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「へえ」


 フィンは興味なさそうに肩を竦めた。

 彼は文字の読み書きができず、図書館の大量の書物に興味の欠片も抱かない大多数の中の一人だった。


「お前ら、本好きだよな。いっつも二人で何か読んでる。エリアスなんか、紙とペンを持ち歩いて暇さえあったら執筆活動だ。もういっそのこと、小説を書いてどっかに出しちまえばいいんじゃないの。評価されたら人生大逆転、こんな小さな村から大作家が出たって大騒ぎだ。評価されなかったら……まあそこまでだったってことだろ」

「エリアスの文が評価されないなんてことはない」


 テオは噛みつくようにフィンに言った。実際、噛みついた。フィンの白い指に歯を立てたのだ。


「いってえ!」とフィンは椅子から転がり落ちた。


「噛むことはないだろ」

「お前がエリアスの文章を馬鹿にしたからだ」

「馬鹿になんてしてねえよ。可能性を喋っただけだ。評価されたときと、評価されなかったとき、どっちも十分ありうるだろ。そもそも俺は字が読めないから、お前の片割れがどんな文章を書いているかなんて知りようがない」

「俺も文章の良し悪しが正確に分かるわけじゃないが、エリアスの文章が凄いことだけは分かる。こいつが書くのは面白い文章でも、上手い文章でもない。人に読ませる文章だ」

「それって凄いことなのか?」

「凄いだろ。クライン先生が褒めたんだ」

「クライン先生が?」


 フィンは短く口笛を吹いた。


「そりゃ凄い」


 クライン先生は、シュタインへリングに住むたった一人の医師だ。


 ベルリンの大学で薬学と医学を学び、医学博士号を授与され、自身の故郷であるこの寂れた村に帰ってきた。頭が良く優秀なのでベルリンでは引く手あまただったが、全て断ってでもこの村の人々を病から救いたかったらしい。


 稀にみる聖人だった。この孤児院にも、定期的に僕たちの様子を診に来てくれる。


 僕とテオに文字を教えたのも、クライン先生だった。図書室を埋め尽くす本を二人で見つけたときに、これはどういった代物なのかが分からず、たまたま往診にきていた先生に尋ねたのだ。


「先生。クライン先生」

「どうしたんだ、エリアスにテオ。君たちはいつも一緒だね」


 秋の夕暮れだった。木々が鮮やかな赤や黄色に染まり、小鳥たちが寂しい音色を奏でていた。冷たさを孕んだ風に頬を撫でられる度、僕は何故だが泣きそうになっていた。秋という季節が持つ哀愁や望郷の思いを、理解しなくとも感じ取っていたのだ。


 淡い橙色に染まった医務室で、先生は独り座っていた。穏やかに微笑んだ先生を見て、僕は彼の胸に飛び込みたくなった。いつもは苦手な薬品の臭いも、そのときだけは己を優しく包み込んでくれるようだった。


 図書室から持ってきた代物を、僕たちは見せた。


「それは書物というものだ」と先生は言った。


「書物?」


 鸚鵡返しをする僕たちに、先生は丁寧に教えてくれた。


「書物とは、文字によって物語が書かれているもののことだ。だが、だからといって物語だけが書かれているわけではない。そこには人の人生が書かれている。感情が書かれている。夢や希望が書かれている。絶望や地獄が書かれている。それを私たちは読み、何かを感じ、時に新しい自分を発見するのだ」


 クライン先生は僕たちに優しい視線を向けた。


「書物は、人類が生み出した最も有意義な無駄だよ」


 そして、文字の読み書きの指導をつけてくれた。


 僕とテオは、染み込む水を受け取る大地のように多くのことを吸収した。多くの本も読んだ。多くの感情を知った。


 この世には考え方も価値観も信念も異なる人々が、数えきれないほどいることも知った。


 僕たちは先生の言葉を、自身の身体を持って実感したのだ。


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