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私が感極まるがあまり、たどたどしい返事になったとダニエルは解釈したのだろう。
「素晴らしい仕事に、乾杯だ」と自分のグラスを軽く持ち上げ、酒のように一気に飲み、私の肩を抱いた。
嬉しくないわけがなかった。英国の数ある貴族の中でも、ほとんど頂点に近い位置にいるグロブナー氏だ。彼が計画する展覧会に参加できるなど、一人の職人として身に余る光栄であった。
しかし同時に、私の胸中には複雑な思いが渦巻いていた。
私にとって蝋人形とは、もう一人の私であり、虚ろな闇であり、恐れるべきものであり、何者にも例えることできない何かであった。蝋人形の中に広がる洞を私は恐れ、同時に共感した。
自分が決して辿りつくことのできない境地にいる相手を恐れ、畏怖し、崇める感情と、自分と同じ境遇にいる相手を慈しみ、共感し、思いを寄せる感情。
相反する感情を、私は蝋人形の彼に対して抱えていた。違和感なく共存していたのだ、私の中で矛盾が。
蝋人形に宝石を縫いつけることができる。
それを聞いたとき、私は歓喜とも悲嘆とも言えぬ思いを味わった。例えるならば、神を崇め、神に全てを捧げた殉教者が、神の頬に友愛の接吻をするときの感情とよく似ているか。背教。罪悪。それに付随する、あまりにも甘美な悦楽。
絶好の機会ではないか。
全てを加味した上で、あのときの私はそう結論づけたのだった。こんな機会、もう一生訪れないだろう。
己の神に、己自身に、穴を開け、糸を通し、宝石を縫いつけるなど。
運命とは、最もふさわしい場所へと、貴方の魂を運ぶのだ。
シェイクスピアの名言だ。これが運命だというのなら、私の心がそれを望んだ証拠だ。
「これから、どういう予定で進めるんだ」
「展覧会用の蝋人形を、彼女は鋭意制作中だ。それに会場の用意もある。時間はたっぷりあるさ。僕たちの都合のいいときに彼女の作業場を訪問し、詳しいことを相談する。住所もここに控えてある。歩いて行ける距離だ。あの年頃の女性には珍しく、一人暮らしだと言っていたな」
「そうか」
「まあ、僕らのペースでのんびり行こうじゃないか」とダニエルは笑み、空になったカップを指で弾いて、乾いた音を立てた。
夜が深まっていた。冷気が玄関扉の隙間から入り込み、床をひたひたと這っていた。部屋のそこここに小さな闇が蠢いていた。
私たちは蝋燭の明かりの下で、コーヒーカップを片付けた。
必要最低限の設備が備わったキッチンは、成人男性二人が自由に動き回れるほど広くはない。ダニエルが洗ったカップを、私は棚に片づけた。
棚にある食器は、全て二人分揃っている。
「今夜は仕事に行くのか」
手を拭いているダニエルに、私は聞いた。
含みのある言い方に、彼は目を細めた。小さな夏の青空が揺れ動いた。
「さあ、どうしようか……行ってもいいんだが、様子を見ている限りでは、君をここに一人残すのは不安だな……」
私は軽く首を傾げ、言った。
「私も連れて行ってくれ」
あれだけ呆気にとられたダニエルの顔を、私は今までもそしてこれからも見ることはないだろう。彼の周囲だけ時が止まったのかと錯覚するほどだった。
限界まで見開いた目で私をまじまじと眺めながら、「本気かい?」と彼は聞いた。
「私が冗談を言うような性格だと思うか?」
肩を竦めた。私のことは、誰よりも彼がよく知っている。
彼の表情がゆっくりと変化した。
それは満面の笑みだった。
彼の唇は弧を描き、酒で赤く染まった頬は右側だけがきゅっと上がった。碧い瞳に宿る光が、ちろちろと瞬いていた。
私が好きな、不格好な笑顔であった。彼は、私の腕を強く握った。
ダニエルの手は燃えるように熱かった。




