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焼かれた皮は未だに痛むが、仕事ができないほどではない。
マックスは二階から包帯を持ってきてくれた。ずっと棚の奥にしまっていたせいか饐えた臭いを発し、びろびろに伸びてはいたが、オリヴァーは有難く受け取って掌に巻いた。
霧が薄くなり、陽光が街を照らしだしたころ、パブに一人の女性が来店した。
美女と呼んで差し支えない、整った顔立ち。服の上からでも分かる、豊かな肉体。そしてそれらを凌駕する、ぞくりとするほど静かで冷たい雰囲気。
顔見知りだった。
「ミラーさん」
オリヴァーが声をかけると、エヴァ・ミラーは微笑を浮かべた。
「あら、オリヴァー君。久しぶり。ここで働いているという噂は本当だったのね」
エヴァ・ミラーは、イーストエンドに住む娼婦の一人だ。オリヴァーの母親と顔見知りで、何度か言葉を交わしたことがあった。
「おう、いらっしゃい。今の時間は空いているから、好きな席に座りな」
マックスが厨房から顔を出して言う。すると店内で騒いでいた男たちが、あからさまにそわそわし出した。手に唾をつけて乱れた髪を整え、服の埃を払い、身長が少しでも高く見えるように座りなおす。
いい年をした男たちが一人の美人に翻弄されているのを見て、オリヴァーは笑いだしそうになるのを慌てて堪えた。
流石、ミラーさんだな。イーストエンド一の娼婦の名は伊達じゃないってわけだ。
その美貌と、娼婦でありながら男に媚びない態度に狂わされた男を、オリヴァーは何人も見てきた。それでいながら、彼女自身は生涯の伴侶を作る気はないのだった。
玉の輿を狙える実力を持っていながら、決して誰かのモノにはならない彼女を魔性の女だと貶す娼婦もいたが、オリヴァーはそうは思わなかった。
エヴァ・ミラーが常に纏う独特の雰囲気には、「孤独」が含まれているように感じるのだ。両足に力を込めて踏ん張らないと、真っ逆さまに転落してしまいそうな孤独。そうでないなら「悲嘆」だ。他人が立ち入ることのできない領域に、彼女は悲しみを抱えている。
気のせいだろうか。
「いえ、今日は食事を取りに来たわけではないんです」
エヴァ・ミラーは視線を宙に漂わせた。
「探している人がいて。その人のお店の場所を、ご存じないか伺いに来たんです。ほら、このパブには色んな方が客として来られるでしょう。もしかしたら、その人のことを知っているのでないかと思って」
厨房から汗を拭きながら出てきたマックスは、眉を上げた。
「ほう、成程な。確かにこの店には、性別身分問わずたくさんの客が来る。その探している人のことも、知っているかもしれないな。で、そいつはなんていう名前で、職業は何だ」
エヴァ・ミラーは空中に書かれている文字を読み上げるように言った。
「ダニエル・テイラーさん。仕立屋をしているらしいです」
「なんだ、ダニエルか。うちの常連だ」
ダニエル。何だか聞いたことのある名前だな。
首を傾げているオリヴァーに、マックスが言った。
「お前も会ったことがある。ほら、数日前、お前に声をかけてきた客がいただろ。この店で働いてどれくらいだ、って。その後、俺がお前を紹介した。小洒落たスーツを着て、金髪で、背が高いあの男だ」
「ああ、あの」
言われて思い出した。二日前に、店に来た客だ。
汗と土に塗れた労働者の中に混じって、やけに洗練された外見と雰囲気を持っていた。同じ世界の住人ではないと一目で分かった。それなのに自分にひどく友好的に話しかけてきたから、戸惑ったのだった。
特徴的な客だが覚えていなかったのは、オリヴァーの中ではその客と一緒にいた男の方が、よほど記憶に残っているからだ。
色が白く、線が細い男だった。
確か、ノアと呼ばれていたか。見るからに陰気で、マックスやオリヴァーと目も合わせようとしなかったが、不思議な妖しさがあった。
まるで、この世のものではないみたいな。
今にも消えてしまいそうな脆弱さと儚さが、そう感じさせるのかもしれない。
ダニエルが、常にノアを庇うようにしていたのも印象的だった。
酔っ払いがノアの傍を通る度、視線で圧をかけていたのだ。狩人が獲物を見定めるような、獰猛で残忍な視線だった。
肉食獣。
その視線に、オリヴァーは我が子が傷つけられることを許さない獣の姿をみた。
なるほど、お気に入りか。ずいぶん過保護なんだな。




