり、路上でこの少年に介抱されたことを手短に話した。
見世物小屋で何を観たのか、それだけは伝えなかった。
悪意の底で踊るヒルトン姉妹。あの幻影は、あの時も私の中に生きていた。シャム双生児という言葉は、ダニエルの記憶の蓋さえもこじ開けてしまう魔力を持っている。
私にとって、過去は鎖だ。十数年経った今でも、それは私の行動を縛りつける。
ダニエルは私の説明で納得したようだった。彼はオリヴァーに私を助けてくれたことへの礼を言い、財布から一ポンド硬貨を何枚か取り出した。
「チップだ。好きに使ってくれ」
レストランやコーヒーハウスで通常払うチップは、代金の十パーセント程度だ。それも、サービスが良かった場合に限られることが多い。マックスのパブのように労働者階級が多く集める店では、チップなど皆無に等しい。
ダニエルが渡したのは、余りにも多すぎる金額だった。




