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がたりと物音がした。
一番奥の扉からだった。オリヴァーは慌ててノートを元の位置に戻して、そっと廊下の奥を窺った。
誰かの呻き声が聞こえた。それは静まり返った廊下に反響し、怪物の声のようにオリヴァーには感じられた。
何かをひっかくような音、布を引きずる音。
オリヴァーは呼吸を止め、どれだけ小さい物音でも聞き漏らさないように、じっと耳を澄ました。
がた、がた。木が叩かれる音。人の声。「ダニエル」昨日、道で震えていた男の声。
オリヴァーは走り、奥の扉を開けた。むっとした空気の臭いが鼻をついた。埃が舞う。立て続けにくしゃみが出た。
狭い部屋は、閉店後のパブと同じくらい物が散乱していた。
何冊もの本が床に積み重なっていた。開いたまま置かれている本もある。ベッドのシーツが、床にぐしゃぐしゃの状態で投げ出されていた。
一人の男が、部屋の真ん中で蹲っていた。ノアと呼ばれていた男に間違いなかった。
ノアは、瓶を持っていた。透明の瓶だ。暗赤褐色の液体が二分の一ほど入っている。ノアは躊躇なくその瓶の液体を口に含み、呑み込んだ。
透明の瓶に入った暗赤褐色の飲み物。見覚えがある。原因不明の腹痛に悩まされていた娼婦が、鎮痛剤として同じようなものを飲んでいた。
これは阿片チンキよ。
娼婦は、スプーンに液体を垂らしながら言ったのだった。
痛みを和らげて、安眠を促してくれるの。だけどアヘンが入っているから飲みすぎは禁物。せいぜいスプーン一杯程度ね。
オリヴァーはノアに飛びつき、瓶を奪い取った。中身は三分の一ほどまで減っている。どう見ても飲みすぎだ。
ノアの顔を覗く。知らず知らずのうちに息をのんでいた。
信じられないほど哀しい瞳だった。
じっと見つめていると、そのうち呑み込まれてしまいそうな。エヴァ・ミラーが纏っている悲しさとは、また違う。この人は自分自身の中に洞を持っているんだ。その洞に哀しみが満ちている。他人には到底推し量れない深い悲哀……上手く言えないけれど……。
その瞳は、焦点が合っていなかった。目の前にオリヴァーがいることすら気づいていないようだった。
鎮痛剤に阿片チンキを飲んでいた娼婦も、しまいにスプーン一杯の量じゃ物足りなくなり、大量に摂取して意識不明に陥った。
考えるより先に体が動いた。
ノアの口の中に指を突っ込む。暴れるノアを押さえつけた。
「苦しいよな。悪い。耐えてくれ。吐き出さないと、お前が大変なことになる」
口腔深くまで指をやると、簡単に吐いた。阿片チンキが混ざった吐瀉物が、床に落ちる。
まずい、吐かせた後のことまで考えてなかった。
辺りを見渡し、一番近くにあった本を手に取った。適当なページを破り、出たものを受け止める。ついでに床に落ちたものも可能な限り拭い取った。部屋に満ちた饐えた臭いは、扉を開けて追い出す。
胃の中のものを全て吐き出した後、ノアの体からがくりと力が抜けた。床に叩きつけられる前に慌てて支え、心臓が動いていることを確認する。服を通して聞こえた鼓動に、ほっと息を吐いた。
勘弁してくれよ。お前の心臓が止まったら、俺が殺人犯になっちまう。
ノアの体を引きずり、ベッドに横たわらせる。床に放り出されていたシーツを拾い、ノアの上にかけを引っ張り上げていると、不意にノアの口が小さく動いた。
テ……。
それだけしか聞き取れなかった。今にも消え入りそうな小さい声だった。




