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 帰る途中、コヴェントガーデンに寄った。


 図書館で時間を潰している間、霧は晴れ、柔い陽光が久しぶりに地上に降り注いでいた。空気に散らばる光の粒子が眩しかった。

 コヴェントガーデンの前の広場では幼子が駆け回っていた。市場の盛況ぶりも甚だしく、商売人が声を枯らしながら客の相手をしていた。

 ごった返す人々の波を縫い、友人の店を覗いた。狭い店内には多種多様な動物の肉がひしめき合っている。床に垂れている赤い肉汁で客がひっくり返ってしまうほどだ。


「やあ、ジェイコブ。いつもの肉を一切れ頼めるかい」


 額の汗を腕でしごきながら、肉の塊をさばいていたジェイコブは顔を上げずに言った。


「ダニエルか。全くお前は、忙しいときにかぎって来やがって。すぐ切るから待ってろ」

「悪いね」


 ジェイコブのたくましい腕に筋が浮かんでいた。奥に放られた肉の切れ端に、蠅がたかっていた。僕は店内の邪魔にならない場所まで下がり、彼の仕事ぶりを眺めた。


 肉屋のジェイコブは、僕がテイラー氏に引き取られてから、できた友人だ。いい意味でも悪い意味でも裏表がなく、嘘がない男、というのが彼に対する人々の評価だった。どんな相手であっても己の意見をはっきりと主張する彼に、羨望を抱いていた時期もかつてはあった。


「ほらよ。豚と牛だ。今回は特にべっぴんさんだぜ」


 ジェイコブが袋を放った。お返しに、代金をまとめて投げた。彼は肉から視線を逸らさずに、数枚の硬貨を難なくキャッチした。


「今日はフレディは来ていないのかい? いつもこの時間に来ると聞いていたんだが」

「あいつは仕事だ。この頃、ずっとそうだ」


 数年前、ジェイコブから「面白い男がいる」と紹介されたのがフレディだった。彼とも酒を酌み交わすようになり、「あんな真面目な男のどこが面白いのだ」とジェイコブに訊いたら、「あいつ、いつも同じ日付で同じ曜日、同じ時間に俺の店に来るんだ。つい気になっちまって理由を聞いたら、それが一番合理的だから、なんて抜かしやがる。仲良くならない手はないだろ」と真剣な顔で返されたのだった。


「いつ誘っても、同じ答えだ。仕事がある。仕事で忙しい。数日前だったか、マックスのパブの前でお前さんと会っただろ。あの日が、一か月ぶりの休みだったんだ」

「流石だな。法廷弁護士サマが、それほど忙しいとは。よっぽど英国には事件が溢れかえっているらしい」


 法廷弁護士といえば、法学部と法曹院を経て資格を授与されたエリートだ。フレディはミドル・テンプルを卒業し、法学部時代の上級生と共に事務所に入っている。


「あの娼婦殺しが始まってから、業務が格段に増えたんだとよ。何だっけか……切り裂きジャックか」

「ああ、確か新聞が大々的に報じていたな」


 何てことない顔で頷いた。


 以前はレザー・エプロンと呼ばれていた娼婦連続殺人鬼だが、警察宛てにある手紙が届いたことで風向きが変わっていた。

「親愛なるボスへ」と知られるその手紙は殺人鬼本人が送ったものであり、その中で「切り裂きジャック」という言葉が使われていたのだ。それをマンチェスター・ガーディアン紙が報じたことで、一気にその名が知られるようになった。

 勿論、僕はそんな手紙を送った覚えはない。この「親愛なるボスへ」以外でも、自分が犯人だと名乗る手紙が、警察や新聞社に数百通は送られていた。

 その大半はいたずらで、役に立たないものだ。

 しかし中には警察が注目するものもあり、それが日々大々的に報じられている。


 娯楽なのだ、人々にとっては。娼婦が狙われる猟奇殺人というものは。


 僕がもしもっと違う層の人々をターゲットにしていたら、と想像する。世間はまた違った反応で埋め尽くされていただろう。

 英国中が事件に夢中になっているこの状況は、僕にとっては好都合だった。今夜の夕飯を相談するような雰囲気で、殺人鬼の名前を話題に出す人々の感覚に違和感を覚えないというと嘘になる。だからといって怯えきって見向きもされなければ、僕が娼婦を殺す意味がない。


「この店の常連客の間でも、持ちきりだ。皆、顔を合わせれば娼婦が何だ、切り裂きジャックが何だ、とこそこそ言いやがる。中には、全然関係ない娼婦の悪口ではしゃぐ奴もいてな。犠牲になっている娼婦には申し訳ねえが……そろそろ鬱陶しい」


 ジェイコブは肉を叩き切った。彼のでっぷりとした腹がぶるりと震えた。相当腹に据えかねているらしい。僕は当り障りのない返事を返した。ジェイコブの勘は鋭い。ほとんど野生の獣のような嗅覚を持っている。


 僕が仕事を続けるためには、まずこの友人を騙し続けることこそが最も優先事項が高いことであり、困難なことでもあった。


 初めて人を切り殺したのは、十八のときだ。


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