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恐怖が私の体の奥から噴き出そうとした。本能的な恐怖だった。獣のように暴れまわるそれを制御する術を、私は持たない。
そもそも、これは何に対しての恐怖なのか。闇への恐怖か。孤独への恐怖か。悪意への恐怖か。
……「死」への恐怖か?
恐怖に噛みつかれそうになればなるほど、私の中で生存への欲求は高まった。
私は、己の周りに囲いを作った。脆い囲いだ。いつ壊れてもおかしくない。そんなものでも、自分が何かに守られているという感覚は、私を安心させた。
阿片チンキによってもたらされた眠りから覚めたとき、その囲いの一部が壊れた。恐怖が私の中に入り込んだ。私は半狂乱になった。
……私はあのとき何をしたのだろうか。何も覚えていない。気づけば、ダニエルがベッドに横たわる私の顔を覗き込んでいた。
一度目の目覚めから、二度目の目覚め。ぽっかりと記憶が抜け落ちていた。混乱。私は一体どうしたのだ?
……混乱しているのは、三年経った今でもそうだ。この手記を書いている今、私は変わらずロンドンにいる。
世界の英国。富と繁栄の象徴。そんな国にいながら、私は己の中に洞を飼っている。彼が見えるのだ。虚ろな蝋人形。
私と同化し、私は彼の中に入り込んだ……。
「僕が出かけている間に、何かあったのか」
ダニエルが言った。彼は出かけたときの服装のままで、ベッドの傍に座っていた。私は寝返りをうち、ダニエルの方を向いた。
「どういうことだ?」
「君の部屋に入った瞬間、饐えた臭いがした。吐いたのかと思ったが、その割に床は汚れていない。何故だろうと思ったら、小説の一ページが破られ、ぐしゃぐしゃに丸められているのを見つけた」
窓の外を見ると、陽光が皺ばんでいた。茜色に染まった街が、疲れた表情を曝け出していた。
仕事を終え、人々が帰宅する時刻であった。
ダニエルが家を出たのは、まだ霧が濃い朝だった。よほど長い時間、夢と現の狭間を彷徨っていたらしい。
「破った本のページで、吐瀉物を拭っていた。君に限って、そんなことをするはずがない。その上、部屋の扉が開け放たれていた。出かけるとき、君の部屋の扉をきちんと閉めたのを僕は覚えている。君が出歩けるような状態ではなかったこともね。誰かが来たんだろ。何があった」
目だけを動かして部屋を見渡したが、吐瀉物を拭ったという本のページは見当たらなかった。ダニエルが片付けたのか。
薄暗い部屋は、いつもの私の自室と同じように見えた。私は、覚えていないと答えた。
ダニエルはじっと私を見つめた。
「それは本当か」
「本当だよ。何も覚えていない」
「誰が来たのかも、覚えていないんだな」
「全く何も分からない……けど、本当に誰か来たのか? 君は、何者かの訪問を信じて疑っていないようだが。私だって、他に何もなければ本のページを破って使うことだってある」
「寝ながら吐くことなんてできない。覚醒した瞬間が、君にはあったはずだよ。そんなときに君が、よりにもよって小説を破って使うか?」
「錯乱していたのかもしれない。自分がどんな状態にあったのか、記憶にないんだ。何をしていたって、おかしくはないよ」
ダニエルは納得していないようだったが、本当に私が何も覚えていないのを見て取ると、諦めた。
溜息を吐くと、私がベッドから起き上がるのに手を貸した。
「ノア君がそう言うのだったら、僕は信じるだけだが……まあ、いいか。それより、体調は大丈夫かい。朝見たときより、かなり顔色は良くなっているようだが」
「ああ。眠ったからかな。少し体が軽くなった」
実際、私の体調は随分良くなっていた。
「そうか。それなら良かった。傍にいることが出来なくて、悪かったね。少し用事があったんだ。後、思いもよらない客人が来てね。彼女の話を聞いていたら、こんなに遅くなってしまった……何か欲しいものはあるかい? 言ってくれれば、持ってくるよ」
ダニエルの言葉に合わせるようにして、腹が鳴った。ひどく腹が減っていた。まるで胃の中が空っぽになったようだ。
ダニエルは肩を揺らして笑い、紙袋を私の膝の上に置いた。
「僕の友人から貰ったものだ。ジェイコブ、覚えているかい? 二日前にマックスのパブの前で、二人の男に君を紹介しただろ。あの体がでかい方だ。肉屋を経営していてね。君が体調を崩しているのだと話したら、見舞い品を渡してくれた」
大きな肉の塊を挟んだサンドウィッチが、その日初めての食事だった。
私は大口を開けて食らいついた。新鮮なパンと肉が私の喉を伝い、胃に落ちていくのがはっきりと感じ取れた。私の食べっぷりはダニエルを驚かせ、「そんなに急いで食べなくても、誰も取りはしないよ」と彼は言い、私の口の端から垂れた肉汁を指で拭い取った。
食べ終わり、空腹を満たした私は、ダニエルを見た。
ベッドのすぐ横に座る彼は、私の様子をじっと眺めていた。




