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「ノア。君はゆっくり寝ていろ。体調が悪いのだったら、ぐっすり寝て治すのが一番早い。僕はちょっと出かけてくるが、すぐに帰ってくるから大丈夫だ。そうだ、君の好きなものを買ってこよう。干し葡萄か杏ジャム、どっちがいい?」


 ノアはどろりとした瞳を僕に向けた。


「出かけるのか……仕事は?」

「今日は第三日曜日だ。店は休みだよ。君も僕も」


 日付すらも分からなくなっているのか。


「どこに行くんだ」

「図書館だ。君の大好きな場所だよ。調べ物があってね」


 大英図書館。百万冊以上の蔵書を抱え、ロンドンの文学機関で高い地位を誇っている、英国文化の知的支柱だ。

 ノアが足繁く通っている場所でもあった。


「……一人で? 一人で出かけるのか」


 ノアの青白い頬がぴくりと動いた。瞳に、僕しか気づけないほどのほんの微かな光が灯った……と思ったら、ぐしゃりと潰れた。泣いているのだ。瞳に張った薄い水の膜は、瞬く間に崩壊した。


「僕も行く」

「馬鹿いうなよ。君は病人だ、分かっているのか。今君がすべきことは、ゆっくり休養を取って自分の体をいたわることだ。そもそも、君は働きすぎなんだ。外出もこの頃はよくしている。疲れているんだよ。休んでくれ」

「嫌だ。一緒に行く」

 一人になりたくないんだ。


 君が心の底から振り絞ったであろう言葉に、僕は――正直に言おう――ほとほと困り果てた。僕が声をかけようとしたときには「関わりたくない」、そして出かけようとすれば「一緒に行く」。支離滅裂だ。 

 さらに難題なことに、恐らく両方ともが君の本心であることだ。真っ向から相反する感情を同時に抱くことは、そう珍しいことでもない。感情は理性を容易く飛び越える。


 しかしもっとやっかいなことは、君が僕に縋りついてくることに一種の優越感を抱いたことだ。僕も支離滅裂だ。困り果てると同時に、例えようのない喜びを感じている。自分ではどうしようもない、複雑な心の動き。


 一階からコーヒーを持ってきて、ノアに飲ませた。咳き込む背を摩っていると、ノアの瞼は次第に下がり、暫くすると穏やかな寝息が狭い部屋を満たした。


 コーヒーには阿片チンキが数滴含まれていた。阿片はのめりこむと全てを奪い取るが、適量の摂取は快い眠りをもたらしてくれる。

 濃く刻まれている隈を指でなぞった。君は微かに体を捩ったが、眠りの底から上がってくることはなかった。

 阿片チンキの瓶をベッドの横に置き、部屋を出た。


 濃い霧の中を一人歩いた。


 白く覆われた街の中で、図書館は何かの儀式を執り行う場のように荘重さを湛えていた。神秘的、とでも言おうか。どこかの宮殿のような煉瓦造りの建物は、明らかに異質な雰囲気を纏っていた。


 鉄の門扉を潜ると、そこは別世界だった。


 壁一面にガラスが張られ、その中には古今東西の書物がぎっしりと詰まっている。天井まで続くそれはいうなれば本のタワーだ。

 僕はこれほどまでに大量の、そして良質な本が並んでいるのを見たことがなかった。無限に存在しているこの本一冊一冊に、作家の思想、情熱、そして人生そのものが詰まっているのだ。そう考えると眩暈がしそうだった。


 ノアの部屋が忘れ去られた廃村の図書館だとすると、大英図書館は知の沃野だ。彼がここに好んで通うのも分かったような気がした。


 目当ての本はわりと早くに見つかった。建築関係の棚に一番目立つようにして置かれていたのだ。

 「オスカー・ターナー建築の解剖図鑑」と表紙に金箔で記されたその本はひどく分厚かった。英国を代表する建築家オスカー・ターナーが生涯で建築した世界中の建造物のイラストと、詳細、同時代評などがまとめられている代物らしい。優に二百ページを超えていた。


 僕がこの本をわざわざ探しに来た理由は単純だ。


 ダニエル・テイラーという人物に纏わる全ての根源が、この本に集約されているのだ。僕の魂を絡めとる糸の端を、この偉大な建築家は摘まんでいる。


 ノア。君なら、僕の言っていることが分かるだろう。いや、今はまだ分からないかもしれない。でも、いつかきっと理解できるはずだ。君の前で僕が見せた、行動の全てを。


 君と僕は運命共同体なのだから。


 覚えているか。君が僕と共に暮らし始めたときに、僕が言った言葉だ。君は「訳が分からない」という顔をしたし、実際そう言ったから、もう二度と口にすることはなかったけれど。


 本には、数百もの建築物のイラストが載っていた。一つ一つ丹念に読んでいく。本の半分を過ぎたころ、一つの建造物が目を引いた。


 べドラム。正式名称は王立べスレム病院。

 癲狂院(てんきょういん)だ。



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