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コンロに並べていた鍋から、一斉に湯気が噴出した。狭い厨房に瞬く間に熱気が満ちた。
「オリヴァー、煮すぎだ! 鍋を下ろせ!」
客のテーブルに料理を運んでいたマックスから、怒声が飛ぶ。昨晩の酔っ払い客の吐瀉物を処理していたオリヴァーは慌てて厨房に駆け込み、鍋の柄を掴んだ。激痛が走った。「痛ってえ!」とうずくまる。
「素手で鍋を掴む奴がいるか! そこらに布巾を置いてあるから、それを使え!」
マックスの声がますます大きくなる。オリヴァーは辺りを見渡し、コンロの下に積まれていた布巾を何枚も掌に巻いた。
湯気を立てている鍋を、一つ一つ床におろす。長年使い込まれた鍋は、真っ黒に焦げた野菜の切れ端やら炭の欠片やらが、表面に凹凸をつくっている。
「大丈夫か、火傷しなかったか」
客が朝食を取っている時間にも関わらず、マックスは既に全身に汗を浮かべていた。
この人は、いつもジャガイモみたいだ。オリヴァーは思う。湯気を立てていて、ほくほくで、温かい。
「酷いな」
熱した鉄によって、オリヴァーの掌は皮がずるりと剥けていた。甲の方まで真っ赤に染まっている。それに加えて、いつもの大きさの二倍は膨れ上がっていた。
「医者で薬を貰ってきたほうがいいな。ここから近いのは、アシャー先生のところだが……場所は分かるか? お代はツケにしといたらいい。俺が後で払いに行く」
「いいよ。これくらい何ともない」
火傷に唾液を垂らしながら、オリヴァーは言う。ほんの少し指先を動かしただけで、掌全体にびりびりとした痛みが走ったが、痩せ我慢をしているわけではなかった。
スラムにいた頃は、常に餓死と凍死の恐怖に曝されていた。腕自慢のガキ大将に、意味のない暴力を振るわれたことも少なからずある。永遠に続くかと思われたあの苦痛に比べれば、己の不注意で負った火傷など取るに足らない。
「それでもせめて、しばらくは患部を冷やしておけ。動かなくなったりしたら、大変だろう」
「でも、仕事が」
「お前の仕事くらい、俺でカバーできる。何も問題ないさ」
優しいな。腕全体で抱えるようにしてバケツを持ち、裏口に向かいながら、オリヴァーは考える。
仕事に見合った給料が出る上に、晩は二階の一人部屋で休める。運がよければ、客の食べ残しを貰うこともある。一日中客の相手をしなければいけないし、部屋はベッドだけで一杯になるほど狭いけど、十分だ。
幼馴染と、その妹の顔が頭に浮かんだ。
サイラスとアイラも、ここで働かせてもらえば良かったのに。
裏口から出ると、男の死体が路に転がっていた。がりがりに痩せていて、ろくに服を着ていない。スラム街の住人が餓死したか、追い剥ぎにでもあったのか。どちらにしろ、驚くような光景ではない。
オリヴァーは死体の傍に跪き、懐を探った。一ポンドも入っていない。
ちぇっ、先に掏られたか。
まだ日は昇っていなかった。霧が濃く、冷えた空気が白い粒子と混ざり合うようにして漂っていた。オリヴァーはすぐそこに流れているテムズ川の水をバケツに汲んできて、路地裏の地面に置き、手を突っ込んだ。ロンドンを海とつなぐ川の水は、氷のように冷えている。
しばらく掌を水に浸していると、発熱に近かった痛みが和らいだ。
ついでとばかりに上の服を脱いだ。バケツに突っ込み、布同士を擦るようにして洗う。一週間分溜まった汗や土が、水を茶色に濁らせた。
「オリヴァー」
霧の向こうから声がした。スラム街の方向だ。聞き慣れた声だった。返事をすると、白い靄の中で人影が徐々に大きくなった。足音がはっきりと聞き分けられるようになったとき、
「オリヴァー」
もう一度声が響いた。濃い霧を割くようにして、一人の少女が現れた。
軽やかな足取りの少女は、オリヴァーの腕の中に飛び込んだ。




